ライカ
自分が写真を好んで撮るようになったのは35年ほど前から。当時は好んで、というよりも必要に迫られて写真を撮っていた。それまでキャノンとオリンパスのカメラを愛用していたがキャノンのEFマウントに全てを切り替えた。途中ニコンにも寄り道したことがあったが基本的にはキャノンを多用してきた。が、今から25年ぐらい前からライカにも興味を持つようになった。キャノンのシステムを全て売ってもライカのボディーが買えるかどうかわからないほど高価だった。仕方なく旧式の中古品を買った。最初に買ったのはライカM4だったと記憶している。銀座のレモン社で本体を25万円ぐらいで買った。レンズは5cmのズマリットを買った気がする。しばらく交換レンズが買えなくて数年は5cmの世界を撮り続けた。そしてしばらくしてM4を処分してM6にかえた。このときレンズも一本買った気がする。エルマーの90mmだったか。その後銀塩時代が下火になりデジタル時代になったのでM6をM8にかえた。3年前までこのシステムを使用していた。が、レンズの管理も難しくなり思い切って全てを売ってQ2にかえた。今はQ2とD-Luxを使っている。キャノンのシステムはそのまま残しているがもっぱらライカだけを持ち歩くことが多くなった。そもそも、何故ライカを使うようになったのか?影響を受けた写真家さんは何人もいる。アンセル・アダムスさんの米国国立公園の写真は実物をみるまで絵だと思っていた。大型カメラを使うアンセル・アダムスさんから大きな影響を受けた。また前田信三さんの切り取る風景写真からモノトーンのアンセル・アダムスさんとはまた違った表現を学んだ。中盤カメラ、特にハッセルブラッドを真似して買ったのも前田さんから影響を受けたためだ。ロバート・キャパ、田中長徳、一ノ瀬泰造など数々の著名写真家さんから影響を受けたがライカについては沢田教一さんからの影響が大きかった。
沢田教一
青森県出身ということで少し身近に感じる沢田さんは高校卒業後、青森市内の写真展で働き技術を学んだ。そのころファーストライカであるM2を購入している。25歳で上京しUPI通信社に就職、その後産経新聞をはじめ大手新聞社からオファーを受ける。1966年、UPI時代に撮影した「安全への逃避」が後にピュリッツァー賞を受ける。
ベトナムでの報道カメラマンとして長きに渡り働きベトナム戦争の写真は多数ある。一度ニコンのカメラを使用したこともあったそうだがジャングルでは使い物にならず「こいつのせいで決定的瞬間を撮り損ねた」とニコンを地面に叩きつけるエピソードも残っている。ライカに対する絶対的な信頼を置いていた。カンボジア、プノンペン付近で襲撃されあまりにも早すぎる生涯を終えた。1970年、34歳のこと。
報道カメラマン
現在はライカがなくても良い写真は撮れる。またいたるところに監視カメラが設置されており、更に誰もがスマホで報道カメラマンになれる。実際、何かの事件や事故が起きた際目撃者の撮影した動画が証拠になったり報道に使われる。全く方向は違うが自分の投稿した動画に注目を集めようと飲食店を陥れる事件が起きているが悲しい現実だと思う。
ずいぶん昔にどこかのテレビ局(米国)が言っていたのを記憶している。文章を覚えていないが内容としては、自分たちの最後の使命はイエスキリストのご再臨を報道することである、と言っていた。映像を全米に放映し「以上でこの地上での弊社の任務を終了します」と締めくくると言っていた。なるほど。その歴史的光景を、メディアを通してではなく自分の眼で見てみたい。
アジアンドキュメンタリーズ 配信「SAWADA 青森からベトナムへ ピュリッツァー賞カメラマン 沢田教一の生と死」予告編
宜しければこちらのクリックもお願いいたします
↓↓↓↓↓↓↓