卒業生のこと
昨晩、急に数年前の卒業生か連絡をいただいた。彼女は付属の中学校出身ではなく高校から自分が務めていた学校に入学してきた。中学時代に何度も学校見学に訪れてくれたので入学前からよく知っている生徒であった。出身は京都であるが親御さんの教育方針で中学は沖縄の学校に在学していた。沖縄と言っても知る人ぞ知る久高島。神々の宿る島と言われあまり近寄ることが許されないことで有名な島である。沖縄本島南部からもよく見えるさ程遠くない離島であるが謎の多い島で中学時代を過ごした彼女が広島にある本校に入学してきた。明るく人柄がよく誰に対しても親切で誠実な彼女は入学してすぐに沢山の友達に恵まれた。少し天然なところはあるが実直で自分の意見をはっきりともつ彼女は2年生の時に生徒会の会長に選ばれた。学校行事の幾つかを大きく改善し生徒のために献身的に働く会長として支持された。そんな彼女からの連絡だった。彼女との接点は授業が主だったが何かにつけて色々な相談をしにきてくれたので、特に悩みの多くを共有してきた印象がある。彼女は自分が教員を辞めたことを知り驚いて連絡をしてきてくれた。最近この手の連絡が多いのだが急な連絡だったこともあり非常に驚いたがとても嬉しかった。彼女は現在アニメーター、イラストレーターの勉強をするために留学している、テネシーにある系列の大学でデザインの勉強をしているのだが将来は多くの人を絵やロゴを通して幸せにすることを夢にしている。昨晩から今日にかけて何度かメールの交換をしたが、自分が発した何気無い言葉や態度が高校時代の彼女を大きく支えていたとのコメントをいただいた。恐縮である。自分の様なものが誰かの役に立つ、誰かを支えるなどおこがましいが彼女はその様に評価してくれていた。そんなことを言われたらまた教員に戻りたくなってしまう。
祈りの本質
彼女のことをこれから毎日祈り続けることを約束した。早速昨晩から彼女のことを祈り続けている。そこで考えたのだが祈りとはそもそも何なのだろうか。自分の祈りを思い出してみるとその多くの時間を「願い」と「とりなし」に用いていることが分かる。毎日1時間を超える時間祈り続けるがその多くが「願い」である。自分の願いもあるが自分の周りにいる人の願いをささげている。ある人にはふさわしい伴侶を与えてくださる様に、ある人にはその病が癒されて健康が与えられる様に、ある人が真の神様を受け入れお酒をやめて神様との正しい関係に入れる様にと祈る。そして自分自身の悔い改めや自分の願いを付け足して祈りに加える。しかし、今日ある礼拝説教で祈りの本質に迫るお話を伺った。祈りとは神様との個人的かつ人格的な交わりである、とのことであった。そうであれば自分が一方的に願い事を連ね喋り続けていることが果たして、イエス様との個人的な交わりと言えるのだろうかと疑問
に思った。更に牧師は続けて、個人的なイエスキリストとの交わりを通して心に天国を再現することこそが祈りであると言う。自分がしている祈りとは程遠い気がする。何か自分が祈っていると思っていたものが本来の祈りとは別次元のものであることが示された気がした。祈りの本質をもう一度考えながら自分の祈りを正しいものにして行きたいと思わされる安息日であった。
2021年6月5日 「主のそば近くに」 礼拝LIVE配信 メッセージは24:40から
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