クリスチャンの離婚

クリスチャンの離婚と希死念慮

クリスチャン同士の結婚については基本的に神の前で生涯相手を愛し続けることを近い婚姻関係に入る。だから離婚そのものが神の前で誓ったことを破る行為になる。教団や教派によって離婚についての規範は異なる。厳しく禁止しているところもあるし、やむを得ない事情に於いて認める場合もある。しかし積極的に離婚を勧めたり肯定することはまずないと思う。

そういう自分は離婚経験者である。30年近く前に1度離婚をしている。離婚を拒否し続けていたら、自分以外の誰かが勝手にサインをして役所に提出してしまったようだ。当時は知識もなく「離婚届不受理申請」も行っていなかったため知らぬ間に離婚させられていた。相手の父親は弁護士でありクリスチャンでもあった。離婚の意味も十分に分かった上でそのような書類の偽造をしなくてはいけないくらい娘をなんとか解放してあげたいと思ったのだろう。相手が再婚したと聞き不思議に思って自分の戸籍を調べてはじめて離婚させられていたことを知った。悲しかった。それから10年ぐらいしてから自分も新しいスタートを切ろうと再婚した。2004年3月のことだった。懐かしくも綺麗な思い出が次々に頭をよぎる。本当に幸せだった。しかし、現在その妻とは別居中。別居の理由は色々あったが当初は離婚につながるものではなかった。しかし2021年になってから、離婚を迫ってくる手紙が頻繁になった。それを拒否してもまた書類が送られてくる。今日は1月27日水曜日。月、火と珍しく手紙が来なかったので今日水曜日には何かしら不幸の手紙が届くと覚悟していた。家のメールボックスには何も届いていない。今日1日は何とか生き延びられた、と思っていた。死刑囚のような生活が続いている。そして昼過ぎに速達の郵便が届いた。想定内のことだったがひどく落ち込んだ。なかなか妻には伝わらないが自分には家族しかいない。とても大切な存在なのだが「お前と同じ籍に入っているだけで頭がおかしくなる。早く自分を解放して欲しい」と言われ続けている。思い返せば妻の言う通り自分の至らなかったところや悪かったところが次々と思い出される。結局自分と関わった人全てが不幸になっている現実を突きつけられ膝から崩れるような感覚に襲われる。イエス様は全ての人を愛してくださっている。それは間違いないことだと今でも確信している。しかし現実に生きているだけで人を不幸にする人間はいると思う。生きるだけ人を不幸にするならば生きていないほうが他の人のためになる。今の自分がまさにそういう存在なのだ。希死念慮。クリスチャンの自殺は基本的に禁じられている。だから自分はいつも「明日の朝、目が覚めないようにしてください」と真剣に祈って眠る。そして朝がきて大失望から1日が始まる。このような生活に意味があるのだろうか。全ての人に「今まで生きていてすみません」と言ってすぐに死にたい気持ちである。ある人は「絶対に死なないで欲しい」と言う。希死念慮と戦う人にこれほど残酷な言葉はない。

クリスチャンの離婚を考える

自分は現在仕事をしていない。現場を離れて休職中である。「職務可能である」と言う診断書を学院長に持って言ったところ色々な理由をつけられて「今から病院に行って、職務不可能という診断書をもらってこい」と言われた。診断書を書いたその病院の先生は大変驚いたし「医の倫理」からそれを最初はかなり拒んでいたが、自分が途方に暮れている様子を見て不承不承その通りの内容の診断書を書いてくださった。それを毎月私学共済に送って傷病手当金をもらっている状態なのだ。クリスチャンの世界と言ってもやっていることは結構際どい。というか法に抵触している。自分はこれからどうしたら良いのかをずっと考えあぐねていた。何日も悩んできた。愛情がある故離婚届を承諾できない、という気持ちと妻に対する愛情があるから彼女が精神的にこれ以上病まないように離婚を承諾するかの二択である。結局今の所自分が出している結論は後者だ。但し、彼女は今すぐにサインしろと毎日のように迫ってくるがその時はもう少しあとではないかと思っている。自分がこの仕事を退職し、退職金をきちんともらってそれを家族に残し自分の亡き後凍結してしまう全ての口座手続きをしてから自分の最期を迎える。自殺も離婚もクリスチャンには許されていないが仕方ないことだと思う。自分を休職させている機関も自主退職してくれるなら渡りに船であるし退職後に自殺しようが何しようが関係ないと思うはずである。

クリスチャンの離婚と信仰

遠藤周作さんの著書に「沈黙」という本がる。考えさせられる小説であったが、今自分と神様との関係を考えたときに少し似ている部分を感じる。祈っても祈っても道は開かれず祈りとは正反対の方向に導かれる。これ以上落ちるところはないだろうと思った翌日に更なる底に落とされる。現実的に今日も離婚を迫る手紙だったが市民税の督促状が同封されていた。ずっとお金を払っていなかったようである。3期分の42,000円を払わなくてはならなかったが、前述のように無職で傷病手当金をもらう自分にとって子どもの学費を払う以外のゆとりは全くない。でも何も言えないのでまたカードローンのようなところを頼ってしまった。どうせ死ぬからいいや、という気持ちである。毎日毎日涙を流して悔い改めて、真剣に自分の祈りを捧げてきた結果離婚と借金という場所まで導かれてきたのだ。勿論、神様は「私はここにいるから心配しないでいいよ」と優しく語りかけてくれる不思議なことがなんどもあった。その都度神様の存在を確信してきた。

その神様が

「あなたがたの会った試錬で、
世の常でないものはない。

神は真実である。あなたがたを
耐えられないような試錬に
会わせることはないばかりか、
試錬と同時に、それに耐えられるように、
のがれる道も備えて下さるのである。
(コリント第一10:13)」

There hath no temptation taken you
but such as is common to man:
but God is faithful,
who will not suffer you to be tempted
above that ye are able;
but will with the temptation
also make a way to escape,
that ye may be able to bear it.

と言われる。

この試練も自分にとっては耐えられる試練だというのだろうか。自分には決してそうは思えない。大切な家族を失って、それでも生きて行くだけの力も精神力もない。まず気力がない。神様が自分の人生をどこまで導こうとしているのか聞いてみたい。

どんな時にも、どんな場所でも、
どんな悲しみにも、どんな苦しみにも、
前途が暗く将来が困難に見えて
無力と孤独を感じるときにも、
信仰の祈りに答えて、助け主が送られる。
この世のすべての友から
離れるような事情が起こるかもしれない。
しかし
どんな事情もどんな距離も
われわれを天の助け主から
離れさせることはできない。
どこにいようとも、どこへ行こうとも、
主はいつもわれわれの右にあって、
力づけ、助け、ささえ、励まされる。  
(エレン・ホワイト 各時代の希望Ⅲp154)

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