アザゼルの山羊

聖所

このところ体は疲れているはずなのだが未明に目が覚めてしまう。3時間ぐらい眠ると起きてしまう。眠いのだが寝付けずそのまま聖書を読んで祈る。毎朝のルーティーンが3時間ぐらい早く始まる。祈っているといつの間にか窓の外が白み始める。東北の朝は早い。

今朝読んだ本に聖所のことが書かれていた。聖所制度やその働きについて特に強調する教会に属しているので引き込まれるように読んだ。聖所を強調する教会、という割に自分の理解がいつも曖昧なのできちんと勉強しないといけないと常々思っている。

まだ読み始めたばかりなので十分なことが分からない。が、この聖所の役割がイエス様の十字架で流された血を立体的にしてくれる。

幕屋の建築には、約半年を要した。これが完成したとき、モーセは建築した人々 の工事をことごとく点検し、これを彼が山で示された型と、神から受けた指示に 照らし合わせた。「彼らは主が命じられたとおりに、それをなしとげていたので、 モーセは彼らを祝福した」(出エジプト 39:43)。大勢のイスラエルの民は聖 なる建物を見ようとして、非常な興味をもって群がってきた。彼らが、敬虔な満 ち足りた気持ちでこれに見入っているときに、雲の柱が幕屋の上にたなびき、そ の上にくだり、これを包んだ。そして「主の栄光が幕屋に満ちた」(同・40:34)。 ここに神の威光があらわされ、しばらくの間、モーセも中にはいることができな かった。民は、彼らの手のわざが受け入れられたしるしを感慨深く見つめていた。 人々は、歓喜の声を上げたりはしなかった。厳粛な畏怖がすべての者を包んでいた。 だが、心の喜びは涙となってあふれ、神が降りてこられて、自分たちと共にお住 みになることの感謝が、低くはあったが熱のこもったささやきとなったのである。
人類のあけぼの電子版p209  幕屋の制度と儀式

聖所の建設

モーセがシナイ山に登って神様から律法を受け取った時、同様に聖所についても説明を受けた。神様がイスラエルの民と常に共にいてくださり彼らのうちに住まわれることを約束し聖所を建設するよう命じた。エジプトを脱出する時に持って来た多くの財産を彼らを惜しみなく献げた。モーセがもう十分だ、というまで心から喜んで献げた。

聖所の建設が進んでいるあいだも、老若の民はー 男も女も子供もー 捧げ物 を続々と持参したので、工事の監督たちは、もうこれで十分集まり、使いきれな いほどになったと考えるほどであった。そこで、モーセは宿営中にふれさせた。 「『男も女も、もはや聖所のために、さざげ物をするに及ばない』。それで民は携 えて来ることをやめた」(同・36:6)。イスラエル人のつぶやきと、彼らの罪の ためにくだった神の刑罰とは、後世への警告として記録されている。また、彼ら の献身と熱意と物惜しみしない心とは、われわれが大いに学ぶべき模範である。 すべて神の礼拝を愛し、その聖なる臨在の祝福を重んじる者は、神が彼らと会う 家を建てるにあたって同じ犠牲の精神をあらわす。彼らは自分の所有する最善の ものを捧げ物として主のもとに携えてきたいと望む。神のために建てられた家は、 負債を負ったまま放任しておいてはいけない。それは、主のみ栄えではないから である。ちょうど幕屋の建設者たちのように、工事にたずさわる者が、「もう捧げ 物を持ってこなくてもよろしい」と言うことができるように、工事を完成するに 十分の額が豊かに捧げられるようでなくてはいけない。
人類のあけぼの電子版 p287  幕屋の制度と儀式

聖所での奉仕

レビ人が聖所に関わるお世話係に召された。またレビ人の中でアロンの親族は「祭司」という職務を与えられた。日毎の務めや罪を犯した人の贖い、祭りの全てそして年に一度の大贖罪日の務めなど祭司の守備範囲は広い。

日ごとの務めは、朝夕の燔祭、金の祭壇における香の供え物、及び個人個人の 罪のための特別な供え物から成っていた。そして、ほかに、安息日の供え物、新 月の供え物、祭日の供え物があった。
朝に夕に1才の小羊が適当な素祭と共に祭壇で焼かれ、こうして主に対する民 族の日々の献身と、キリストのあがないの血に、彼らが絶えず依存していること が象徴されていた。聖所の務めのために捧げられる供え物は「傷のないもの」で なければならないと、神は言明された(出エジプト 12:5)。祭司たちは、犠牲 として捧げられる動物をみなよく調べ、傷があるものは、ことごとく退けなけれ ばならなかった。「傷のない」供え物だけが、「きずも、しみもない小羊」(Iペテ ロ 1:19)として、ご自身をお捧げになる主の完全な純潔を象徴するものとな ることができた。使徒パウロは、キリストに従う者たちが自分自身を捧げること の例証として、この犠牲を指摘している。
人類のあけぼの電子版 p292  幕屋の制度と儀式

