クリスチャンの進路と一般の進路
教育現場においてよく「進路」或いは「進路指導」なる言葉が使われる。自分はこの言葉を使うときに注意、また意識して使う様にしている。一般でいう「進路」とは上級学校のこと或いはその進学先を指すことが多い。辞典で調べると「進路」は進む道、方向のことをさす。人間が生きて行く道や方向こそが進路であり人生のある時期にのみ考えるものではない。例えば就職も進路のひとつであるし、結婚や家庭環境の変化による方向の舵取りも進路なのだ。決して何かを下にみているのではないが、大学などを選ぶことを進路というならこれほど容易いことはない。仕事を持って家族を養う様になってから迎える進路の方向転換ほど難しいものはない。家計の急変や介護、病気や家族の死など。今まで走っていた線路が途絶えてしまうのだ。そこから道を模索していくことは容易なことではない。クリスチャンは一般でいう上級学校への進学だけではなく人生全般を含めた道を「進路」と考える。どの様に生きるか。そしてどの様に、誰のために生きて死ぬかを考えるところまでが進路なのである。残念ながらベネッセはその様なことを教えてくれない。単なる(と言っては申し訳ないが)進学や進学指導を進路、進路指導と言っているのである。
クリスチャンの進路とその先にあるもの1
祖父はもともと新潟の庄屋の息子であった。小さい頃は馬に乗って小学校に通っていたというからかなりのお金持ちであったのだろう。しかし、キリスト教に関心を持ったことから家を勘当され、東京に出てきた。心臓を患っていたこともあり思う様に仕事はできなかったが、同じ信仰を持つ女性に出会い子どもにも恵まれた。しかし、この奥さんが亡くなってしまうのである。子どもをおんぶしながら夕方散歩に出るたびに涙が流れて仕方がなかったという。不憫に思った奥さんの実家がその妹を後添えとして送った。祖父は奥さんを亡くしその妹と再婚したのである。それが私の祖母である。その後8人の子どもにも恵まれ前の奥さんの子どもを含め9名の子どもの父親となった。しかし、昔のことである。病気で前妻のとの子どもと父のすぐ上の兄二人を病気で亡くした。まだ幼い子どもをたてつづけにふたり亡くしたのである。祖父の手紙にはその時の辛かった様子が記されている。自分も子どもの後を追いたい衝動に駆られるが、残る子どもたちのことを考えその気持ちを抑えたという。祖父は今から45年前に亡くなった。同居していたので本当に辛かった。因みに祖母はその7年後に亡くなったが自宅だったので亡くなる一部始終を自分は見ていた。父は先が長くない祖父に「何か家族に宛てた手紙でも書いて欲しい」と言ったそうだ。祖父は病院で亡くなったのだが病院の枕元からその手紙が見つかった。祖父は戦時中、特高警察に捕まりキリスト教信仰をすてる様迫られるがどの様なことをされても決して背教することはなかった。祖父の特攻警察に言った言葉が本になっており記録として残っている。「戦時下のキリスト教運動 昭和19年」に祖父、林作の言葉がある。本の内容とは違うが前出の遺言とも言える最後の手紙には特攻警察で拷問を受けたことと我が子を失った時の辛かった様子が綴られている。
「人生がうまくいかなくなりどうしようかと弱音を吐き、信仰を捨ててしまおうかという誘惑にあうときも幼いふたりの子どもが励ましてくれる。子どもたち、孫たちよ。どの様なことがあってもイエス様から目を離さず信じ続け必ず天国に連れて行っていただく様に。待っている。」
と書かれている。祖父の進路、それは天の御国でありそこに行くまでいろいろなことがあるが決してそこから目を離さず神様を信じ続けなさい、という言葉だ。数億円の遺産以上に価値のある言葉だ。
クリスチャンの進路とその先にあるもの2
自分には忘れられない人が何人もいるがritsukoさんもそのひとりだ。自分より1つお姉さんだがいつも優しく笑顔を忘れず絵に描いたようなクリスチャンである。冗談が通じる方でいつも自分のつまらない冗談に笑ってくれる。元の奥さんがritsukoさんと同級生で非常に親しい間柄だった。子どももritsukoさんには懐いていて、可愛がってもらっていた。そのritsukoさんが10年ほど前に亡くなってしまった。当時沖縄の系列中学校でご主人とともに働いていた。とても悔しいことだが、何故か当時沖縄の系列中学校では定期健康診断が実施されていなかった。系列の病院があるのにもかかわらず。もし健康診断を受けていれば早期発見ができたかもしれないと思うと悔しくて悲しくてたまらない。ritsukoさんはガンに侵されていた。発見された時は手の施しようがない状態だったという。系列の病院のホスピスに入院して最期を迎えた。後から聞いた話であるが、ristukoさんは最期に眼をしっかり見開いて天井を指差して「天国だよ、天国に行くんだよ。O.K.?」と言ったそうだ。尊敬するritsukoさんも天の故郷を目指して立派に歩んだひとりだ。
クリスチャンの進路とその先にあるもの3
既に亡くなられているが三浦綾子さんの小説に「塩狩峠」という著作がある。これは実際にあったことを実話と殆どの変わらない様に小説化したものである。長野政雄さんという方がその主人公である。小説の中では永野信夫という名前になっている。塩狩峠を進む列車(当時は蒸気機関車)の最後尾の連結器が峠を登りきる前に外れてしまい峠を逆走してしまう。非常用のブレーキをかけるも完全には止まらず長野政雄さんは客車にいる自分の仲間に軽く頷くと次の瞬間に逆走する客車の車輪めがけて飛び込む。長野さんを巻き込みながら客車は完全に停止する。勿論長野さんは即死である。
人生にはいつどの様なことがあるか分からない。自分の最期さえもなかなか分からない。いつどの様に最期を迎えるにしても、前述の3名の様に最終進路を天の御国に見定め、神様の役に立って死にたい。
自分の最終ゴールや死に方、生き方を考えて初めて「進路」と言えると思う。一般の「進路」という言葉が軽薄すぎて、受験屋さんが言えば言うほど愚かしく聞こえる。世界中の全ての人がその進路を天の御国にすることを神様は望んでおられるし、そのためにイエスキリストは人類のために命をささげてくださった。進路について真剣に考える時間を持っていただけたら幸いである。
塩狩峠の動画はこちらを
また時間のない人向けに小説をダイジェストで紹介しているチャンネルもあるこちらを視聴していただきたい。