全てをキリストに

引っ越し

昨日、引っ越し準備のために自宅に戻った。自分はいつも自宅とは違うところに住んでいるので自宅は長い間空き家になっている。荷物はまだ残ったままだ。今住んでいる所から2時間近くかかる自宅に着くなり自然と涙が出てきた。「ここで1年前まで家族が暮らしていたんだ」と思い出し、1年間止まった時が動き始める気がした。しかし家族全員ではなく自分ひとりで。荷物ひとつひとつに思い出があった。子どもと遊んだおもちゃ、子どもがきていた洋服、家族が座っていたそれぞれの食卓、誰もいないのにずっと1年間時を刻んでくれた時計。全てが懐かしくてたまらない。翌日が「燃やさないゴミ」の日だから多くのものを捨てなくてはならない。本当に身を裂かれる思いだった。ものが惜しいのでは無い。物に込められた思い出も一緒に捨ててしまう気がしたのだ。ふと気づくと押入れの奥の方に妻のしまっていたダンボールが2箱あった。封はしてなかったので何気無く見たら結婚式の色々な品だった。妻が作ったwelcomeボードに置く夫婦のウサギやアルバムなど沢山の思い出が残されていた。その中を更に探っていくと、自分が結婚前に妻に送った手紙や母が妻に送った手紙などが後生大事に保管されていた。妻の思いが伝わってくる。また、子どもの洋服も小さくなっているので全部捨てなくてはならなかったがきちんと整理されており、またその量の多さにも驚かされた。妻は自分の洋服や化粧品を買わずに子どもの物ばかり買っていたのを思い出し再び涙が流れた。

祈りが聞かれない

家族が出て行く前からずっと「家族が出ていかないように」と祈り続けた。が、結局子どもたちも妻に連れられて出て行ってしまった。今度は「近い将来家族全員が揃ってまた一緒に生活できますように」と祈ってきたが、今年になって離婚を切り出され離婚届が送られてきた。祈ったことが全て逆へ逆へと進んで行くような気がして、神様に祈り続けることが正直嫌になった。祈れば祈るだけ災いが起こる気がしたのだ。「だったら祈らないほうが良いのでは無いか」と思ってしまった。

しかし、離婚届が届いてから自分の気持ちが少しずつ変化していることに昨日気づいた。離婚を急かすメールや手紙、電話が続き本当に気が狂いそうになり妻が怖くなった。いや、正確にいうと妻からくる連絡が怖かった。一方で妻の気持ちが少しずつ理解できるようになってきて彼女に対する気持ちが強くなっていることにも気づいた。

昨日、自宅の整理を終えて寂しさと悲しさを抱えながら帰路についたが強がっていた妻が最も支えて欲しかったのでは無いかと思った。そしてその気持ちに応える事ができず自分のことばかりを考えていた自分に失望した。支えて欲しい人が頼りにならないから出て行ったのだ。そんなことも分からなかった自分が情けなかった。

しかし、愚かな自分には別居や離婚を迫られる経験がなければ決して妻の気持ちを理解することはできなかったのだと思う。そう考えると自分が祈った事が逆へ逆へと導かれたことは本当は祝福だったのでは無いかと思うようになった。

仕事も引っ越し先も決まらない

復職にあたって、自分が希望する勤務地がある。自分の希望というより家族がまた揃って暮らすという極めて低い可能性にかけた勤務地である。しかしそれは難しい、無理だと言われた。何度も言われた。色々な事情を聞いたので無理な理由もよく理解できている。しかし、無理だからこそ祈るのであって無理でなかったら祈らない。自分はもう一度祈り続けてこの希望を復職願いと共に出してみた。神様は何をしてくださるのだろうか。勿論最終的には神様のご命令に従いたいと思っている。

祈りながら自分の弱さを痛感する毎日である。しばらく前の生き生きとした自分はどこに行ったのか。自信もなければ力もない。されるだけ攻撃されて心が折れてしまったのかもしれない。

しかしこんな弱い自分にも「全てを任せなさい」とおっしゃってくださる神様がいらっしゃることはなんと素晴らしいことだろうか。

3月も3分の1が過ぎたところで、まだ仕事場も引っ越し先も決まっていない。一体どうなるのだろうか。世の中にこんなスローペースな社会人がいるだろうか?恐らく自分だけだと思う。しかし、最後まで神様を信じ、信じ抜いて生きたいと思う。

youtubeにあった「弱き者よ我に全て」という讃美歌

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