アブラハム
教会では現在共通のテキストを用いて「創世記」を学んでいる。6月末まで創世記を学ぶが今はその折り返し点付近を学んでいる。先週からアブラハムの生涯を通して多くの教訓を学んでいるが、個人的にはアブラハムの生涯の根底に「召命」→「自己放棄」→「服従」というプロセスが流れているように感じている。この「召命」の部分が「契約」であったり「約束」だったりするわけだがアブラハムは神様から語られたことに対して自分の考えや計画の一切を放棄して服従していく。そこに神様からの更なる信頼ありアドバンスコースへと導かれていく。
各自が聖書研究で学んだことを分かち合うことがあるが、今日ある方が「アブラハムのように直接神様からの召命を受けたことがないので、何が神様の期待していることなのかが分からない」と仰った。全く同感である。
聖書はとても長い時間をたった数行で表現することがあるので、あたかもアブラハムが何度も神様から声を掛けていただいている印象がある。が、決してそうではない。神様からの言葉が与えられてから10年以上音沙汰がない、のは普通のことであった。逆に神様からの直接的な語りかけや奇跡を通して日々神様を身近に感じられたのがイスラエル人がエジプトを脱出して荒野を40年間旅していた時期である。そして現在はそれらの記録が「聖書」という形で読めるようになっており、神様の語りかけを知ることができる。ここで問題になるのが前述の方のように聖書のどの言葉が自分に対する召なのかがわかりにくいと言う点である。アブラハムのように直接語りかけられればはっきり分かる。しかし聖書のことばを直接「自分の人生に適応して良いのか」と悩む。
あかし
今日の礼拝で、牧師先生に促されある方が「証(あかし)」された。イエス様に直接導かれた経験や祝福された出来事を話して聴衆と分かち合うことを「証」という。この方は、毎日の生活が神様に頼ることもなく聖書を読むこともなく乾ききっていることを自覚していた。何とかこれを変えたいと願っていたところ、ご主人が「リバイバルのために祈っていたが、神様がまず君の信仰生活を潤いあるものに変えられるよう祈りなさい、と言われた。今日から一緒に祈ろう」と言って来られたとのこと。自分の心の状態など分かるはずもないと思っていたが神様はちゃんと分かっていて最も適切な助けを与えてくださった、と仰っていた。ある時、日常の忙しさに疲れを覚えている彼女に対して小学生の息子さんが「嵐で漕ぎ悩んでいる船にイエス様が湖上を歩いて助けに来てくださった」話をしてくれた。そしてその日の聖書通読の箇所がまさにその場所(マタイのよる福音書14章)だった。そしてその後、入院しているご主人が電話をかけてきて、またこのマタイ14章の話をし始めた。「神様が君にこの話をするように言っている気がしたので」とのことだった。そしてこのご主人との電話の後「あなたはいったい誰を頼りにしているのか」と言われた気がしたという。
偶然、とも考えられる。しかし、神様は求める人、必要な人に色々な方法を通して語っておられることを証を通して教えていただいた。やはり生きている神様は今も個人的に語りかけてくださっていると思う。
どんなに乱暴な、見込みのない人でも、責むべき点もなければ、害を 与えることもない者となり、神の子たることをはっきりあらわすような 品性の持ち主になることができるという保証を示すことによって、イエ スは彼らのうちに望みを起そうとされた。イエスは、サタンの支配下に おし流されて、そのわなを破る力のない人たちをしばしばごらんになっ た。落胆したり、病気だったり、試みられたり、堕落したりなどしてい るこれらの人々に、イエスは最も憐れみ深いことばー 彼らが必要とし、 理解のできることばをお語りになるのだった。イエスはまた魂の敵とは げしい戦いをたたかっている者にも出会われた。これらの人々をイエス は耐え忍ぶように励まし、神の天使たちが彼らの側についていて勝利を 与えてくれるから、勝てるのだと保証された。このようにイエスから助 けられた人々は、ここに自分たちが絶対の信頼をもってよりたのむこと のできるお方がいられることを確信した。彼らが同情をもって聞いてく ださるイエスの耳に入れた秘密をイエスはほかへもらそうとされなかった。
各時代の希望電子版 p72. 戦いの日々
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