疑いと信頼
昨晩、ある卒業生で元同僚の投稿を偶然見つけた。SNS上で彼は自分の迷いと不信仰を吐露していた。自分のような罪深い人間にとっては、まだまだかわいい内容に思えたが本人は至って真面目に悩んでいる。そしてこれから神様に立ち返り全てを委ねたいと思っているがそれがなかなかできないでいる現状を伝えていた。すぐにDMを通して彼にメッセージを送った。自分のようなものが何かを語れるとも思わなかったが、似たようなことで悩み神様を見失いかけている彼に共感できたので祈っていることを伝え、聖書の言葉を送った。すぐに返信がありより深い内容を知らせてくれた。その後何回かのやり取りをしたが、後半は少し落ち着いていた。「僕の祈りは、祈りというよりもはや叫びだよ。毎日ではないけど、苦しくなると車で出かけ車内で泣きながら叫んでいるよ。神様もそろそろ嫌気がさしているんじゃないかな(笑)。でも自分には叫べる相手が神様しかいないから」と伝えると、「自分も同じです。神様は本当にいるんですか?って何度も何度も叫んでいます」と返信して来た。神様がいるんですか?って神様に問いかけるのは、疑いながらもまだ神様を信じていることなのかもしれない。彼のことを祈りのノートに加え毎日祈ることを約束した。
安息日の祝福
今日は月に一度の牧師先生が来られる日。牧師先生が来られる時はいつもより30分早く始まる。直前まで聖書研究をして教会に出かけた。すぐに聖書の学びが始まったが多くのことを教えていただき祝福をいただくことができた。あるおばあさまが、最近の体調不良を証しされた。特に目が悪くすぐにでも手術をしたいのだがそれが叶わず今も苦労していること、そして神様が本当にいるならすぐに癒してくださいと祈っていることを話してくださった。何か、多くの方が自分と同じ祈り、叫びを神様に向けていることが分かり「自分だけではないのか」と思った。状況は違うけれどみなさん神様に窮状を訴えそれに忍耐しそれでも祈りが聞かれないから神様の存在を疑い叫んでいる。こうやって色々な経験を通して神様は一人一人の信仰を育んでいらっしゃるのかもしれない。
金継ぎ
日本には割れた瀬戸物を金や銀などの金属を用いて接着する技術がある。自分は知らなかったのだが、しばらく前に聖書研究のテキストを通して外国の方が教えてくれた。金継ぎという技術である。割れた瀬戸ものを金継ぎで補修することで以前よりも価値ある器になることもあるそうだ。
自分のような愚かで価値なく罪深い人間をイエス様はまだ諦めないでいてくださることをこの安息日に学んだ。人は自分を見捨てたが、神様はまだ見捨てていない。そして金継ぎのように欠けたところを修復してくださる。その修復が、罪深い人間にはとても痛く感じる。そんな修正などしなくて良いから命を取ってください、と言ってしまうほど痛い。しかし、やがてこの補修によって元どおりあるいはそれ以上の作品にしていただける。
人との交わりや聖書の学びでそのようなことを考えることができた安息日だった。
2022年2月12日 「獄中の讃美」 安息日礼拝LIVE配信
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