職人の子
私の父はハンドバッグを作る職人である。もうほとんど仕事はしていないが90歳を過ぎても現役で仕事をこなせるだけの技術がある。もともと教員志望であり大学でも教員免許を取得した。歴史好きの父は社会の教員免許を取得したのだ。しかし父の父、私の祖父が心臓を患っていたので家業を継いで子どもたち(父にとっては兄弟たち)を養っていかなくてはならなかった。祖父の仕事はがま口職人。財布ではなくがま口である。これを作っては浅草の浅草寺周辺で売っていた。わずかな稼ぎにしかならない仕事だったらしい。しかも少し働いては休まないと心臓が持たない。父は祖父からがま口作りの手ほどきを受けたがもう少し割の良い仕事をしないと生活できない、とハンドバッグ職人を目指した。目指したと言っても今のように誰かが教えてくれるわけでもなく、ネットでそのノウハウを身につけられる時代でもない。ハンドバッグを買って来てそれを分解して造り方を真似た。なかなか難しい仕事であったが生きるか死ぬかの追い込まれた状況の中必死に技術を習得した。そして立派なハンドバッグ職人として生活できるようにまでなった。自宅の一室で作業をしていたので家にはハンドバッグが沢山あった。ピエールカルダンのハンドバッグが特に多かったのを覚えている。小さい頃は父の仕事を手伝うのが大好きだった。仕事を手伝うと、ラジオを消して色々な話をしてくれるのだ。側で習った通りにミシンをかけた後の糸処理をした。父は落語がすきなので落語を子どもに分かるように話してくれた。両親、祖父母、兄弟3人の7人がいつも一緒にいる家が大好きだった。ところがある時から家族が一人増えたのである。父からハンドバッグの作り方を習いたいと栃木から修行に来た方が同居することになった。毎日8人で生活し更に賑やかな家族になった。経緯は分からないがハンドバッグ職人に弟子入りしたいと、電話帳で一軒一軒探して我が家にたどり着いたようだ。父に弟子がいると言うことが何と無く誇らしかった。
イエスの弟子
聖書の後半を「新約聖書」と言う。新約聖書はイエスキリストの誕生とその生涯から始まる。イエスキリストが公の前で伝道する頃、既に「バプテスマのヨハネ」と言う人が活躍していた。この人も大衆に向けて伝道する仕事をしていた。バプテスマとは洗礼の事である。当時は同じ名前の人が多かったので日本でいう「屋号」のようなものを名前の前につけて呼ぶのが習慣だった。ヨハネ、とだけ言ってもどのヨハネかわからないのでバプテスマのヨハネ(或いは洗礼者ヨハネともいう)と言っていた。他にも父親の名前をとって「ゼベダイの子ヤコブ」やイエスキリストを銀貨30枚で売った「イスカリオテのユダ」などが挙げられる。このバプテスマのヨハネには弟子が何人かいた。ある時バプテスマのヨハネは自分のことを次のように言った。「私は水でバプテスマを授けるが、あなた方の知らない方が、あなた方の中に立っておられる。それが私の後においでになる方で、私はその人の靴紐を特値打ちもない」と。そしてこのイエスに興味を持った、ヨハネのふたりの弟子がイエスの後をついて行った。このイエスに「ラビ(先生)どこにお泊りなのですか」と尋ねるとイエスは「来てごらんなさい。そうしたら分かるであろう。」と言って彼らを招いた。ついていったふたりのうちのひとりは「シモン・ペテロの兄弟アンデレ」であった。アンデレともうひとりはイエスに興味を持ってついていった。これは紀元1世紀当時のユダヤ教の習慣であった。弟子になる方が師匠を決めその人にずっとついていく。いつか師匠の方から声をかけてくれ正式に弟子となる。父のところに栃木からやって来た職人志望の人と同じパターンである。しかし、イエスキリストは多くの場合、当時の習慣とは異なった方法で弟子を集められた。即ち弟子志願者が師匠を選んだのではなくイエス・キリストの方が弟子を選んだのである。
<聖書の言葉>
そこから進んで行かれると、ほかのふたりの兄弟、すなわち、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイと一緒に、舟の中で網を繕っているのをごらんになった。そこで彼らをお招きになると、すぐ舟と父とをおいて、イエスに従って行った。
(マタイによる福音書4:21,22)
また以前に書いたブログに登場したマタイという人も同じである。
<聖書の言葉>
そののち、イエスが出て行かれると、レビという名の取税人が収税所にすわっているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると、彼はいっさいを捨てて立ちあがり、イエスに従ってきた。
(ルカによる福音書5:27,28)
その多くの場合がイエスの方から近づいて、イエスの方から声をかけて招いたのである。イエスキリストは十字架にかかる直前まで弟子たちに多くのことを教えた。最後の晩餐が終わってゲッセマネというところに行く途上でも非常に重要なことを教えた。そして次のように言われた。
<聖書の言葉>
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。
(ヨハネによる福音書15:16)
イエスキリストは、能力が高く正義感が強く、多くの試練を乗り越える力のある人を弟子として招いたのではない。うまくいかないと肩を落としている人、人々から蔑まれ孤独の中にいる人、怒りっぽく感情的な人、お調子者、学歴の無い地方出身の冴えない人、このような人を集めたのである。選んだのはイエスの方だった。しかも最後の最後まで物分かりが悪いこの弟子たちもイエスによって訓練され鍛えられ、12人の弟子のうち裏切ったユダのほか、11名中10名がイエスキリストの名の故に殉教の死を遂げるまでに成長したのである。
選ばれたのは12人だけではない
弟子として12名を選んだイエスキリストであるが、今もイエスキリストはその後に続く弟子を探しておられる。AD1世紀の習慣とは異なった方法、即ち師匠の方から近づいて来て弟子として招いてくださるのである。この拙文を読んでイエスキリストに興味を持ってくださったあなたを弟子として招いているのである。何のために?「実を結ぶため」とヨハネの福音書は語っている。実を結ぶ、とは具体的にいうと「神様のことを人々に伝え、その人が新たに神様を信じる人になること」である。何故、伝道を人間がしないといけないのか。神様が伝道したら手っ取り早いのではないか、と思ってしまうがそうではないようだ。キリスト教の神様は何かをする時、特に伝道をする時には人を用いるようである。米国で活躍した女流クリスチャンにエレン・ホワイトという人がいる。その人が書いた書物に中に次のように書いてあった。
「石を取りのけなさい」(ヨハネ 11:39)。キリストは、石にそこをどきなさいとお命じになることもできたし、また石もその声に従ったであろう。キリストはご自分のそば近くの天使たちに石を取りのけるように命じることもおできになった。キリストのご命令に、目に見えない手が石を取りのけたであろう。しかしそれは人間の手で取りのけられねばならなかった。こうしてキリストは、人は神と協力することを示そうと望まれた。人の力でできることには、神の力は呼び求められない。神は人の助けなしにはすまされない。神は人を強め、彼が自分に与えられている才能と能力とを用いる時、その人と協力される。(エレン・ホワイト 各時代の希望 中巻P351)
キリスト教の神は、神様の方から近づいて来てくれる。修行をして立派な状態になって神に近づくのではない。欠点だらけで、自分自身に嫌気がさして、もう死のうかと思っているその状態でイエスキリストは招くというのである。この拙文を読んだこともあなたに対する招きである。その招きにあなたはどう応えるだろうか。