昨日の祝福から一転
神様にきちんと繋がっていないからいけない、本当にそう思わされた安息日だった。昨日、あれほど祝福をいただいた1日だったのに今日は一転本当に悲しい1日になってしまった。自分が神様ときちんと繋がっていないから状況により一喜一憂してしまうのだと思う。
午前中は教会に行ったが、非常に苦手な人が一人だけいる。この方は70歳前後のご婦人だが兎に角自分がこの教会を支えて来たという自負がある。しかし古くからいる信徒さんに聞くと、文句を言って長いこと教会を離れていたので決してこの人が教会を支えていたことなど無いと言っていた。この人はとにかく仕切りたがる。というか教会の責任者のつもりでいるようだ。病院に隣接する教会で元々教会堂を建てたのは病院であった。資金は全て病院が負担したのだが、この方は自分の権限で病院には教会を使わせないと主張する。聖書研究の時間もどうでも良いくだらない話、というか自分の得意分野の話をしたがる。そして人が意見を言うと真っ先にそれを否定し自分が最も正しい意見を教会員に教えてあげる、と言った姿勢を貫く。だから教会でもこの人がいると皆萎縮してしまう。今朝、この人からいくつかの嫌味交じりに教会籍の転会について意見を言われた。自分の教会籍は広島にあるのだがそれを青森に転会しようとしたところこの人があれこれと自分なりのルールを主張してなかなかその手続きに入らない。普通の教会書記ならすんなりと済む話がこの人だと3ヶ月たった今も話が全く前に進まない。こんなことなら無理に青森に教会籍を転会しなくてもいいや、と言う気持ちになっている。せっかく教会に行ったのに朝から嫌味を言われて悲しい気持ちになった。
また家に帰って来てから、4月に妻が失効している保険証を使って受診した事がありその後処理で結構面倒な手続きをすることになってしまった。自分では分からないことを書類に書かなくてはならないので妻にLINEで聞いたところ案の定激昂して来た。挙げ句の果てにもう一度離婚届を送るからそれに署名をするように、さもなければ弁護士から連絡が行くことになると返信して来た。書類を書く上で分からないことを聞いただけなのにものの数分で怒りが頂点に達し離婚、裁判という話に展開して行く。今の自分にはこのようなことに対応できるだけの力がないので本当にどうして良いのか分からない。
なぜ普通の生活が送れないのだろう
自分の病気のせいなのか。よく分からないが普通に、穏やかに生活したい。何故自分にはそれが許さらないのだろうか。ある意味理不尽なことでキレられその度に心がザワザワとして落ち着かなくなる。心の底から悲しくなる。おそらく自分に問題があり、問題のある自分を神様が呼び出してくださっている証拠なのだと思うがそれ以前に恐れや不安、失望や絶望といった感情が先に立ってしまう。
今朝与えられた聖句はブドウの木とその枝の譬えだった。
「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。 人がわたしにつながっていないならば、枝のように外に投げすてられて枯れる。人々はそれをかき集め、火に投げ入れて、焼いてしまうのである。 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたにとどまっているならば、なんでも望むものを求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。 あなたがたが実を豊かに結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう。 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛したのである。わたしの愛のうちにいなさい。 もしわたしのいましめを守るならば、あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守ったので、その愛のうちにおるのと同じである。 わたしがこれらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにも宿るため、また、あなたがたの喜びが満ちあふれるためである。」
ヨハネによる福音書 15:4-11 口語訳
イエス様に繋がっていること、耐えず繋がっていることの大切さを痛感した。せっかくの安息日だったのに自分の不信仰のせいで台無しになってしまった。
2021年9月18日 「あなたに欠けているもの」 安息日礼拝LIVE配信
メッセージは12:45から
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