謙遜

モーセ

昨日、教会で聖書研究の時間がもたれた。学んでいたのは申命記であるがモーセの人となりが取り上げられディスカッションのテーマになっていた。モーセほどの謙遜な人物はいないと評されるほどの人である。どこまでもイスラエルの民に忍耐し、神様と人との仲介者としてその重責を立派に果たした。岩を2度叩く、という失敗の故、約束の地カナンには入ることが許されなかった。自分も20年以上前にイスラエル、ヨルダンを旅行した時にネボ山に登った。そこがモーセの立った場所か否かは分からないが、確かに遠くにカナンの地を見ることができた。記念教会がネボ山にはあるのだが、しばらくそこには入らずカナンの地を見ながらモーセが何を思ったのかを瞑想してみた。今までの長旅で多くの考えられない苦労があった。200万人とも言われるイスラエルの民を導くのに骨を折ったことを思い出したのかも知れない。その労が報われず自分は約束の地に入ることが許されなかった。失望しただろうか?「神様はどこをみていたのか」と叫びたい気持ちにはならなかったのか。しばらく考えていたが、やはりモーセは呟かなかったのではないかと思った。これは天の御国で直接聞いてみるまで分からないことではあるが、恐らく不平不満を漏らして呟くことはなかったと思う。約束の地カナンを遠くに見ながらモーセに迫ってくるのは、それまで片時も離れないで共にいてくださった神様の存在だったのではないだろうか。

ダビデ

モーセのことを考えるとダビデのことを思い出す。ダビデのことを考えるとモーセを思い出す。ダビデはこれまでの神様に対する感謝の現れとして、神殿を建てたいと申し出るが何と神様から断られてしまう。多くの血を流したことが理由なのか。何れにしてもダビデの心からの神様に対する愛情表現を、神様は断るのである。何とも残酷な場面である。自分なら腐ってしまう。「そうですか。わかりました。もう二度とあなたのために何かをしたい、などとは言いません」とへそを曲げてしまうことだろう。しかしダビデはそうではなかった。ダビデの子が神殿を建てると言われると、我が子のために神殿建築に必要な資材を全て揃えた。また大工や石工を集めソロモンが神殿建築で困らないよう準備を整えてあげるのである。ソロモンとの共同統治の時期にそれをした。ダビデの任期最後の仕事とも言えるかも知れない。

謙遜

自分の計画や思いを叶えるために働くのではなく、モーセやダビデのように神様の御心を行うことを最大の喜びとできる人物になりたいと真剣に思っている。そして誰よりもイエス様のような謙遜な生き方を実践できる人物になりたいと心から思っている。

まだまだ程遠い。そのような境地にたどり着けるのかも分からないが、とても感謝すべきことがある。毎朝の祈りで「自分の罪を示し悔い改めに導いてください。神様が自分の心をさぐり弱さを示してください」と祈っているので、本当に自分の至らなさや弱さが明確に示される。示されるのは心が痛むがそれでもイエス様に戻ることができる。不十分だがその時には謙遜な気持ちにさせられる。とてもありがといことである。

モーセやダビデを通して真の謙遜について考えさせられた。

憐れな力なき人間が格別祈ることにも努めず信仰薄き様を見て天使たちはいったいどう思うことでしょう。天使は神の御前にひざまずき神のみそばにはべることを好み神と交わることをこのうえない喜びとしています。それなのに神の他与えることのできない助けを最も必要としている地上の子らが聖霊の光も神の臨在も仰がず満足して日を送っているように思われるのであります。
キリストへの道p128

2021年12月25日 「飼い葉桶に眠る救い主」」 礼拝LIVE配信

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