治療困難
自分の仕事が日々変化しており一体自分は何をしているのだろう?と思うことがよくある。用度課とは名ばかりで用度の仕事は殆どしていない。やっていることといえばもう一人のスタッフとともに小口現金を管理する。毎日会計日記帳をつけ税理士事務所とオンラインでつながっているコンピュータに入力する。また給与計算や銀行にて振込依頼をするのも自分の仕事である。設備関係に不備があれば修繕し必要に応じて業者さんに依頼する。基本的には「お金をかけないで」という絶対条件があるので知恵を働かせ廃材のようなものを整理して保管しておく。送迎のドライバーをすることもごく稀だがある。3つの介護施設を併設しているがそちらとのやりとりの一部も担当している。これは殆ど使いっ走りのようなもので頭は使わない。そして牧師先生が来られる部屋の管理、というか掃除。更に毎日の郵便の整理も自分がしている。介護施設と医院の郵便物を仕分けし、医院のものを担当の部門に配る。月はじめは請求書で溢れかえる。また今の時期は固定資産税やそのほかの税金関連の書類が多い。毎日ではないが結構な頻度で来るのが他の病院とのやりとりに関する通信。検査を依頼したり他の病院から患者さんを受け入れられるかの打診など。また検査結果などの通知も多い。恐ろしいことだがそれらの通信全てに自分が目を通す。見ても分からないのだが目を通す。個人情報も多々あるので一瞬見て内容を判断してその後の処理を決める。が、時々「癌」「治療不可」などの文字が目に入ってしまう。患者さんの名前などを見ないように気をつけているが「癌」「治療不可」「家族も承知している」「延命措置不要」などの文字を見ると胸が締め付けられる。当の本人が知らないところで医療関係者や家族の間でこのような単語が行き交っていることを考えると悲しい気持ちになる。
よみがえり
昔、ずっと昔だが洋楽が大好きでたまらなかった頃、あるグループが「I Surrender 」というアルバムを1980年に発表した。自分が高校2年の時であった。まだレコードとカセットテープが主流でCDがまだなかった。このアルバムにあるクラシックをアレンジした「Difficult to cure」という曲がある。このグループはギターのリッチー・ブラックモアという人が有名でこの曲も彼の演奏テクニックが随所に光る。原曲は大晦日に喜びの歌として公演されることが多い曲だが何故かタイトルはDifficult to cure。「治療不可」という言葉と曲のイメージがかけ離れているのでとても印象に残っている。治療不可、治療できない、手遅れ、なすすべがない・・・。
聖書の中には難しい病気が癒される場面がいくつも出て来る。病だけでなく悪霊にとりつかれている人が癒される場面もある。更に、亡くなった方が生き返る場面さえある。預言者エリヤがザレパテのやもめの息子を復活させたのを皮切りにエリシャがシュネムの女の息子を、イエスがナインのやもめの息子、ヤイロの娘、ラザロ、を復活させた。またペテロがドルカスを復活させればパウロは高所から落ちて亡くなったユテコを復活させた。神様の超自然的な力により十字架の場面で人が復活しまたエリシャの骨に触れた死体も生き返った。イエス様の癒しの御手に不可能はない。そのような力がありながら、ある人は癒されある人はこの世の生涯からしばらくの休みにうつされる。その理由や神様のお考えは全く分からないが、全ての人を癒す力をお持ちであることは間違いない。
希望が見出せない時
希望と勇気は、神に完全な奉仕をするために、ぜひ必要なものである。 これらは信仰の実である。神はご自分のしもべたちが試練に遭った時に必要な力を、豊かに彼らに与えることがおできになる。そしてそうしよ うと望んでおられるのである。神の働きに対する敵の策略は、よく計画され確立しているように見えるであろう。しかし神は、これらの計画の最も強力なものでも、覆すことがおできである。そして神はしもべたちの信仰が十分に試めされたことをごらんになる時に、神ご自身の時と方法においてこれをなさるのである。
気落ちしている者に対して、信頼できる救済策がある。それは信仰と祈りと行いである。信仰と活動は、日毎に増大する確信と満足とを与える。あなたは不吉な予感に恐れを感じ、失望落胆に陥ろうとしているであろうか。一見絶望的で、最悪の事態にあっても恐れてはならない。神を信じよう。神はあなたの必要を知っておられる。神はすべての力を持っておられる。神の無限の愛と憐れみは、消耗することがない。神はその約束をなし遂げられないのではないかと恐れてはならない。神は永遠の真理である。神は、神を愛する人々と結ばれた契約を変更なさらない。 そして神は、忠実なしもべたちが必要とするだけの能力をお与えになる。 使徒パウロは、次のようにあかししている。「『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。・・・・ だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、 わたしは強いからである」(IIコリント 12:9、10)。
国と指導者 電子版p104 砂漠へ逃れる預言者
30年近く前に担任した生徒さん。今は東京で立派な牧師先生として活躍していらっしゃる。
5月22日 10時30分~藤井清邦牧師
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