祈り
いつも読んでいる書物で「ゲッセマネでのキリストの祈り」を読んだ。引き込まれる文章で自分もゲッセマネにいるような気がした。ゲッセマネには一度行ったことがある。前を見れば正面には神殿がある。そしてエルサレムの市街が見える。この場所でイエスキリストは十字架にかかる最後の準備である祈りをささげられた。全人類の罪を背負うこと、罪の恐ろしさを考えたときに父なる神様から見捨てられるのではないかと不安になり、それが苦しみの元凶となった。自分のためにも祈ってほしく3人の弟子を同行させた。が、連日の疲れからかペテロ、ヤコブ、ヨハネはいつの何か眠ってしまう。それを嗜め、「祈りなさい」と促すもまた居眠りを始めてしまう。こんなやり取りを3回繰り返す。
苦悶
書物を読んでいたら、イエスキリストがこのゲッセマネでどれほど大きな苦しみを味わったかがよく理解できた。キリストの精神的苦悩は十字架よりもむしろゲッセマネの方が大きかったのではないかと思ってしまう。そこまで苦しみ抜いて何がしたかったのだろう。何のために苦しんだ末に命をも投げ出してしまったのか。これが、もしもわたしのためというならこれほど愚かで無駄な行為はない。キリスト教はこのような愚かな行為で愛を示したイエスキリストを信じることが根底にあり、またそれが全てである。
両親を離れて
両親を東京に残して、今青森に向かう車中にいる。今後のことを決断しないといけない。何から手をつけて良いのかもよくわからない。将来は暗闇に閉ざされているようにも感じるが、最善の道が用意されている事を信じたい。いや、最善の道を用意してくださる方を信じたい。
戦いが終りに近づくにしたがって、他世界の聖者たちと天のみ使たちは熱心な関心をもって見守っていた。サタンと悪天使たち、すなわち背信の大軍が、あがないの働きにおけるこの大危機を熱心に見守った。善と悪の両勢力は、キリストの3度くりかえされた祈りにどんな応答が与えられるかを見ようと待った。天使たちはこの聖なる受難者の苦しみをとり除いてさしあげたいと願ったが、そうするわけにいかなかった。神のみ子にとってのがれる道はなかった。すべてのことが危険に瀕し、神秘の杯が受難者の手でふるえているこの恐るべき危機に、天が開け、一条の光が嵐の暗黒のようなこの危機の時を照らし、サタンが落ちたあとの地位を占めて神のそばに立っている大いなる天使が、キリストのかたわらにやってきた。この天使はキリストの手から杯を取り去るために来たのではなく、キリストがそれを飲まれるのを力づけるために、天父の愛の確証をもってやってきたのであった。彼は、神と人であられる嘆願者イエスに力を与えるためにやってきた。彼は開いている天をキリストに指さし、キリストの受難の結果救われる魂について語った。天父がサタンよりも偉大で強力であられるということ、キリストの死の結果はサタンの完全な敗北であること、この世の王国はいと高き神の聖徒たちに与えられることをキリストに保証した。キリストはご自分の魂の苦しみ<を見て満足されるであろう、なぜなら多数の人類が救われ、しかも永遠に救われるのを見られるからであると、天使はキリストに語った。
各時代の希望電子版
p734 ゲッセマネ
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