日ごとの務めのうちで最も重要な部分は、個人個人のために行なわれた務めで あった。悔い改めた罪人は供え物を幕屋の戸口にたずさえ、このいけにえに手を 置いて罪を告白し、こうして象徴的にその罪を彼自身から無垢の犠牲の上に移し 変えた。それから動物は、彼の手で殺された。祭司は、血を聖所に運んで、この 罪人の犯した律法を入れた箱の前方にたれているとばりの前に注いだ。この儀式 によって、罪は血によって象徴的に聖所に移された。
血が聖所の中にたずさえられない場合もあった。そのときには、モーセがアロ ンの子らに命じて、「これは・・・・あなたがたが会衆の罪を負(う)・・・・ため、あなた がたに賜わった物である」(レビ 10:17)と言ったように、祭司がその肉を食 べなければならなかった。これらの儀式は、共に、悔い改めた者から聖所へと罪 が移されることを象徴したものであった。
人類のあけぼの電子版 p294  幕屋の制度と儀式

大贖罪日

一年に一度、大祭司が聖所の奥の部屋すなわち至聖所に入り贖いの儀式を行う。

年に1度、祭司は聖所のきよめのために至聖所にはいった。そこで果たされる つとめが、年ごとのつとめを完了した。
贖罪の日には、2匹のやぎが幕屋の戸口に連れてこられ、それぞれにくじが引 かれた。すなわち、「1つのくじは主のため、1つのくじはアザゼルのため」であ った。はじめのくじに当たったやぎは、民のための罪祭としてほふられた。そし て、祭司はその血をとばりの内部にたずさえて、贖罪所の上に注いだ。「イスラエ ルの人々の汚れと、そのとが、すなわち、彼らのもろもろの罪のゆえに、聖所の ためにあがないをしなければならない。また彼らの汚れのうちに、彼らと共にあ る会見の幕屋のためにも、そのようにしなければならない」(同・16:16)。「そ してアロンは、その生きているやぎの頭に両手をおき、イスラエルの人々のもろ もろの悪と、もろもろのとが、すなわち、彼らのもろもろの罪をその上に告白し て、これをやぎの頭にのせ、定めておいた人の手によって、これを荒野に送らな ければならない。こうしてやぎは彼らのもろもろの悪をになって、人里離れた地 に行くであろう」(同・16:21,22)。このように、やぎが送り出されてはじ めて、民は自分たちを罪から解放された者とみなした。贖罪のわざがなされてい る間、すべての人は魂を悩まさなければならなかった。日常の働きをやめて、イ スラエルの全会衆は、その日を厳粛に神の御前にへりくだって過ごし、祈り、断 食し、心を深くさぐったのであった。
人類のあけぼの電子版 p295   幕屋の制度と儀式

アザゼルの山羊

前出の「アザゼルの山羊」は最後のサタンの様子を描写している。

自分は大切なことを今まで見落としてきた。イエス様の次の位についていた「ルシファー」。これが高慢の罪に負け自分こそが最高位にあるべき存在だと思うようになった。同じ本の別の場所には、周りの天使たちもルシファーの恐ろしい考えを捨てるよう忠告した。自分はルシファーが罪の誘惑に負けた、と思っていた。が、そうではない。それまで全宇宙に罪はなかった。ルシファーが罪の創始者なのだ。

サタンは、罪の創始者であり、神のみ子の死を招いたあらゆる罪の直接の扇動 者であるから、正義は、サタンが最後の刑罰を受けることを要求する。人間を贖 い、宇宙を罪からきよめるキリストのみわざは、天の聖所から罪を取り除いて、 これらの罪をサタンの上に置き、サタンが最後の刑罰を負うことによって閉じら れる。そのように、象徴的奉仕においても1年間の務めは聖所の清めと、アザゼ ルのやぎの頭の上に罪を言いあらわす告白をもって閉じられた。
こうして、幕屋の務めと、のちにこれにとって代わった神殿の務めから、民は キリストの死とその務めに関する心理を日ごとに学び、そして、毎年1度、彼ら の心はキリストとサタンとの間の大争闘の終結、宇宙が罪と罪人から清められる 最終的な清めに向けられたのであった。
人類のあけぼの電子版 p398   幕屋の制度と儀式

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