人の歓心を買う

今朝の御言葉

今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。
ガラテヤ人への手紙1:10

今朝、この聖書の言葉が与えられた。毎日自分のことが全部分かっているかのようにタイムリーな言葉が与えられているが今朝の言葉は今までと少し違っていた。どういうことなのだろう?と考えながら朝の祈りをささげていた。

美味しい話

昼前から何度も先輩からメールが送られて来た。239kgのクロマグロが釣れたと大喜びで第一報を送ってくれた。釣り好きの自分にとっては羨ましいと思うのは勿論であるが仕掛けやタックルが気になって仕方ない。一通り教えてもらったが死闘90分とのこと。自分が所有する1億7000万円の船で大島で釣り上げた。今年は異常気象だとも言っていた。

そんな話の中で私の転職を心配してくれた。長々とメールの交換をした後で「投資するから港区でフリースクールをやらないか?」と誘われた。二つ返事で「はい、お願いします。投資してください」と言いたいところだったが、念のため自分の理想とする教育について簡単にまとめ読んでもらった。多くの友人や先輩後輩の中でこの先輩以上に親しくしている人はあまりいない。とにかく自分のことをよく理解してくださる方だが信仰の部分で少し食い違いが生じる。いつもそうである。お互い大人の対応で決してぶつかることは無いのだが理解し合うこともない。自分は教育を通して伝道をしたいのだが、先輩はその方向性に消極的或いは否定的である。

とりあえず今日のところは「今回は少し見送る形で・・・」と言ってしまった。経済的にも自分が一緒に教育活動をしたい仲間を雇うのに十分な費用が与えられる。しかし経済的にお世話になるということは出資者の言うことを聴くと言うことでもある。信仰教育はだめ、と言われれば従うしかない。だから志が100%同じでなければ、投資を受けることも不自由になるだけである。

もう1年以上前から声を掛けてくださっている方もいる。病院の事務長で招聘したいとおっしゃる。空いている時間は、家を一軒提供するので教育活動に使って構わないとおっしゃってくださる。しかも給与は今の3倍。しかし、こちらも今の所断り続けている。

この世

朝与えられた聖書の言葉の意味が「このことだったのか」と思い出される。仕事がないのだから格好つけないでさっさとうまい話に飛びついたら良いのに、と言われそうである。その通りである。しかし、これから一緒に教育伝道をしてくれる仲間に対してそして何よりも神様に対して不誠実であってはならないと思っている。経済的にどれだけ保証されてもやはり信仰教育をおそろかにはできない。

2023年2月11日 「思いやりを示す」 安息日礼拝LIVE配信

 

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