専門的知識

教科担任制

中教審がまとめた小学校教育に関する答申で「英語、算数、理科」において学級担任生から教科担任制の方向を目指すことが発表された。色々な意見もあると思うが自分はとても良い方向性だと考えている。数学や理科を専門に勉強してきた者としてその先に何があるかを知った上で教えるのと、知らないで教えるのとでは大きな違いがあると思っているからだ。勿論大学しか出ておらず、更にその先の修士課程や博士課程を修めたわけではないので、自分も専門分野の途上にいてその一部しか知らない人間の一人である。算数をこのように教えたら将来の微分や積分につながるのに、とか電磁石を教えるならここまで学ぶと更に興味を持てるのに、などと思ってしまうことがある。先に何があるかを知っていると自ずと教え方やその内容も変わってくると思う。逆に、例えば理科の教員免許を持っていても自分の専門は物理である。化学の内容は物理と近い関係にあるので大体のことは理解しているが生物や地学の分野は「教職課程」で学んだ程度で、高校生に教えるにはかなり努力をしないと間違ったことを教えてしまう可能性がある。物理分野以外を教えることも多々あり、教員免許も高校に関しては教科ではなく科目免許にしたほうが良いにではないかと思ってしまう。何れにしてもその先を知ること、知っていることの大切さを加味しての中教審の答申と捉え一定の評価をしている。

バレーボール部

新卒で赴任した中学校でクラブ活動の顧問になった。自分は中学時代から大学までサッカーばかりしていたのでできればサッカー部の顧問になれたらいいな、と思っていた。その年、中学1,2年生が新規のクラブ(新規というより休部中だったクラブを復活させるという意味)を立ち上げるべく私に声をかけてきた。新規のクラブを作るにはメンバーが5名以上、そして顧問をつけて生徒会に議案提出することが義務付けられていたからだ。新規クラブとはバレーボールクラブだった。正直バレーボールは遊びでしかやったことがないので顧問になれる自信がなかった。一度は断ったがあまりにも執拗にお願いしてくるので結局引き受けることにした。部長会議やクラブ顧問会、そして生徒会総会にて承認を得ることができバレーボール部がスタートすることになった。何を教えて良いのかわからなかったので、ネットなどが無い時代とにかく本を買い漁って研究し、付け焼き刃のクラブ活動を行っていた。しかしこれではいけない、生徒に失礼だと思いバレーボールの研修会がないか調べたところJT(現在のJTサンダーズ)が教員向けの講習会を行っているのを見つけ早速エントリーした。確か1週間ほどの講習だったと思う。毎日講習と称した練習が行われた。JTの練習メニューをこなすのがメインで途中で解説や指導方法が語られる。だからかなりハードな講習だった。一番最初の講習では「ボールに対する恐怖心を無くすためにどうしたら良いか」を学んだ。いきなり顔面に向かってボールを強打してきた。加減しているとはいえプロの打つボールなので脳震盪のような状態になった。「これでボールに対する恐怖心はなくなります」と解説していた。こんなこと教育現場でできる指導では無い。コート上(勿論マット無し)で前転をしてレシーブをさせられたり、ブロックは手を前に出すのではなく息をはいて自然に体が前傾姿勢になることを教えるため、立ち上がれなくなるまでネット前でジャンプをさせられたりした。毎日の練習メニューが恐怖で仕方なかったが1週間後にはかなりバレーボールの知識と技術、そして練習方法が身についた。この経験は自分の教員生活の中でもかなり大きな経験となっている。これをクラブに持ち帰り生徒たちに少しずつ基本と技術を教えていった。若いこともあり生徒たちは飲み込みが早い。クイックも簡単にできるようになり中学1,2年生だけのチームとはいえかなり強くなった。力試しに3年生の選抜チームと練習試合をしたが簡単に勝ってしまった。次に教員のチーム。こちらも相手ではなかった。高校生に試合を挑んだが高校生にもストレートで勝つことができた。結局学校内に戦える相手がいなくなってしまったのでもっぱら紅白戦が力試しの機会となった。

自分はJTの講習を受けた、にわか顧問だが、それでもバレーボールのその先にあるものを教えていただいた。先がわかっている者は「なぜそうするのか」の理由が分かっている。前述の教科担任制同様、先がわかっていることの重要性を痛感する。

静けき河の岸辺を

有名な讃美歌に「静けき河の岸辺を」という題の讃美歌がある。作詞者は「ホレーション・ゲーツ・スパフォード」さん。彼がどのような境遇でこの讃美歌を作詞したのかを説明した文章をネット上で見つけた。以下、その内容を引用させていただく。

この讃美歌の作詞者ホレーション・ゲーツ・スパフォード(1828-88)は、医者であり、大学教授であり、神学校の理事もしていました。頭が良く、人徳にも優れ、信仰も篤く、誰もがうらやむような人間でした。

 しかし、彼は深い悲しみを知る人でもありました。この讃美歌を作詞する2年半前のことです。彼は一人息子を亡くしました。そして、その半年後に火災によって財産を失います。さらにその2年後、彼はこの讃美歌を作るきっかけとなった大きな悲劇を経験します。

 彼は家族でヨーロッパ旅行をし、旅行の終わりには有名な伝道者ムーディ等と共にイングランドの伝道に参加する予定でした。しかし出発直前にホレーションに急用ができてしまいます。彼はやむなく奥さんと4人の娘だけを出発させたのです。ところが、ホレーションの家族が乗った船は衝突事故を起こし、大西洋のど真ん中で転覆、わずか12分で沈没してしまいました。奇跡に奥さんだけは助かりましたが、最愛の4人の娘たちをいっぺんに失ったのです。

 彼はすぐに他の船で悲劇のあった大西洋に乗り出しました。そして、荒れた海の中になくなった娘たちの面影を、そして神様の摂理を思いながら、この讃美歌を作ったのでした。

 しずけき河の岸辺を 過ぎゆくときも
憂き悩みの荒波を わたりゆくおりにも
心やすし、神によりてやすし

 この詩にあるのは悲しみや嘆きではありません。もちろん、彼はどんなにか悲しみ苦しんだことでしょうか。しかし、いかなる道、いかなる困難においても、神の救いを信じ通し、平安の道を歩ませてくださいという祈りがここにあるのです。

(日本基督教団荒川教会 
讃美歌物語より引用  http://www2.plala.or.jp/Arakawa/sanbika520.htm

 

作者は絶望的な苦しみの中にあって、更にその先に視線を向けていたと思われる。理由は分からないが神の特別な計画がここにあることを信仰の目でみていたのだとおもう。

先が見える人、その理由が分かる人は本当の意味で強い人なのだと思う。

「静けき河の岸辺より」の讃美歌はこちら

同じ讃美歌の英語バージョン “It Is Well”はこちら

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