赦されること
今週、聖書研究ガイドテキストでは「赦し」をテーマにして学んでいる。赦しにも色々な要素や側面があるのでこれを解釈することは難しいが自分なりに考えて見た。まず自分が他者に対して過ちを犯してしまい、赦しを乞う立場でこのことを考えてみたい。何故謝罪するのか、を考えてみたがまだ十分にまとまっていない。しかし「誰のために」謝罪するのか、は少し分かってきた気がする。謝罪は赦しを乞う人のためにするのではないだろうか。「自分が許されていない」という不安感を払拭するために「赦された」という晴れ晴れとした気持ちになるために赦しを乞うのではないだろうか。そう考えると、謝罪というのも一方的で身勝手なものに思えてくる。もしも相手、即ち被害者の立場に立ってみれば被害者が許す気になるまでは謝罪は成立せず、そしてそのタイミングは被害者の気持ちひとつでどうにでも変わってしまうものだとおもう。それを加害者側が謝罪を積み上げることで謝罪成立のタイミングをはやめようとするするのである。もしかしたら被害者は永遠に赦さないと決めているかも知れないのに、赦されたいという気持ちから謝罪を続けるのである。謝罪、非がある加害者が自分の平安のために自分自身をとりなす行為と言える気がする。
赦すこと
自分や自分の大切にする人やものに被害、損失を与えた人を赦すことは簡単ではない。以前にも投稿したことがあるが、自分には赦せないというか赦したく無い人が数名いた。思い出しただけで怒りがこみ上げてしまうような人たちである。恐らくこれらの人たちは自分に被害を加えたなどとは思っていないかも知れないし、自覚していたとしても意に介さない人たちだと思う。そう考えると余計に怒る気持ちが出てきてしまうのだが、実はこの人たちのことを祈るようになってから「当然赦す気持ち」に変えられてきた。これには自分でも驚いているが不思議なくらい怒りの気持ちや悪感情がなくなっているのである。あれほど憎んでいたのに。ある日、赦すことを強く迫ってくるみ言葉が与えられた。これにはかなり悩んだ。「神様、それだけはできない気がします」と祈ったことを思い出す。しかしこの日はこのみ言葉しか与えられず、とりあえず「赦せますように」とだけ祈った。そしてそれから毎日この祈りを続けてきたが自分自身が大きく変えられていることに気づき始めた。分かったことがひとつあった。それは、人を赦さないことが、自分自身をひどく傷つけているということ。憎しみを持っているときは思い出しただけで心臓の鼓動が早くなり頭に血がのぼるのが自覚できた。そして眠れなくなり、どのように報復すべきかを真剣に考えてしまう。この行為は一瞬だけ、相手をギャフンと言わせている状況を想像して悦にいることができるがそれは一瞬のことでそれ以降は余計に自分が傷いてしまう。暗黒の中に落ち込んで行くような気持ちになる。しかし、赦すことや相手を愛することでその人と仲良くしている自分を想像し幸せな気持ちになれる。赦す、という行為は被害者を守るために必要不可欠な行為なのかも知れない。また被害者の心が癒されるためにどうしても通過しなくてはいけないプロセスなのかも知れない。
ゆるし
人と人とに関係において、赦しを中心にして「赦される」立場になったり「赦す」立場になったりする。しかし、人と神様との関係においてはどうだろうか。人は神様から赦されなくてはいけない存在である。そして、本来は赦される価値のないものである。赦される価値のないものが赦されるのだからこれは恵みであり福音である。自分が赦される価値のない人間であることを自覚した時に神様との関係が一歩前進するような気がする。
今週、赦しをテーマに学んでいるがヨセフの経験を通して赦しを的確に解説している動画を見つけた。是非視聴していただきたい。
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