どこでもドア

青森に

先日、公園を散歩している時に30代ぐらいの男性に声を掛けられた。「この辺りにどこでもドアがあると聞いて来たみたが見つからない。どこにあるか知らないか?」とのことだった。そんなことが話題になっていることも知らなかった。そもそもどこでもドアなるものが何かも殆ど知らない。ドラえもんに出て来るアイテムであるという程度の知識しかない。どこにあるかは分からないことを伝えると男性は別を探してみると言って足早に去っていった。

気になったのでネットで調べてみると、8月に某ハンバーガーショップに設置されその後近隣の公園に移設されたとのこと。結構話題になっているらしい。

別にどうでも良い話題である。が、しばらくして先ほどの男性と再び会った。今いる公園内でどこでもドアを見つけたという。聞いてもいないのに詳しくその場所を教えてくれた。興味はなかったが折角教えていただいたので見に行ってみた。確かにあった。が、ネットで見たのはピンク色だったが今見ているのは黄色。誰かがフェイクをおいて行ったのだろうか?それもどうでも良いことである。が、ふと「本当にどこでもドアがあったらどこに行きたいか」を考えてみた。

突然の電話

1ヶ月ほど前になるが突然妻から電話があった。大体ろくな電話ではない。こちらが落ち込むようなことを一方的に言って突然電話を切るパターンが殆どなので、一瞬ためらったが祈りながら電話に出た。すると聞き覚えのある懐かしい声。次男だった。何が起こっているのか理解できないぐらい驚いた。1年ぶりに聴く次男の声。涙が出そうだった。1時間ほど喋ってしまったが話は尽きない。至福の時間だったがそれから何度となく次男が電話をしてくれるようになった。大体週に1度。しかし3回掛けてくれた週もあった。堰を切ったように話す次男が可愛らしくてたまらない。毎回電話の最後に一緒にお祈りするのだが、このままずっと電話が切れなければ良いのにと思う。

次男の悩み

次男と話しているうちに少し気になることがあった。やはり集団の中ではあまりうまく行っていないのかもしれない。次男は長い間入院生活をしていたのである面について遅れがある。歩くのも喋るのも遅かった。引っ込み思案で、体調の良いときは常に笑顔。本当に天使のような子であるが病状はなかなか好転せず時間ばかりが過ぎてしまった。病院よりも自宅で過ごせる時間が多くなって来たのは5歳になってから。それでも時々入院しなくてはならなかった。だから幼稚園も年長の途中で入れてもらった。友達と遊べずいつも先生が面倒を見てくださった。小学校に入学したものの、この頃から周りにからかわれることが増え「癇癪を起こす」ことが多くなって来た。今まで天使のようだった子が手がつけられないほどになってしまう。これには閉口した。教員である妻は自分が授業をしている最中に小学校の先生に呼び出され次男を迎えに行くこともよくあった。その頃よりも道理がわかるようになり、感情のコントロールも少しはできるようになって来ているがやはり友達にはからかわれたりいじめられたりするようだ。そんなことを次男が「少し恥ずかしいことだけど内緒でパパに教えるね」と教えてくれた。

この子が天使であること、最高の能力が神様から与えられていること、大切な大切な宝物であることを何度も言い聞かせた。泣きながら伝えた。そして一緒に祈った。

もしも、どこでもドアが実在するのならこのドアを開けてすぐに次男のところに行き息が止まるほど強くハグしてあげたい。「大丈夫、君は間違いなく天使だから。辛かったら学校なんていかなくても良いから、自信を失わず天使のままでいて」と言ってあげたい。

何でいじめるのだろう?何でからかうのだろう?

そんなことを思っているうちに、ふと自分も小学生時代友達をからかったことがあることを思い出した。小学生時代だけではない。大人になっても人をバカにしたり自分よりも劣る存在と見下したことがあることを思い出した。

自分の罪が子どもを苦しめている気がして余計に悲しくなった。

キリストの愛

バカにされ、罵られ、いじめられた代表選手は何と言ってもイエス様だと思う。

「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。

「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。

この様子を父なる神様はどのように見ていらしたのだろう。十字架の場面について父なる神様はその光景をみることができず、あたりが真っ暗になった。

苦痛と苦悩の中にあってもまだイエス様は

「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。

と言われた。

自分が次男に言ったことは、「悪口を言う人は心が寂しい人だから、同じように悪口を言ったり怒らないでその人から離れるか黙るかしなさい。絶対に相手を叩いてはいけません」と言うこと。自己防衛の手段を教えたが相手を愛することは教えていない。復讐することは良くないが、愛することは容認できない。イエス様の次元が違いすぎる愛。次男とダブらせて考えるとき、自然とイエス様に「申し訳ありません」と謝りたい気持ちになる。

どこでもドアがあれば…。

やはりイエス様のところに行きたい。

聖書研究ガイド21年4期2課 1080p

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