神に委ねる

神に委ねる時の心境

今日はふたつの病院に行った。午前中は心療内科。午後は整形外科。整形外科は数ヶ月前に痛めた膝、半月板損傷の治療のためである。治療といっても半月板の損傷は回復しない。痛みを抑える注射をしてもらうための通院だ。2週間に1度ヒアルロン酸ナトリウムのアルツを注射してもらう。膝の注射というのは腕などと違ってかなり痛い。何度も打っているが慣れる事はない。注射の際はどうしても身体に力が入ってしまう。注射といえば思い出すのが10年以上前に受けた手術の際に打たれた脊椎の麻酔注射。手術の前に何度か説明を受けたがどうしても脊椎に注射をするイメージがわかない。同僚の先生にどの様なものかを尋ねたがその先生は盲腸の手術の時に脊椎の麻酔を受けたという。とにかく針が太くて痛かったと言っていた。この話を聞いて更なる恐怖に襲われた。手術をするのは隣県の専門病院で自宅からは高速を使って2時間ほどかかる。あまりにも怖くて手術前に1度病院を尋ねたことがあった。主治医に、正直な恐怖心を訴え当日のシミュレーションをしてもらいたいとお願いした。先生も非常に親切で優しい方で訳の分からない申し出を受け入れてくださった。麻酔をどこに打つのか、背中をどの程度曲げれば良いのか、痛みはどの程度でどれぐらいの時間続くにか等々丁寧に教えてくれた。硬膜下血腫の手術の時もそうだった。とにかく経験のない場所に注射をされたりそこにメスが入る事は恐怖である。しかし、その時がくればもう医師に委ねるしかない。歯を食いしばって祈りながらとにかく信頼して時がすぎるのを待つしかないのである。

神に委ねる経験

数日前の投稿から離婚の危機について書いてきた。全く情けない話である。自業自得、因果応報ともいうべきか。人のことを考えずに自分勝手に生きてきたその報いを受けているのかもしれない。或いは神様の温情で、これ以上神様から離れる生活をしていてはいけないという警告なのか、とにかく離婚の寸前まで追い込まれている。今日にも離婚届の催促をする手紙が届くかもしれないと恐れを感じる日々を送っている。1度はもうこんな人生はいいや、という気持ちになった。バアルアシュラの預言者と戦った勇者エリヤが、勝利の直後にイゼベルからの報復を知った時にしたのと同じ祈りが習慣になっている。「神様、もう十分です。今晩寝ている間に私の命をとってください」と。しかし、昨日あたりからクリスチャンとしてまだやっていないこと、経験していないことがあることに気づき、どうせ捨てた人生だからもう1度チャレンジしてみようかな、という気持ちになりつつある。それは「聖霊を受ける」経験である。イエス様はこの地上を離れる前に弟子たちに

しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、
わたしが去って行くことは、
あなたがたの益になるのだ。
わたしが去って行かなければ、
あなたがたのところに助け主はこないであろう。
もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。

Nevertheless I tell you the truth;
It is expedient for you that I go away:
for if I go not away,
the Comforter will not come unto you;
but if I depart, I will send him unto you.

ヨハネによる福音書16:7

と言われた。イエスキリストは見える形では存在されなくなるがその代わりに「聖霊」の神様が与えられるというのである。自分の現状は明日の命もわからない様な切羽詰まった状態、いわば「まな板の上の鯉」である。ならばもう1度この神様を信頼して委ねてみようかな、という気持ちにさせられている。

神に委ねる、神を信じる祈り

何度も紹介しているエレン・ホワイトという人が「初代文集」という本の中で次の様なことを言っている。少し長いが全文を紹介したい。

イスラエルの中に信仰と力がなぜもっとないのだろうかと、わたしは天使にたずねた。

「あなたがたは、主の手をあまりに早く放し過ぎる。あなたの願いをみ座に訴え、強い信仰を持って訴えつづけなさい。約束は確実である。あなたがたが願い求めることは、受けると信じなさい。そうすれば、そのとおりになる」と天使が言った。それからわたしは、エリヤのことを示された。エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、熱心に祈った。彼の信仰は試練に耐えた。彼は、主のみ前で7回祈った。そして、ついに、雲が現れた。われわれは確実な約束を疑い、われわれの不信仰のために、救い主のみこころを傷つけていたことを、わたしは悟った。「武具を身につけなさい。その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それが、悪しき者の放つ火の矢から、心臓、すなわち生命そのものを守るのである」と天使が言った。もし、敵が、失望した者の目をイエスからそらして自分たちをながめさせ、彼らに、イエスの尊さ、イエスの愛、イエスの功績、イエスの大きな憐れみなどを考えるかわりに、自分たちの無価値なことを考えさせることができるならば、彼は、彼らから信仰のたてを奪い去って、自分の目的を達成することができる。人々は、敵の火のような攻撃にさらされる。であるから、弱い者は、イエスを仰いで、イエスを信じなければならない。その時、彼らは信仰を働かせるのである。

自分の状況、離婚の危機から救ってください、とも祈りたいが自分が最も求めているのは聖霊の神様である。聖霊を受ける、聖霊に満たされる事はイエスキリストの約束であり人類に対する願いである。イエスキリストを信じて祈り続けることで聖霊の神様が与えられるまでこの祈りを続けてみたいと思っている。果たしてどうなるのか。

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