教育の中心

教育の中心にあるもの

「教育」という言葉から何を連想するか。学校教育、社員教育、教育委員会、教育基本法等々。色々な言葉が連想される。自分は教員なので「学校教育」が頭に浮かぶ。しかしその言葉が持つ意味と本来の意味には大きな違いがあるように思う。自分が教員になるために教職課程のある科目を受講した時に先生がおっしゃった言葉が非常に印象的で今も心に残っている。「教育」には自分たちがイメージする「教える」という意味は本来ないとのことだった。ラテン語からきているeducationには「教える」ではなく「能力を引き出す」という意味がある。特にducには「導き出す」という意味があるとのこと。英語のproduceなどはその例として挙げられる。教育は「教える」という要素も含まれるがそれが全体像になっている気がしてならない。変な表現だが現在の学校教育では「一冊の本を教える」ことが教育とされていることが多いが「本の読み方を教える」のが本来の学校教育のあるべき姿ではないかと思う。もしも教育が「引き出す、導き出す」という意味であるならば多くの教員が間違ったことをしていることになり、それは現場の責任ではなくカリキュラムを作る文科省、中教審に問題があるのかもしれない。教えた通りの答えができる子は優秀でそうでない子は劣悪とでもいうように生徒を得点で選別することが悲しくてならない。以前にも投稿したが、成績は決して良い方ではなくても医学部に進学した生徒を多く知っている人間としては、生徒の能力を引き出せなかった教員の能力を疑いたくなってしまう。

教育の中心にあるべきもの、それは生徒を「受容する愛」だと自分は考えている。その愛の眼でひとりひとりを見ていると、それぞれに輝く個性と能力があることに気づかされるのである。

例えばこのような生徒を何人も見てきた。それはノートがとれない生徒である。教員は学習姿勢や学習習慣を身につける観点からノートを提出させることがある。しかし、ノートがとれない生徒は殆ど白紙で提出してくる。模範的なノートを貸して写すように促しても出来ないのである。これを多くの教員は「出来ない生徒」と決めつける。勿論書くことが苦手なので試験もあまり得点できない。しかし、こういう生徒の多くが言語能力に長けていることを教員は見抜いているだろうか。こういう生徒は記憶力がよくいつ、どの先生が、どのようなことを言った、ということを克明に覚えているのである。彼らには板書やノート、鉛筆以外の勉強方法があるのだ。画一的に指導することこそ平等であると思っている教員や学校ではこのような能力に長けている生徒の「能力を引き出す」ことはできないであろう。

教育の中心を実践する

聖書に出てくるイエスキリストという方は人を育てるプロフェッショナルである。ガリラヤの田舎出身で気性が激しく常識に欠け教養のない人を集めて弟子にした。勿論別のところ出身の学のある人も弟子にしているが多くはガリラヤ地方の出である。彼らを3年半教育するが最後の最後までイエスキリストをがっかりさせるような発言や行動が見られた。しかしイエスキリストは彼らに対して常に「受容する愛」を実践した。「お前たちはいつになったら…」とがっかりしながらも彼らの将来を見据えて「彼らは必ず立派な使徒になる」と誰よりも信じて忍耐強く教え続けた。そして実際12弟子たちは使徒としてイエスキリストが地上からいなくなった後も勇敢な伝道者として働くのである。ヨハネ以外の使徒たちは殉教するが最期までイエスキリストに忠実に生きる使徒であった。人間を教育する際も長所を伸ばして短所をなくす、という方法が取られるがイエスキリストの場合は少し違う。短所を長所に変えるのがイエスの方法だ。いつもでしゃばりで何かあればいつでも一番に発言するシモン・ペテロ。彼のでしゃばり癖はキリストのためには黙ってはいられないという正義感に変えられたのである。そのほかの使徒たちも短所を長所に変えられている。イエスキリストこそ人を育てるプロであり人の能力を見抜いて引き出すことのできる最高の教師である。

教育の中心と理解者

自分のしていることが誰かに評価されていたり理解されていると、それはやる気になる。どれだけ辛くても理解者、わかってくれる人がいることは人を勇気付ける。「踊る大捜査線」というドラマがあった。青島刑事が懲戒を受けて交番勤務に異動となる場面がある。青島刑事と仕事をするようになって室井管理官の気持ちが少しずつ変化して行く。現場を理解しそこで払われている犠牲を目の当たりにして警察の縦割り構造の改革に努めようとする。その結果青島刑事、室井管理官が査問会議にて処分されるのである。室井管理官はお咎めなし、青島刑事は交番勤務に降格となるのだが、その時に青島刑事が「上に、自分のことを理解している人がいるから頑張れます」と室井管理官に言う場面がある。

自分のことを分かってくれる人がいると言うことがどれほど力強いか、勇気付けられることか分からない。

今日、ある教会の礼拝メッセージを視聴していて、理解者がいることで救われた人の話を聞いた。バルナバと言う人だ。彼は後に雄弁で教会をいくつも組織するパウロの能力をいち早く見抜き彼と一緒に働きたく、実家のあるタルソまで探しに行くのである。もしバルナバの存在がなかったならパウロのその後はどうなってしまうのかと思うくらい重要な出会いだ。

自分も誰かの能力をきちんと見極め、「受容する愛」でその能力を引き出せる人物になりたい。そして理解者に対して心から感謝し、他の人にとって良き理解者になれるよう努力したいものである。

礼拝メッセージはこちら(34:44あたりから)

 

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