実家のこと
昨晩母から電話があった。認知症のため会話が堂々巡りしてしまうのだが昨日はかなり違っていた。全く混乱していて、こちらも何を言っているのか分からない状態だった。自分に電話をして来ているのにいきなり「今日入院したんでしょ?」と言ってきた。こうして電話に出ているのだから入院しているわけない。母の話では昨日の昼頃自分が母に電話をして入院すると言ったという。しかし自分からの電話だというのになぜか電話の相手が入院先の看護師さんだったという。様子がおかしいのでとりあえず落ち着かせて、もう一度思い出したことがあれば電話をするようお願いして切った。すぐにその様子を姉に伝えた。姉も心配になりすぐに確認してくれた。やはり要領を得なかったようだが、父がいないことに気づき市立病院に電話をしてくれた。すると案の定父は入院していた。どうやって病院まで行ったのか、母は病院まで一緒に行ったのかなど不明な点がたくさんあるがとりあえず母を一人で実家に残しておくわけにいかない。自分もすぐに実家に戻りたかったが夜遅くだったので電車がない。結局、一晩待って今日姉が母を迎えに行ってくれた。父の様子も分からないが腸閉塞という診断も出ているとのことだった。やはりこの生活に無理があることを痛感する。両親のことを考えると心配でたまらなくなるし無性に会いたくなる。昔、二人のこどもだというだけで何も心配することなく生活できたあの頃が懐かしい。一生懸命働いて家族を養ってくれた両親が頼もしくてたまらない。両親から多くのことをたくさん学んで来たが、いつも口癖のように「自分たちは子どもに何も残してあげられない。だから教育だけは一番良いものを与えたい」と言っていた。良い学校に行かなくても、両親の元で生活するだけで十分良い学びができていたのに。
福澤諭吉
幕末から明治にかけて活躍した偉大な教育者であり啓蒙思想家である福澤諭吉を知らない人は殆どいないであろう。教育界のことで言えば、商法講習所(のちの一橋大学)、神戸商業講習所(のちの神戸商業高校)、伝染病研究所」(現:東京大学医科学研究所)、「土筆ヶ岡養生園」(現:東京大学医科学研究所附属病院)の創設にも尽力した。早稲田大学創設の大隈重信氏とも繋がりのある人物である。多くの功績を残し、また著作も多く著している。ざっと数えてただけでも70作ぐらいある。その中でも有名なのは「学問のすゝめ」ではないだろうか。この本は非常に有名であるが、公に対してではなく私的に書いた文章が残されている。諭吉の二人の息子である一太郎と捨次郎にあてて毎日書いた「ひゞのをしへ」である。半紙を1/4に切ってその一枚に毎日の言葉が書かれている。諭吉はクリスチャンではなかったとされているがその内容は聖書の言葉そのものである。例えば次のような言葉がある。
世(よ)の中(なか)に父母ほどよきものはなし。父母よりしんせつなるものはなし。父母のながくいきてじやうぶなるは、子供のねがふところなれども、けふはいきて、あすはしぬるもわからず。父母のいきしには、ごつどの心にあり。ごつどは父母をこしらえ、ごつどは父母をいかし、また父母をしなせることもあるべし。天地万物(てんちばんぶつ)なにもかも、ごつどのつくらざるものなし。子供のときより、ごつどのありがたきをしり、ごつどのこゝろにしたがふべきものなり。(10月27日)
文中に「ごっど」という表現があるがこれは「神」をさす言葉である。ただ「神」と表現すると日本の「八百万の神」を連想してしまうので敢えて「ごっど」という表現を使っている。また「てんとうさま」も「ごっど」と同じ存在をさす。
更に聖書の出エジプト記でモーセが神から十戒(じっかい)を与えられるがその1,5,6,8,9,10条に相当する掟を列記している。
ひゞのをしへ 二へん
とうざい、とうざい。ひゞのをしへ二へんのはじまり。おさだめのおきては六かでう、みゝをさらへてこれをきゝ、はらにおさめてわするべからず。
だい一
てんとうさまをおそれ、これをうやまい、そのこゝろにしたがふべし。たゞしこゝにいふてんとうさまとは、にちりんのことにはあらず、西洋のことばにてごつどゝいひ、にほんのことばにほんやくすれば、ざうぶつしやといふものなり。
だい二
ちゝはゝをうやまい、これをしたしみ、そのこゝろにしたがふべし。
だい三
ひとをころすべからず。けものをむごくとりあつかひ、むしけらをむゑきにころすべからず。
だい四
ぬすみすべからず。ひとのおとしたるものをひらふべからず。
だい五
いつはるべからず。うそをついて、ひとのじやまをすべからず。
だい六
むさぼるべからず。むやみによくばりて、ひとのものをほしがるべからず。
諭吉は子どもの教育にはキリスト教の思想が良い、という観点から家庭に聖書やキリストの教えを持ち込んでいる。
実は自分の出身した大学のスクールモットーにも聖書に通じる言葉が掲げられている。一人の総長があそこまでの大きな学校組織を築いたことに驚かされるが、同時に多くの教育者が聖書の影響を受けその思想のもとに教育活動を展開していることに感服する。
人を生かす教育の中心には、何か特別な大きく不動なる「芯」となるものが必要なのだと感じる。日本の学校教育にそれがあるだろうか。
2021年12月18日 「私たちのためのキリストの苦しみ」 安息日礼拝(メッセージは11:00から)
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