主に帰ろう

安息日のルーティーン

今日は安息日で礼拝日。朝から弘前のある方を訪問して教会までお連れする奉仕をさせていただいた。病院の送迎の方は毎日行っているので道も覚えてきたが、この方は週に一度の訪問なので今日も間違えずに行けるか不安だった。ナビのついていない車での迎えだったのでカンピュータナビを使ってなんとかたどり着いた。その方をお乗せして教会までのおよそ30分間、色々なお話をさせていただきながら運転していた。その方は昔大型トレーラーや夜行バスなども運転していた経験があるとのことでプロドライバーである。訳あって運転をされなくなったとのことだが、ただでさえ上手ではない自分の運転が恥ずかしく萎縮してしまった。その方はトレーダーで結構景気の良い話もされていた。自分はそのような方面に全く明るくないので説明されても意味はよく分からなかった。教会について、聖書研究の時間と礼拝の時間を過ごして帰ってきた。家に戻ってから他の教会の礼拝メッセージを色々と検索して聴いていた。その中で非常に心引かれるメッセージがあった。

苦しみの意味

広島にある教会の牧師さんが話していたことだった。聖書の中にハンナという女性が登場する。旧約時代の預言者、指導者として有名なサムエルと言う人がいるがその母親である。ハンナは長い間子どもができず悩み悲しんでいた。夫エルカナにも相談するが埒が明かない。もう一人の妻であるペニンナには子どもが与えられていた。そして子どもが生まれることでこのペニンナがハンナに辛く当たるようになる。その屈辱もありハンナは神様に必死に祈るのであるがなかなかこの祈りが聞かれない。食べることもできないほど苦しみ祈り続けた。そしてある時、ついにこの祈りが聞かれる時が来るのである。そしてこの祈りが聞かれ、生まれてきたのがサムエルであった。

神様はハンナの真心を求めるが故に彼女の胎を閉ざされた。今日、聴いたメッセージによれば「苦しみの意味」は神様からの招きであるとのことだった。神様は一人一人を心から愛し「災いの計画」ではなく「平和の計画」を持ってくださっている。自分の祈りがことごとく神様から無視されている状況いついて本当に苦しんできたが、今日の礼拝メッセージで少し光が見えた気がした。必死に祈り神様に訴え続けてきたが、実は必死に求めていらしたのは神様の方で私の応答を求めていたのかもしれない。聖書のホセア書には次にような言葉がある。

「さあ、わたしたちは主に帰ろう。
主はわたしたちをかき裂かれたが、
またいやし、わたしたちを打たれたが、
また包んでくださるからだ。

 Come, and let us return unto the LORD:
for he hath torn, and he will heal us;
he hath smitten, and he will bind us up.

ホセア6:1

自分なりに必死に神様にすがり祈り続けてきたつもりだったが、神様の期待されているものではなかったのかもしれない。もう一度自分自身を見つめ直し信仰をいただきながら祈り続ける日々を送りたいと思う。「主に帰る」、自分のようなものを招いてくださる「主に帰る」ことを真剣に考えたい。

「悲しみから歓びの歌へ」(メッセージは24:20から)

主に帰ろう(讃美歌)

 

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