道しるべ

道を見失うとき

日本には3000基以上の灯台がある。が、GPS技術の進んだ現在、灯台の役目も昔ほど貴重ではなくなってきているという。確かにカーナビは行ったことのない場所に自分を連れていってくれる。カーナビだけではない。現在はスマホのアプリでもナビゲーションシステムがあるので音声案内に従えば確実に目的地に着くことができる。事前に地図を確認する必要はなくなりつつある。

人生においても道を見失うことがある。これからどのように進めば良いのか考えあぐね立ち止まることも多々ある。そのような時、どのように対処すれば良いのだろうか。自分も毎日のようにその方法を知りたく祈り続ける日々を送っている。

最良の方法は聖書の神様に聞くこと。漠然とした言い方だが、要するに聖書はなんと言っているか、何が神様の御心(みこころ)なのかを聖書の言葉から類推することが道しるべとなる。そして祈ること。何が御心であるのかを熱心に求めることが必要である。

今、「ヨハネの黙示録」を勉強しているが欺瞞者であるサタンがイエス・キリストのように再臨し、人々を惑わすことを学んだ。キリストがご自身の身分証明として用いられた「奇跡」「不思議な業」「しるし」の3つをサタンも真似て自分こそキリストだと言って出現する。イエスキリストは世の人々がはっきりと分かる形、「稲妻が東から西へひらめき渡るように人の子も来る」のでインタネットやテレビで世界中の人が再臨の光景を確認するとか、秘密に来られて人々を携挙するというものではない。しかしこれも聖書に照らし合わせて吟味しないと、本物の再臨と間違えてしまう。サタンの欺瞞に対抗できるのは個人的な神様との交わりと聖書研究しかない。これこそが終末時代のナビゲーションシステムなのだ。

本物に委ねる

今日、牧師先生からひとつのお話をシェアしていただいた。以下その内容である。

どれくらい祈ればよいのでしょう?

リサ・ロシアン

(ニューヨーク州ウエストチェスターに勤務する看護師。人々のための執り成し、特に女性を励まし弟子訓練することをライフワークとする。彼女の望みは、人々との交わりの中でキリストの祝福の証人となることであり、それを日々の目標にしている)

あなたはこれまで、一つのことをどれくらいの期間祈り続けるべきかについて悩んだことはありませんか? 多くの人がこのジレンマを抱えていますが、正直に言えば、私も何度も自問した経験があります。

私は数年前から祈りの日誌をつけるようにしています。答えられた祈りもたくさんありましたが、明確に答えられなかった祈りも数多く記載されています。このような祈りについて、私たちはあきらめて祈るのをやめるべきでしょうか?

あるとき私は、聖書の登場人物の経験の中にその答えを見つけられるのではないかと考えました。その一人が、サムエル記上1章に登場するハンナという女性です。彼女はエルカナの二人の妻のうちの一人でした。聖書によれば、主がハンナの胎を閉ざしたために彼女には子どもが生まれませんでしたが、それでも夫のエルカナはハンナを愛し続けました。エルカナは毎年、主を礼拝し、犠牲を捧げるためにシロに上りましたが、ハンナともう一人の妻ペニンナ、そして子供たちも一緒でした。ペニンナはハンナに子どもができないことを理由に彼女をあざ笑いました。泣きっ面に蜂とはこのことです。ハンナにとっては、これ以上ないほどの屈辱的な旅だったはずです。

ハンナは心を痛めて泣き通し、食事ものどを通らないほどでした。エルカナは彼女を愛していましたが、彼女の悲しみを十分理解してはいませんでした。彼は良かれと思って妻に思いやりを示し、彼女の気持ちを楽にすることで、心に空いた穴を埋めることができると考えていましたが、実際には問題の本質を見逃していました。人生において、私たちはしばしば誰にも理解してもらえない痛み、苦しみを経験することがありますが、人には理解できなくても、神様はすべてを理解してくださるお方です。

聖書によれば、ある年のシロでの犠牲の食事の後で、ついにハンナは祈るために神殿に向かうのです。私の想像では、ハンナはおそらく何年も何年も、神様に子どもを与えてくださいと祈り続けてきたのだと思います。あまりに真剣に声を上げて祈る彼女の姿を見て、祭司エリは彼女が酔っぱらっているのではないかと勘違いするほどでした。エリから励まされたハンナは、ようやく立ち上がることができました。そして聖書は、その後ハンナが身ごもったと記録しているのです。彼女は自分の願いに、神様が明確な答えを与えてくださるまで祈り続けたのです。

