癒しと回復

1年前

忘れることのできない7月15日。昨年のこの日から一年が経過する。

昨年の7月15日夜に姉から兄弟ラインに連絡が入った。「19時過ぎからお母さんの呂律が回らなくなり本人は一生懸命喋ろうとしているけれど宇宙語のような言葉で全く理解できません。今から救急車で病院に行きます」とのこと。

昨年のこの日は金曜日で安息日を迎えていた。呂律が回らないとなれば恐らく脳梗塞だと思った。とにかく姉に全てをお願いして自分は青森の地で必死に祈った。恐らく21時前後だったと思うが姉から再度連絡があった。やはり脳梗塞とのこと。今なら使えるt-PAという薬があるが致命傷に繋がるリスクがあること。特に母には基礎疾患や今まで血栓の薬をのんできた経緯があるので更にリスクは高くなるが今なら使える薬なので家族で判断して欲しいとのこと。かなり焦った。弟は使うべきだと言っていた。姉は、父にも知らせていないのでこのまま母に何かがあったらいけないので使わない方が良いと言っていた。長男はどう判断する?と聞かれた。結局自分では判断ができないのでその場で3人で祈った。そして薬は使わないことにした。自分の中では「薬を使って良くなればその判断や医師の処置、薬が良かったことになる。しかし神様が完全に支配してくださっているのだから薬を使っても使わなくても癒されるときは癒されるしそうでなければ別の結果が与えられる」という気持ちが与えられた。ならば薬を使わないで神様のご計画に委ねることの方が良いと思ったのでそのことを姉と弟に話したところ同意してくれた。

紆余曲折

それから数日後に2回目の脳梗塞が発症したりコロナに感染したりと毎日連絡が入るたびに生きた心地がしなかった。しかしそのような難しい局面も全て乗り越えて退院することができた。退院といってもリハビリ病院への転院だがそれでも神様が導いておられることを肌で感じることができた。またそのおかげで意識のあるうちに車椅子の母と面会することもできた。

年が明けて1月2日に体調の急変が伝えられ父と一緒に母の入院する東京衛生病院に向かった。唸り声をあげることもあるが目を開けることができた。著しい反応はなかったがそれでもこちらが喋ったことに対して涙を流す場面もあった。そしてしばらくの小康状態ののち1月6日に再臨の希望を持ちながらしばらく休みに入った。

今まで何度も何度も苦しい局面を通過させてくださった神様は今回もきっと奇跡を起こしてくださると信じていたがそうはならなかった。

それでも

この1年間、本当に色々なことがあった。どうやってこれまでも道を通り抜けてきたのか思い出すことができない。色々なことがありすぎて自分の感情が追いついていないことを毎日感じている。しかし、その中で確実に神様が守って道を備えてくださっていたことは理解できる。例えば、1年前には今の自分の状況は想像できなかった。あの時まさか1年後に家族と共に沖縄で生活しているとは夢にも思っていなかった。自分の気持ちや一見不幸と見える状況とは全く別次元で神様が確実に働いてくださっていることをこの1年で体験的に学んだ。

沖縄に住むようになってからも決して良いことばかりでは無いが、神様が「回復のプログラム」を自分に実行されていることを感じる。

安息日は創造の記念日である。また同時に回復の日でもある。癒し主、回復してくださる方であるイエス様に今日も心を開いて生きてみたい。

イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。
ヘブル人への手紙 13:8 口語訳

主はみずからあなたに先立って行き、またあなたと共におり、あなたを見放さず、見捨てられないであろう。恐れてはならない、おののいてはならない
申命記 31:8 口語訳

 

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