20年ぶり
久しぶりに海軍壕公園(旧海軍司令部壕)に行った。というか、今住んでいるところから徒歩1分で行ける。結婚前に妻と一緒に行った場所。妻は沖縄出身ではあるが沖縄の歴史にあまり関心がない。地元の人にとってはそういうものなのかもしれない。自分には沖縄の歴史がとても興味深く尊いものに感じられる。地下要塞のように造られている司令壕をはじめて訪れたのが20年以上前だがまさかその場所の住むようになるとは思っていなかった。周囲も公園に整備され20年前とはなかり雰囲気が変わっている。資料館を含めて壕に入るには大人600円がかかるが県民だと半額になる。一昨日、4月6日をもってはれて沖縄県民になったので免許証を提示すると本当に半額になった。2度目の沖縄県民。
海軍壕
慶良間諸島を制圧したのち本島にやってきた米軍。読谷村より本土入りしたのち南下する部隊と北上する部隊とに分かれた。南下する部隊は宜野湾、浦添等を次々と制圧しいよいよ那覇(首里)、そして糸満、現南城市へと戦地をうつしていく。日本軍も抗戦、応戦するが兵力が全く違う。戦闘機一つとっても日本軍の飛行機約1万機に対して米軍はその10倍。10万機以上を投入している。海軍司令官の大田実は早い時点で負け戦であることを把握していた。沖縄にとっての終戦記念日は6月23日、慰霊の日と以前の投稿にも記したが牛島満陸軍指揮官の自決をもって沖縄は陥落した。慰霊の日は有名であるがこの10日前、6月13日に大田実氏は数名の幕僚とともに自決している。手榴弾を使った自決であるがこのとき54歳だった。今の自分よりも若い。自決した場所も写真とビデオに記録したが、この場所が生死を分けるとんでもない修羅場だったことを思うとただただ悲しくなる。
電文
大田氏が自決する1週間前、彼は海軍次官宛に電文を打っている。原文は分かりにくいので現代訳文を紹介したい。
昭和20年6月6日 20時16分
次の電文を海軍次官にお知らせ下さるよう取り計らって下さい。
沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告されるべきですが、県にはすでに通信する力はなく、32軍(沖縄守備軍)司令部もまた通信する力がないと認められますので、私は、県知事に頼まれた訳ではありませんが、現状をそのまま見過ごすことができないので、代わって緊急にお知らせいたします。
沖縄に敵の攻撃が始って以来、陸海軍とも防衛のための戦闘に専念し、県民に関しては、ほとんどかえりみる余裕もありませんでした。しかし、私の知っている範囲では、県民は青年も壮年も全部を防衛のためかりだされ、残った老人、子供、女性のみが、相次ぐ砲爆撃で家や財産を焼かれ、わずかに体一つで、軍の作戦の支障にならない場所で小さな防空壕に避難したり、砲爆撃の下でさまよい、雨風にさらされる貧しい生活に甘んじてきました。しかも、若い女性は進んで軍に身をささげ、看護婦、炊飯婦はもとより、防弾運びや切り込み隊への参加を申し出る者さえもいます。敵がやってくれば、老人や子供は殺され、女性は後方に運び去られて暴行されてしまうからと、親子が行き別れになるのを覚悟で、娘を軍に預ける親もいます。
看護婦にいたっては、軍の移動に際し、衛生兵がすでに出発してしまい、身寄りのない重傷者を助けて共にさまよい歩いています。このような行動は一時の感情にかられてのこととは思えません。さらに、軍において作戦の大きな変更があって、遠く離れた住民地区を指定された時、輸送力のない者は、夜中に自給自足で雨の中を黙々と移動しています。
これをまとめると、陸海軍が沖縄にやってきて以来、県民は最初から最後まで勤労奉仕や物資の節約をしいられ、ご奉公をするのだという一念を胸に抱きながら、ついに(不明)報われることもなく、この戦闘の最期を迎えてしまいました。
沖縄の実績は言葉では形容のしようもありません。一本の木、一本の草さえすべてが焼けてしまい、食べ物も6月一杯を支えるだけということです。
沖縄県民はこのように戦いました。県民に対して後世特別のご配慮をして下さいますように。
戦争と戦争の噂
壕の見学では多くのアメリカ人と一緒になった。かつての敵国同士が戦争の爪痕を見学していることに不思議な気持ちを抱いた。戦争の無い世界、心から願うものであるが中国が台湾上空を包囲するシミュレーション飛行を行った。そして今日も朝から戦闘機が轟音と共に飛んでいる。自衛隊のヘリが墜落したこともあるかもしれないが、沖縄の空が非常に騒々しい。やはり戦争に向かっているのだろうか。
宜しければこちらのクリックもお願いいたします
↓↓↓↓↓↓↓