もう一人の登場人物はダビデです。バテシバとの不倫の末、男の子が生まれました。預言者ナタンはダビデに向かって、「主はあなたの命を取ることはしないが、その子は確実に死にます」と言い残して去っていきました。聖書によれば、主がその子を打たれたので、子どもは重い病にかかります。ダビデは断食して主に祈りました。一晩中、地の上に腹ばいになって真剣に祈り続け、ハンナと同じように食べることさえしませんでした。7日後にその子は亡くなるわけですが、ダビデも神様が答えてくださるまで必死に祈り続けたのです。

一方はハッピーエンドで、もう一方はとても悲しい結末となりました。しかし二人とも、神様が答えてくださるまで真剣に祈り続けたのです。ハンナは、待ち望んだ赤ちゃんを手にすることができましたが、ダビデはそうではありませんでした。しかし興味深いことに、ダビデは自分の祈りが答えられなかった時にも驚くべき態度をとったのです。従者たちが彼に悲報を告げたときにも、ダビデは落ち込んだり、怒り叫んだり、恨みを口にすることはありませんでした。彼は立ち上がると身を洗い、油注ぎをし、身なりを整えて主の家に入り礼拝した、と記録されているのです。

詩篇に見いだされるように、ダビデの生涯は喜びの感情と悲哀とに満ちていて、良いことも悪いこともすべてが豊かに表されています。この日、ダビデが主に捧げた礼拝は、たとえ失望や悲しみの只中にあっても、目の前で起きていることに目をとめず、ただ永遠に真実であられる神様のみ顔を見上げて、賛美と感謝と忠誠を尽くした行為ではなかったかと想像するのです。

ハンナの祈りの推移についても考えてみましょう。彼女はおそらく、祈りが答えられない現状の中でもあきらめずに祈り続けるうちに、ただ子どもがほしいと切望する祈りから、たとえ子どもが与えられた後でも、神様への献身を忘れることがないようにとの祈りに変えられていったのではないでしょうか? 神様よりも、子どもを優先してしまう誘惑に陥ることがないように、自分の信仰を守ってほしいと懇願するようになっていったのではないかと思うのです。この心の変化が、苦しみの祈りの中で彼女に「もし男の子が生まれたなら、その子を主に捧げます」と躊躇なく言わせた原因であったのではないかと想像するのです。

祈る目的とは、自分が願ったものを手に入れるだけではなく、神様が望んでおられる状況(状態)を手にするためでもあるのではないでしょうか?

「神様が望まれるとおりにしてください」と私たちが祈りはじめたならどうなるでしょう。個人の願いや欲求を脇へ置いて、ただ神様が望まれる姿に私たちを造り変えてくださいと祈るのです。そして、その祈りが明確に答えられるまであきらめずに祈り続けるのです。周りの状況に変化があってもなくても、私たちの心に神様が明らかに答えてくださるまで祈り続けるのです。

神様にもっと信頼できるように、さらに清く謙遜な心になれるように、たとえ痛みや失望、悲しみが襲ってきたとしても、神様をより近くに感じられる経験に導かれるように、あなたも共に祈りはじめてみませんか? 祈る行為そのものが私たちを造り変え、私たちを主のみもとにひきあげてくれるのです。祈りは神様と取引することではありません。神様との関係を築くための交わりなのです。信仰とは、結果がどうであっても、神様に信頼し続けるという意味であって、ときには答えが与えられるまで何十年も祈り続けなければならない場合もあるでしょう。たとえ祈りの結果与えられた「答え」が、自分が当初求めていたものと違っていたとしても、それは神様のみ言葉に注意深く耳を傾けることで謙虚にされ、忍耐強くされ、神の愛をさらに深く知る経験にあずかった「自分自身」であるかもしれないのです。

ルカによる福音書18章1節は「常に祈り、心を失わないように」と教えています。キリストは私たちの信仰を成長させたいと願っておられます。何を祈るときにも、先のことがまったく見えなかったとしても、決してあきらめないでください。神様はご自分のなさろうとすることをすべてご存じであるという事実にもっと目をとめるべきです。この祈りの経験は、あなたの当初の願いよりも、さらに深く、さらに豊かに祝福を受けるための機会となるかもしれないからです。

主があなたに明確な答えをくださるまで、どうかあきらめずに祈り続けてください。

祈ること、と祈ったことの結果は全て神様に委ねることを教えてくれている。神様は自分にとって最高のものしか与えられないという信仰が必要である。熱心に祈り続け結果を委ねる信仰、これが自分には欠けている。

道を見失った時、という日本語訳で昔歌っていた讃美歌がある

讃美歌の動画はこちら

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