基本
とても大切なことを忘れることがある。うっかり忘れるということではなく、物事を難しく捉え一番大切なことを見失うという意味である。
毎日、牧師先生と祈っているがその中で必ず祈ることがある。「今日1日の全てを神様にお委ねします。仮の今日が自分にとって最期の日であり『あなたはここまでで良いですよ』と言われ息がとられ目を閉じさせていただくことになってもそれに感謝して従えますように。そして神様が息を取られるまで自らその終わりを決めることがないようにしてください」という祈りである。今日1日が生きて過ごせるかどうかは神様しか分からない。なのに予定は立ててある。命があることが決して当たり前ではないのに、当然あるという前提で物事を考え予定していることも、大切なことを見失っているからなのかの知れない。
聖所の真理
自分の属する教団は他のプロテスタント教会からすると特異に見えるかもしれない教理がある。勿論、聖書に根拠があることで真理だと思っているのだが、今日はハッとさせられることがあった。自分の無知、愚かさの故である。教理の中でも際立っているもののひとつに「聖所の解釈」がある。地上の聖所が天の聖所のひな形であり、天の聖所ではイエスキリストが至聖所にて執り成しの働きをしておられると信じている。また地上の聖所で祭司が日毎に行なっていた勤めや年に一度の大祭司による奉仕もイエスキリストの働きになぞって解釈している。「再臨前審判は無い」と言っている当院の院長先生の解釈がどうなのかを調べるためより一層聖所に関する学びを深めてきた。いつの間にか聖所本来の存在意味よりも自分の知識欲を満たす対象として聖所を捉えていたような気がしている。
今日、ある教会の礼拝メッセージを視聴していて「聖所は何のために存在しましたか」という牧師先生の問いかけに対して、心の中で「贖罪のはたらきをするため」と答えていた。牧師先生は出エジプト記を開いて教えてくださいました。
また、彼らにわたしのために聖所を造らせなさい。わたしが彼らのうちに住むためである。
出エジプト記25:8
画面越しに自分の顔が赤くなるのを感じた。そうだった。神様はイスラエルの民の中に住まわれることを望まれ聖所を造らせた。いつも共にいてくださるインマヌエルなる神様をないがしろにしていた気がして恥ずかしくなった。
大切なことはもっと基本的なことであり、神様の愛なるご性質だと思った。
われわれもまた困難な立場におちいった時には、神によりたのむべきである。われわれは、向こう見ずな行動によって苦境におちいることがないように、人生の1つ1つの行為に、知恵と判断とを働かすべきであ る。神がお備えになった手段を無視し、神がわれわれにお与えになった 才能をまちがったことに用いて、困難にとび込むようなことがあってはならない。キリストの働き人は、絶対的にキリストの教えに従うべきで ある。この働きは神の働きである。だから他人の祝福になりたければ、 神のご計画に従わねばならない。自我を中心とすることはできない。自 我が誉を受けることはできない。もしわれわれが自分自身の考えにしたがって計画すれば、主は、われわれをわれわれ自身の誤りの中に放置される。しかし神の指示にしたがっていて、それでも苦境におちいるようなことがあれば、神は、われわれを救ってくださる。われわれは落胆してあきらめてしまわないで、どんな危急の時にも、無限にどんな手段でもお用いになれる神に助けを求むべきである。われわれは、しばしばきびしい境遇にとりかこまれることがあるが、そういう時こそ絶対の信頼心をもって神によりたのまねばならない。神は、主の道に従おうとして困難におちいっている魂を1人ももれなく守ってくださる。各時代の希望 電子版 p379
インマヌエルの神 李根完牧師(メッセージは1:17:15から)
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