2021年を迎えて
2021年が明けた。自分は昔から落語が好きなので、古典落語の年越しの風景に馴染みがある。大晦日といえば「芝浜」。越せない越せないと言っても12月31日が終わると翌年の1月1日がやってくる。将来のことを考え途方にくれることが多かった2020年も越してしまい2021年を迎えた。果たして今年はどのような歳になるのか。自分の努力で「どのような歳にするか」を決められる部分もある。しかし状況が今年をどのような歳にするかを決める部分もある。新年を家族とも離れたった一人で迎えた。寂しい年明けとなった。今の自分に何か確実なもの、絶対的なものがあるだろうか。また将来にわたって自分を助けてくれるもの、自分が頼れるものがあるだろうか。お金…。役には立つが、頼れるほどは持っていない。友…。助けてくれる友人もいる。しかし頼るわけにはいかない。家族…。両親には自分の現状を全く話していないし余計な心配をさせたくない。親に全てを話して子どものように泣きたくなる衝動もあるがそれをしたところでみんなが不幸になるだけだ。薬…。一時的に不安を解消してくれる薬や永遠に眠れるほど多量の睡眠導入剤が手元にある。しかし頼れるほど絶対的なものではない。そう考えると自分が今持っているもので頼れる確実なものは何もないことに気づかされる。しかし、何故か平安である。先の見通せない局面を生きているが不思議と安心感がある。勿論「ダメなら死ねばいいや」という楽観的な考えが根底にあるからかもしれないがそれとは全く次元の違う平安と安心感を持って2021年を迎えた。
唯一の希望
何も無いけれど全てを持っている、これが自分の現状である。この世の価値観からすれば頼れるものは何も持っていないが、しかし自分を決して見捨てることのない神様がいらっしゃる。
わたしはあなたがたの年老いるまで変らず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う。
And even to your old age I am he; and even to hoar hairs will I carry you: I have made, and I will bear; even I will carry, and will deliver you.
イザヤ書46:4
この神様は全てのものを有しておられる方である。人間がつくった神ではなく、人間をつくった神である。この神様が一緒にいてくださるならば、先が見通せない将来に対しても歩を進めていける気がする。昨晩もこの神様が1年間何をしてくださったかを日記に書き出していた。あまりにもたくさんのことを思い出し書ききれなくなってしまった。何度も人生を諦めようとしたけれど、その都度不思議な方法でご自身を現し「あなたのこんなに近くに私がいることを忘れたのか」と語りかけてくださったことが何度もある。2021年が果たしてどのような1年になるのか想像できない。もしかしたら2021年の年末を迎えることができずに自分の人生が終わってしまうかもしれない。たといそうであっても、自分はこの神様と一緒に歩んで生きたい。よく引用するエレン・ホワイトという人の本に次のような言葉があった。
どんな時にも、どんな場所でもどんな悲しみにも、どんな苦しみにも、前途が暗く将来が困難に見えて無力と孤独を感じるときにも、信仰の祈りに答えて、助け主が送られる。
この世のすべての友から離れるような事情が起こるかもしれない。
しかしどんな事情もどんな距離も
われわれを天の助け主から離れさせることはできない。
どこにいようとも、どこへ行こうとも、
主はいつもわれわれの右にあって
力づけ、助け、ささえ、励まされる。
エレン・ホワイト
励まされる。本当に励まされる。現在、この世の中で暗中模索の生活を送っていらっしゃる方がこのキリスト教の神様に出会い、この方と共に生きるようになることを願うものである。