クリスマスの思い出
クリスマスも過ぎ世間は年末年始の雰囲気一色。クリスチャンの自分は、クリスマスであたかも日本中がキリスト教ムード一色になったと思ったのにそれが終わった途端に神道、仏教の雰囲気で包まれるこの移り身の早さに驚かされる。フィリピンは9月からクリスマスの準備が始まり町中にその雰囲気が溢れるという。日本のクリスチャン人口はカトリック信者を含めても1%以下と言われているから仕方ないのかもしれない。クリスマスは過ぎてしまったけれどこの時期になると忘れられない思い出がある。思い出と言っても淡い、素敵な雰囲気の思い出ではない。教員になって間も無くの頃、今とは違い新任教師が長期休暇中の日直を担当する。夏休みも5日の休み以外は日直をしていた。冬休みは12月30日まで日直で学校に残らなくてはならなかった。東京の実家に着せできるのは31日から2日まで。今の教員は新任でも日直などやる必要はない。時代なのか。一人で寂しいクリスマを迎えることにしていたが高校時代からの同級生が同じく日直で学校に残っていた。彼とは性格もタイプも違ったが何故か気が合うので一緒に行動することが多かった。そんな彼から「クリスマスはうちで過ごさないか?簡単なパーティーをしようと思う。」との誘いを受けた。違う。彼はパーティーを企画するような人間ではない。とても古風だし家には殆ど家財道具を置かずテナーサックスと好きなジャズのCDと勉強机、そして少しの本があるだけだ。着ている物も毎日同じ。生徒の名前を覚えない彼は女子生徒に対して「そこのねーちゃん」と呼ぶ。今ならそれだけで問題になる。そんな彼がクリスマスパーティーなど企画できるわけないのだが暇なのと怖いもの見たさで招待されてみた。食事は水炊きだった。大量の大根おろしがあったのをよく憶えている。クリスマスとは違う感じがしたが仕方ない。和やかに会話をしながら食事を済ませた。「さぁ、盛り上がって参りました!」とふたりしかいないのに悦に入っている彼がおもむろにスケッチブックを持ってきた。「今から絵を描こう」というのである。私は驚くほど絵が苦手であり下手である。幼稚園児にも笑われる絵しか描けない。自分にはできないと断ったが彼は「大丈夫。上手な絵ではなく正確な絵を書くことが大切だから。」と言ってお皿にイカを載せてきた。イカをスケッチするのがクリスマス会のメインイベントなのだ。これが彼の考えたクリスマス企画の限界である。全く面白くないクリスマス会だったが毎年このクリスマス会を思い出しては笑っている。そういう意味では思い出深いクリスマスだったのかもしれない。
彼について
彼の名前はhideji。本名である。高校の頃から若干かわっていた。真冬でも半袖で過ごし、風呂に入ると鼻からお湯を吸い込み口から吐き出していた。中学時代に亡くした父親を心の底から尊敬し机にはいつも父親の写真をおいていた。高校卒業後は酪農家を目指し北海道の大学に進学した。その時に理科の教員免許も取得し、結局教員になった。高校の理科教員として採用され、当時の基礎科目「理科1」という授業を受け持った。理科の物理・化学・生物・地学の全分野を浅く広く扱う科目である。生物は彼の専門なので問題はなかったが物理を教えるのが負担だったらしくいつも私のところにやってきては授業ネタを探していた。その都度アドバイスをしたが、彼はできるだけ毎回演示実験を行いわかりやすく説明したいとの希望を持っていた。それもできるだけ派手でウケる演示実験をしたいという。完全に物理を冒涜している。慣性力の演示では台車を作ってそれを廊下で走らせる。走らせるというか押して走るのである。途中でゴムを仕掛けたザルに入れたボールが上に飛び上がるようにしてまた元のザルに戻ることを演示した。何故か私を授業のアシスタントのように使うようになり彼の授業には毎回同席した。「質量保存の法則」の演示では、まず体重をはかり牛乳を1リットル飲む。そして体重がほぼ1kg増えていることを演示するのだ。ただ、この「理科1」の授業は連続で行うことが多く、この実験も3学級連続して行った。3番目の授業では気持ち悪くなり途中で牛乳を吐き出してしまった。教室のあちこちで聞かれる悲鳴をものともしないhidejiは吐いたにも関わらず体重計に乗り、結局体重が減っていた。また、授業の内容と実験の関連付けが難しいと反対したにも関わらずどうしてもhidejiがやりたいというので不承不承やった実験がある。ブルーシートの上で瓶を割りその上に上半身裸のhidejiが仰向けで寝転ぶ。その上にブロックを置き更に上に乗せたレンガを私が大きなハンマーで叩くというもの。今なら捕まるレベル。これを分圧の実験としてやりたいというのだ。女子生徒の「きゃー、やめてー」などの悲鳴がhidejiをよりやる気にさせる。結局2学級ではうまくいったが問題の3学級目で、調子に乗ったhidejiが十分に細かくなっていない破片を避けることなく乗ってしまった。その時点でhidejiの顔が若干歪んだがやれというので打ち合わせ通りやった。「はいこの通り」と背中を見せると血だらけだった。何故、物理の実験で血が流れるのか。とりあえずhidejiには保健室に行ってもらい後の授業を自分がした。馬鹿すぎるけど憎めないhideji。大切な友人である。
ヤマギシ
そんなhidejiとの職場での交流もそれほど長くは続かなかった。それから3年ぐらいした頃、hidejiに微妙な変化が起こった。あれだけ好きだったjazzのCDを全部処分してしまった。売って換金したという。hidejiは給料を殆ど使わない。だから経済的に困る生活はしていないのだ。またある時は彼の財産であるテナーサックスをやはり売ってしまった。また換金である。不審に思った自分は「何故大切なものを処分するのか?」と問い詰めた。今のように断捨離などという言葉がない時代である。hidejiがいうにはヤマギシに入るというのだ。当時言葉だけは知っていたが実態はよく分からなかった。今のヤマギシのシステムはよくわからないが当時は個人の財産を全てヤマギシに渡してしまう。私有財産の放棄を要求する時点で怪しい。しかも家族という絆も解かれるという。子どもはみんなの子どもであり共同体全体で育てるというのだ。200%怪しい。hidejiには絶対に騙されているから行くなと言った。しかし彼はヤマギシこそ自分の理想郷と言って譲らない。最後は喧嘩になった。暴力的な喧嘩になった。彼は手をあげなかったが私は彼を殴った。そして話は夜中まで平行線をたどるだけだったが、自分も一度ヤマギシの実顕場に行って観察することを条件にその晩は別れた。次の休日にふたりで実顕場に行った。独特な雰囲気があった。自分には馴染めない環境だったがhidejiにはここがあっているのかもしれない。もう一度彼を説得したがそれも通らず結局hidejiはその年度で退職しヤマギシに行ってしまった。その後ヤマギシの色々な問題が浮き彫りになり社会的にも叩かれるようになった。hidejiはその後ヤマギシを去り海外で協力隊のような仕事をしていると風の便りで聞いた。もう25年ぐらいhidejiには会っていない。もう一度会いたい。本当に良い友人だったのに。クリスマスになると毎年hidejiのことを思い出す。