たといそうでなくても

晴れない気持ち

今日は少し気持ちが沈んでいる。何かがあった訳ではない。沈んでいるというより気持ちが晴れないのである。気になってずっと祈り続けているが未だに気持ちに変化はない。しかし意思は少しずつ変化し決して落胆しているわけではない。先週の金曜日に不思議な方法で神様が自分の祈りに対する答えをありえない方法で示してくださる、ということがあった。金曜日にその投稿をしているがそれ以降「神様がこんな小さな者の祈りをきちんと聞いてくださっている」というのが励みであり、なんとも言えない力を得ていた。信仰的にもまたひとつ違ったステージに移った気がしている。そんな調子で祈りにも益々力が入ってきたが、今朝から少し様子が違ってきた。自分には多くの祈りがあるが、自分のことに関して大きなふたつの祈りをささげている。実現不可能なふたつである。ひとつは家庭を回復していただき家族が揃って生活できること。もうひとつは妻とM先生を教員に戻してくださり、その上でこの私を教育伝道に再度召してくださること。このふたつは殆ど実現不可能なことである。実現不可能だから祈るのである。人の知恵や力では果たし得ないことなので神様に祈り求めるのである。この祈りをささげているときに、「この前、神様が祈りに応えてくださったと言っていたがこのふたつの祈りは祈っても無駄だ。そもそも神様の御心がそうではない。いくら祈っても神様はこの祈りを祈った通りには決して道を開いてくださらない」という声が聞こえて来るのである。恐らくサタンの攻撃なのだと思う。「確かにそだよな」という気持ちになってしまい、それが理由で気持ちが晴れないのである。容易い願いではない。人の心が関わる問題なので極めて難しい。ある書物に「人の病が癒されること以上の奇跡は人の心が変えられることである」と書いてあった。その通りだと思う。やはり難しいのか。

たといそうでなくても

ダニエル書には多くの預言が記されている。そしてその預言に目が行きがちになる。預言は非常に大切であるがダニエル書の大事なポイントのひとつが「祈り」であると考える。ダニエルは勿論だがダニエルと共に捕囚となりバビロンに連れてこられた3人の青年もまた真の神様を心から敬い礼拝し祈りをささげる人たちであった。ダニエル書の底流には「祈り」というテーマが脈々と流れている。ある時、ダニエルや3人の青年が特に重用されることが面白くない王の側近たちがダニエルや3人の青年たちを陥れるために新しい法律を作ることを王に提案する。王が建立した金の像を音楽が鳴る度にひれ伏して拝まなければならない、という法律を発布する様進言するのである。王はこれを承諾しそれが法律となる。が、ここで3人の青年が音楽が鳴っても金の像を拝もうとしない。このことを側近たちが王に密告する。これを聞いて王は3人を呼びつけてもう一度チャンスをやるから今度音楽が鳴った時には必ず金の像を拝む様に、と言い渡す。その場面でこの3人の青年が王に答えた言葉が次の聖句である。

シャデラク、メシャクおよびアベデネゴは王に答えて言った、「ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。

Shadrach, Meshach, and Abednego, answered and said to the king, O Nebuchadnezzar, we are not careful to answer thee in this matter. If it be so, our God whom we serve is able to deliver us from the burning fiery furnace, and he will deliver us out of thine hand, O king. But if not, be it known unto thee, O king, that we will not serve thy gods, nor worship the golden image which thou hast set up.

ダニエル書3:16-18

何故かこの場面にダニエルは居ないが、燃える火の炉に投げ込まれても必ず神様が助けてくださると3人の青年は信じきって居た。しかし、たといそうならなくても、即ち神様が救い出してくださらず自分たちがこの炉で命を落とす様なことがあっても自分たちは神様以外に対して礼拝をささげそれを拝むことは決してしません、と断言しているのである。

自分の心の中で大きくなる声、前述の通り「この前、神様が祈りに応えてくださったと言っていたがこのふたつの祈りは祈っても無駄だ。そもそも神様の御心がそうではない。いくら祈っても神様はこの祈りを祈った通りには決して道を開いてくださらない」という声が聞こえても、必ず神様は自分の祈りを聞いてくださる。たといそうでなくても、自分の祈りがその通りにならなかったとしてもそれが神様に対する不信仰には決して繋がらない、と断言できる様な信仰を持ちたい。主権は全て神様にある。そしてその神様は決して意地悪をなさる方ではない。自分の全てをよくご存知で、自分にとって何が最善なのかを熟知しておられる。その神様が用意してくださる道ならば、それが祝福にならないわけがない。そんな気持ちを持ちながらサタンのささやきに勝利して行きたい。

祈り

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