沈む心

現実と祈りの狭間で

毎日の生活に喜びを見出すことがなかなか難しい。人生で色々な困難を経験して来たがこれまでに無いほどの試練を通過して久しい。先日、毎週水曜日に行われている教会の祈祷会で自分が天の御国や再臨を心待ちにする理由を考えていた。純粋にイエス様に会いたい、と思うこともあるが現実の苦しみから逃れたいという気持ちで再臨を望んでいることも多々あることを教会員の前で話した。黒人霊歌もそうである。イエス様を純粋に待っている詩もあるが、多くはこの苦しみから解放してくれるよう訴える讃美も多い。心は晴れないが、しかし職場にはクリスチャンがあまり多く無い。ノンクリスチャンの人に対してクリスチャンの自分が沈んだ顔をしていることは良い証にならないと思い努めて明るく振る舞っている。どのようなときも笑顔で「おはようございます」「お疲れ様です」と声を出すようにしている。でも心の中では「主よ、どうか自分を助けてください」と必死に祈っている。祈っているときは平安な心になる。神様が共にいてくださっていることを実感することもしばしばある。しかし現実を見せられると急に意気消沈してしまう。家庭の回復を望んで祈っていても、そのすぐ後に妻からその祈りとは全く逆のことを言われたり要求される。現実を突きつけられることでサタンの声が聞こえてくる。「お前の祈りは実現不可能なことなのだ。いい加減不可能な祈りをやめてもっと現実を見て生きるべきだ。無駄な祈りをささげて神様を困らせるのは良くない」と言っているように感じる。実際にそうだな、と納得してしまう。今日も仕事が休みだったので外で祈ろうと思い車で出かけた。ある場所で祈ろうとしたときにふと目に入った携帯電話。毎日日替わりで過去の写真が写し出される。子ども達や妻の写真が何枚も出て来て胸が張り裂けそうになった。「もうこういう家庭は再生しないんだよ」というサタンの声が聞こえた。実際にそうなのかもしれない。現実に刻一刻と祈りとは180°反対の方向に話は進んでいる。

やはり無理なのか、でも

現実を突きつけられ涙しか出てこない。急いで車に戻ってサングラスをかけて祈った。今は何も要らない。ただ以前は当たり前だった家庭の祝福さえいただければそれで十分だと真剣に祈った。以前はあれほど好きだったお金にも興味が無い。家族を、そして神様のご臨在を心から望んでいる窮状を神様に訴えた。今日はずっとそんなことをして過ごしていた。少し落ち着いてから海を見たりしたが基本的にはずっと祈って過ごしていた。虚しい心で家に戻って来たが、唯一の救いが日没から安息日になったこと。安息日を心待ちにしていた。この日は何にも邪魔をされずに神様と存分に交わることができる。本当にありがたい。虚しい心のままで安息日を迎えてしまったが、神様に回復していただくこう。

「神が夜の暗い時に歌を与えてくださることを覚えなさい。暗闇があなたを覆うように見えても、雲を見てはならない。黒雲の向こうには、つねに輝く光がある。巣はすべての魂のために光を備えておられる。希望と喜びに向かって、心の扉を開きなさい。」   エレン・ホワイト

祈っても祈っても道が開かれないように思えることが度々あります。神様は本当におられるのだろうかと。「しかし彼は私の歩む道を知っておられる。彼が私を試みられるとき私は金のようにでてくるであろう。(ヨブ23:10)」ヨセフもヨブも神は何一つ無駄なことはなさらないと信じていました。だから次のように言えたのではないでしょうか。「私の足は彼の歩みに堅く従った。私は彼の道を守って離れなかった(ヨブ23:11)」と。 エレン・ホワイト

イェスよこの身を Jesus Keep Me Near The Cross

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