一人を探す

ある患者さんのこと

一昨日、とんでも無いことが起こった。とんでも無いと言っても自分がひとりでパニック状態に陥っただけのことである。

日、火、木はまず遠方の透析患者さんを迎えに行くところから一日の仕事がスタートする。遠方ということと弘前を通過するので信号待ちに時間を要することもあり40分で着くところを50分の計算をして出発する。朝なので1分遅れると捕まる右折信号が一つ多くなる。いつもと同じ時刻に医院を出発し弘前を通過して患者さん宅に着いた。透析でも外来でも患者さんはご高齢の方が多く、玄関先に出て待っていてくださる。これが結構プレッシャーで寒いこの時期や雨の日でも早くから待っていてくださるので遅れないように心がけている。この透析患者さん宅には8時5分前に着くようにしている。自宅前に車を止めているとしばらくして出てこられる。車を停車させてから患者さんが家から出てくるまでの時間がおよそ2分。患者さん宅を出発するのがおよそ8時。医院到着が8時35分になる。

一昨日、いつものように8時5分前に到着して患者さんが家から出てくるのを待っていた。2分を過ぎてもまだ出てこない。少し変だな、とは思ったがもうしばらく待ってみた。が、一向に出てくる気配がない。8時10分になった時に妙な胸騒ぎがしてドアを開けて中を覗かせてもらった。実際には自宅ではなく作業場に隣接する事務所である。中に簡易ベッドやソファー、机などがある。ソファーの上には透析用のいつもの荷物がおいてあった。病院に行く準備をしていたが、何らかの事情で事務所にはいない。

こういう時、何故か最悪な方向に思考が向かって行く。自宅から事務所に来るまでの何処かで事故にあったのか。あるいはこの作業場のどこかで倒れているのか。そんなことを考えた。

個人差もあるが透析患者さんの殆どが透析治療の後かなりぐったりしている。場合によってはすぐに動けず1時間ぐらい休んでから車に乗り込むこともある。そんな大変な状況を毎日見ているので、この患者さんも作業場の何処かで倒れているのではないかと不安になった。石材やさんなのだが作業場に入らせてもらい大声で患者さんの名前を呼びながら探した。が、居なかった。ということは自宅から作業場兼事務所のこの場所に来る途中で交通事故にあったか。そうなれば救急搬送される。弘前中の救急病院に問い合わせるべきなのか。意識がなく、普通の治療をしてしまい透析治療が遅れて最悪の結果に…などと不安なことばかり考えてしまった。

とりあえず、電話で院長先生にこのことを報告した。院長先生からは「再度こちらから指示を出すのでそれまで近隣を探してほしい」とのことだった。

もう泣きそうである。今までこういうことは一度もなかったので焦る気持ちでいっぱいになり半ばパニック状態になってしまった。15分ぐらいしてから、透析の看護師から電話があった。

恐縮しながら「すみません。連絡するのを忘れて居ました。今日はその患者さん、お休みです」…。

文字通り腰が抜ける状態になってしまった。良かった。患者さんは無事だ。透析治療を1回休むことなどできるのか疑問に思ったがとにかく良かった。

探す、待つ

状況は全く違うが、羊飼いなるイエス様は100匹のうち1匹が居なくなると99匹を安全な野に伏させ、居なくなった1匹を血眼になって探しに行く。イエス様は今も自分を探していらっしゃるのだろうか?もしそうなら一刻も早くここにいる事を知らせないといけない。

「そこでイエスは彼らに、この譬をお話しになった、 「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいたとする。その一匹がいなくなったら、九十九匹を野原に残しておいて、いなくなった一匹を見つけるまでは捜し歩かないであろうか。 そして見つけたら、喜んでそれを自分の肩に乗せ、 家に帰ってきて友人や隣り人を呼び集め、『わたしと一緒に喜んでください。いなくなった羊を見つけましたから』と言うであろう。 よく聞きなさい。それと同じように、罪人がひとりでも悔い改めるなら、悔改めを必要としない九十九人の正しい人のためにもまさる大きいよろこびが、天にあるであろう。」
ルカによる福音書 15:3-7 口語訳

また自分の受け継ぐべき財産(遺産)を生前分与してほしいとねだった息子の帰りを、家の前で毎日待ちわびた父親の話が聖書には紹介されている。

「また言われた、「ある人に、ふたりのむすこがあった。 ところが、弟が父親に言った、『父よ、あなたの財産のうちでわたしがいただく分をください』。そこで、父はその身代をふたりに分けてやった。 それから幾日もたたないうちに、弟は自分のものを全部とりまとめて遠い所へ行き、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。 何もかも浪費してしまったのち、その地方にひどいききんがあったので、彼は食べることにも窮しはじめた。 そこで、その地方のある住民のところに行って身を寄せたところが、その人は彼を畑にやって豚を飼わせた。 彼は、豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいと思うほどであったが、何もくれる人はなかった。 そこで彼は本心に立ちかえって言った、『父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。 立って、父のところへ帰って、こう言おう、父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。 もう、あなたのむすこと呼ばれる資格はありません。どうぞ、雇人のひとり同様にしてください』。 そこで立って、父のところへ出かけた。まだ遠く離れていたのに、父は彼をみとめ、哀れに思って走り寄り、その首をだいて接吻した。 むすこは父に言った、『父よ、わたしは天に対しても、あなたにむかっても、罪を犯しました。もうあなたのむすこと呼ばれる資格はありません』。 しかし父は僕たちに言いつけた、『さあ、早く、最上の着物を出してきてこの子に着せ、指輪を手にはめ、はきものを足にはかせなさい。 また、肥えた子牛を引いてきてほふりなさい。食べて楽しもうではないか。 このむすこが死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』。それから祝宴がはじまった。」
ルカによる福音書 15:11-24 口語訳

放蕩息子

 

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