同じ神に祈れる幸せ

二日目

昨晩遅くに実家に着いたが、疲れてめまいがしていた。家で待っていてくれる両親との会話もそこそこに寝かせてもらった。因みに、昨日iPhoneが壊れたと思っていた件は、その後docomoの通信障害であることが判明した。昨晩のうちに3Gではあったが通信できる応対になったので助かった。もしもiPhoneの不具合だったら修理にかかる間親との連絡が取れなくなるのではないかと心配したがそれも解消された。

帰省二日目の今日は朝からやることが多かったので朝食後直ぐに行動を開始した。先ずは風呂場のタイルをつける接着剤と目地留め用のコーキング剤を買いにホームセンターに行った。ついでに食材も購入し一度実家に戻った。その後、庭の木を剪定した。カリンと金木犀。これが結構な大仕事だ。毎年夏に帰省した際、剪定をしていたが昨年は一度も実家に帰ることができなかったので2年ぶりとなってしまった。その後、タイルはりをし階段途中にある窓の掃除をした。この窓は脚立を使っても十分に届かない位置にあるので掃除も一苦労。そして夕食作り。凝ったものは作れないので餃子とだし巻き卵。

この程度しかできなかったが、それでも結構疲れてしまった。自分も歳をとったことを痛感した。

食卓の祈り

食事の前に祈る。勿論個人的にはこれ以外の時間にも祈っているのだが、揃って一緒に祈るのは食卓の祈りである。いつも父が祈ってくれるのだが、毎回似たような祈りになっている。子ども達、孫達の幸せを一人一人名前を挙げて祈ってくれる。最近は名前や家族構成が若干怪しくなっているがそれでも神様は父の心を受け止めてくださっているだろう。

ヨブ記には、ヨブの子どもたちがそれぞれの誕生日に順番で食事会を開いていたことが記されているが、ヨブも子どもたちのために生贄のささげる儀式を欠かさなかった。もしかしたら子どもたちが神様に逆らったり、罪を犯しているかもしれないと思ったからだ。父の祈りを聴きながらヨブの子どもたちのためにとりなしていた様子とダブった。

毎回同じようなことを祈っているようだが、実はこの食卓の祈りこそ両親が神様に真心から切に祈っていることなのだと最近気づいた。

また、両親と同じ神様に祈れることがどれほどの奇跡で幸せなことなのかも痛感している。自分がもしもクリスチャンのこの家庭に生まれなかったら、決して神様を信じることはなかったように思う。神様を知る機会があったとしても恐らく信じることはなかっただろう。だから、信仰心の無い自分をこのようなクリスチャン家庭に生まれさせてくださったのだと思う。そして、この恵みを痛感するとともに、自分の負っている責任も自覚させられる。自分だけが幸せ、などと言っている場合ではない。この幸せを一人でも多くの方にお伝えしなくてはいけない。この恵みは自己満足のために与えられたのではないから。

安息日になったが、自分が信じる神様をどのようにお伝えできるかを考える時間にしたい。

聖書研究ガイド21年4期3課

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