今日の御言葉
聖書の言葉の中には心励まされる言葉がたくさんある。「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出るひとつひとつの言葉で生きる」との言葉通り聖書の言葉から力をいただいて生かされる経験を毎日している。しかし自分の不信仰や知識の無さから、聖書の言葉の中にあまり心地よく感じられない言葉がある。聖書の言葉に問題があるのではなくそれを読む自分に問題があることを十分承知している。実は今朝与えられた聖書の言葉があまり好きではない聖書の言葉だった。
「ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。」
コリント人への第二の手紙 12:9 口語訳
この言葉が大好きで心の支えにしていらっしゃるクリスチャンも多くいらっしゃると思う。場面はパウロが肉体的に何らかの不具合を持っていてそれを取り除いてください、と神様に熱心に祈った。その時に与えられたのが上記の言葉である。だからパウロの祈りが願った通りに応えられず「これで十分なのだから与えられたもので満足しなさい」と言われているような気がする。聖書は別の場所で執拗に祈ることを勧めている。また求めれば与えられるとも教えている。一方で祈っても与えられず「我慢しなさい」と言われている。昔からこの2種類の勧めをどう折り合いをつけるべきなのかをずっと考えている。
聖霊のバプテスマ
キリストを救い主と信じた時に、その信仰の表現として「バプテスマ」を受ける。これは教団教派によって名称や方法、或いはその位置づけなどに違いがあるがイエス様の時代は水の中に全身を浸めて行う。全浸礼という。イエス様もこのバプテスマを受けられた。イエス様の露払い役目を担った「バプテスマのヨハネ」という人から授けてもらう。パリサイ派の優秀な人物で「ニコデモ」という議員がいた。パリサイ派ということで人目のあるところでイエス様に接触することはできない。そのためわざわざ夜になってから人目を忍んでイエス様のところにやってくる。そしてバプテスマについて、というか「神の国」関する問答をイエス様と展開する。この問答の中でイエス様が言われた「誰でも水と霊とから生まれなければ神の国に入ることはできない」という言葉がどうにも腑に落ちないニコデモ。
この言葉が後世にも伝わり水によるバプテスマと霊によるバプテスマのふたつがあることを多くのキリスト教会で認めるようになった。これが「聖霊のバプテスマ」である。
「聖霊を受ける」少し難しく言うと「聖霊に内住していただく」経験がしたくずっと祈り求めている。これはイエス様が十字架で亡くなりその後復活して40日に渡って使徒たちの前に現れた。その後、イエス様は天に帰られるのだが、それから10日間ずっと使徒、弟子たちは祈り続けている。そしてイエス様が十字架で命を落とされた過越の祭から50日目の「ペンテコステ」の日に弟子たちが聖霊を受ける。とても不思議な経験である。急に他国の言葉で話始めたのだ。そしてこの時を境に使徒たちはエルサレムを出て各地で伝道し行く先々で大きな成果を挙げるようになる。
読み物を通して
始めの御言葉に戻るが自分があまり好きではない聖書のことばを悶々と心の中で反芻している時にある読み物を通して少しヒントになる考えが与えられた。
聖霊が注がれる時、前の雨を受けていなくて、その価値も理解していない者は、後の雨の価値を認めて理解することもありません。
『聖霊に導かれて下巻166ページ
露や雨がまず種に働いて発芽させ、やがて収穫が 近づくと穀物を実らせるように、聖霊は、霊的成長 の各段階で、その段階ごとに、働きを前進させるた めに与えられています。 ・・前の雨が降ってその役 割を果たさなければ、後の雨には穀物を完成させる ことができないのです。
『聖霊に導かれて』下巻308.309
多くの人々が前の雨を受けることに少なからず失 敗しています。 彼らは神が自分のために用意された 祝福のすべてを受けてはいません。彼らは不足している分は、後の雨で補ってもらえると期待しています。恵みが最も豊かに与えられる時、心を開いて、 それを受ければよいと考えています。 ところが、彼 らは恐ろしい間違いをしているのです。……積極的 なキリスト教の美徳を日ごとに実践していないなら、 後の雨における聖霊の現れに気づくことがないで しょう。 聖霊が周囲のすべての人の心に注がれてい ても、我々はそれに気づかないでしょうし、受け取ることもできないでしょう。
聖霊に導かれて 下巻 309,310
私たちに必要なことは、聖霊のバプテスマである。 これなしでは、主の十字架の後の弟子たちのように世界に出ていく者として私たちは適し得ない。 イエスは彼らの極度の欠乏をご存じだったので、天から の力を与えられるまでは、エルサレムにとどまって いるように告げた。
『レビュー・アンド・ヘラルド』 1890年2月16日(英文)
ペンテコステの日に弟子たちが祈ったように、私たちも熱心に聖霊を求めて祈らなければなりません。もしあの当時、彼らが聖霊降下を必要としていたとするならば、今日の私たちは更に大きな緊迫した必要に迫られているのではないでしょうか。
教会への証 1巻 258
要するに
神様が与えてくださっている恵みは十分であるが、その全てを受け取ってはいないということを感じた。本当にそうなのかどうかは分からないが今自分に与えられている光はそのように語っているように感じられる。何れにしても神様からの十分な恵みをすべて受け取れるよう祈り求めていきたい。特に聖霊様を受けることに関しては。
天沼教会2022年4月23日礼拝「思いもよらぬあかし人」東 清天沼教会副牧師
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