真実はどこに
自分が所属するキリスト教団は聖書に対する解釈が独特であると評されることが多い。また安息日(土曜日)を守る教会ということで奇異だと評価されてしまうことも多い。確かに他のプロテスタント教会の聖書解釈をみても、まず「聖所」を大きくクローズアップしているところはあまり見かけない。救われるプロセスである「義認」「聖化」「栄化」を教える教会も少ないのではないだろうか。ダニエル書やヨハネの黙示録に関する解釈も独特であると思っており。勿論「調査審判」などというおぞましい言葉を教会内の重要なキーワードとして掲げているところはまず無いと思う。実は職場の医院長はこの教団教理の主要な柱の一つである「調査審判」は無いとはっきり言い切るのである。その考えがよく分からないので、院長先生が出版している本を読んでみたが、途中までは少し理解できるものの後半は理屈が成立していない気がして余計に混乱してしまった。自分は、所属する教団の教理でおかしいと思ったところはないので疑問を持つこともなかったが、医院長の本を読んで「こういう考え方をする人もいるのだ」と新しい発見となった。何が真理、真実なのか自分のように頭の悪い人間にはよく理解できない。
この本を読み、それでも理解できなかったので本の要約を作ってみた。が、それでも理屈が分からないところが多々あり、「一体なにが真実なのだろう」「もしも調査審判がなければ、今までの自分は一体何を信じてきたのだろう」と不安な気持ちになってしまう。
実で見分ける
聖書の知識がないので細かいところがよく分からない。ならば、その「実によって」見分けるしかない、というのが今の自分の考えである。医院長先生はとても穏やかで誰に対しても親切な方である。常に携帯電話を持ち歩き夜中でも朝方でも患者さんからの要望にすぐに応えようとする。殆ど寝ていない。それでも診察を続け、それ以上の熱意を持って伝道する。自分はその姿に感動した。しかし徐々に内情が分かってくるに従ってそれだけではないことも見えてきた。教会が伝道をしないのも問題なのだが、バプテスマの殆どが医院長先生の導いた方である。これはすごいと思うのだが、しかしこれには裏がある。「バプテスマを受けたらお金を貸してあげる」「バプテスマを受けたら借金の返済を待ってあげる」などバプテスマには必ずお金や不動産の話が付いてくる。だからバプテスマを受けた途端に教会にも来なくなる。要するにイエスキリストに導いているのではなくお金に導いているのだ。併せて、病院の経営が逼迫しているのにお金を使うことはやめない。商売にもならない、得にもならないことにお金を使ってします。ほしいと思ったら必ず手に入れるしそのために借金が増えても一向に御構い無し。そのような面もみているので、難しい理屈は分からないが何となく「この先生の言っていることは間違っているだろうな」と思ってしまう。
別に教団や教理が人を救うわけではないので、大切なことはイエス様との個人的な結びつきだと思っている。願わくは、医院長先生の考えが教会の分裂、分派につながらないことを強く願うものである。
このように、あなたがたはその実によって彼らを見わけるのである。
Wherefore by their fruits ye shall know them.
(マタイ7:20)
帰り道に倒れていた人 | イエスの最後の四日間から学ぶ人間関係⑤
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