疑いは危険な種

ひたすら聖書を学ぶ

今日は仕事が休みだったのでいつものように部屋の片付けや選択などに時間を使い、その後聖書研究や聖書通読などをした。今日はあいにくの天気なのでいつものように自然界に出かけることができないため青森県立美術館にでも行こうと思っていた。9月いっぱいコロナのために休館しており10月に入った今日から再開だったので行こうと思ったが、何故か途中で気持ちが萎えてしまった。

行きたくない、と思ったのではない。美術館に行くよりもしなくてはならないことがあると思っただけだ。このところ聖書に関するいくつか調べたいことがあった。少し時間がかかりそうだったので休日にやろうと思っていたが、今日が絶好のチャンスだと思いずっと聖書を調べていた。まだ疑問が解消されたわけではないがいくつかの点について光が見えた気がした。

またしばらく前に中学時代の友人に誘ってもらいクリスマスの讃美歌をまたリモートで歌うことになっていた。数曲あるのだが近日中に最初の曲が締め切りになるので録画もしておこうと何度も撮り直しながら撮影した。

ということで家から一歩も出ずに過ごした1日だった。気づけばサンセット間近になっていた。

やはり自分は間違っている

自分の所属する教団では毎朝のディボーションに活用できる読み物が用意されている。バックナンバーだが自分の好きな言葉がたくさん収録されているものがありそれをデータ化しようと毎日取り組んでいる。今日、データにした部分を読みながら「あ、これは自分のことだ。やはり自分の信仰のもちから、信仰生活の歩み方は間違っている」と思わされた。毎日毎日抜け出せない不安や寂しさ。それを抱えながら神様に祈り求める。そんなことを繰り返しても一向に前進できるている気がしない。そのような状態で与えられた言葉だったので、とても心に響いた。

今日出会った言葉

絶えず疑いを口にし、信仰の雲を散らすためにさらなる証拠を求める者たちは御言葉に立脚していない。彼らの信仰は状況の上に置かれている。それは感情に基づいている。たとえ心地よいものであったとしても、感情は信仰ではない。私たちの天の希望は神の御言葉を基礎としていなければならない。

常習的に疑い、いつも自己に目と思いを向ける事は非常に不幸である。あなたが自己を眺め、自己を思いと会話の中心としているうちは、キリストの姿に変えられることを期待することができない。自己はあなたの救い主ではない。あなたは自分自身の内に贖いの資質を持たない。「自己」はあなたの信仰を乗せるにはあまりにも浸水しやすい船である。あなたがその船に信頼するのと同じ位確実に、それは沈没する。救命ボート、救命ボートに乗りなさい。それがあなたの唯一の安全である。イエスはこの救命ボートの船長であって、1人の乗客も失ったことがない。

手紙 11  1897年(今日の光 「天上で」20210409)

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