生きているうちに
昨日、生きているうちにやっておきたいことを考えていた。見たり聴いたりすることが殆どだった。その中の一部。
・アンコールワットに行く
・与那国島の海底遺跡を実際に見て映像を残す
・もう一度グランド・ティイトンに行く
・もう一度聖地旅行に行く
・サイトウキネンオーケストラ、現Seiji Ozawa松本フェスティバルに行く
・マチュピチュに行く
マチュピチュ
アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿った山の尾根にある世界遺産であるマチュピチュ遺跡は標高2400mを超える場所に位置する。調べてみるとここに行くまでに標高3000mを超える場所を通過する必要があるらしい。インカ帝国は1500年代、スペインに滅ぼされるが日本との関係が非常に強かったという話もある。噂の域を出ないがインカ帝国の高貴な人たちが用いた言葉は日本語だったという説もある。
野内与吉
マチュピチュについて全く知識がないのだが、いくつか驚く情報があった。マチュピチュ村の村長を日本人がつとめたことがあった。野内与吉さんとおっしゃる方がマチュピチュの村長だった。福島県玉井村(現大玉村)の農家出身だった与吉さんは1917年21歳の時に契約移民としてペルーに向かった。が、現地では賃金の不払いなどがあり南部クスコで鉄道会社に勤務するようになる。その頃から後にマチュピチュ村になる場所で生活をはじめた。40人ほどの仲間と共に村を作り上げた。アイデアマンだった与吉さんは山から水をひき、また温泉を発見してそれもひいて日本の風呂を広めた。ダムを造って水力発電をはじめた。1948年には土砂災害に見舞われた際、地方政府から村長に任命され村の復興を頼まれた。1935年にはマチュピチュの調査団を迎え入れるためにホテルを建てた。3階建てで21部屋のホテルである。またクスコなどへの行商人の宿泊所としても多く利用された。
与吉さんの功績もあり2015年、マチュピチュ村は福島県玉井村は友好都市協定を結んだ。
架け橋
昔、橋を造る人が偉大だと思っていた。今もそう思っている。以前に受け持った生徒の保護者で「アクアライン」を造っている方がいらっしゃった。当時横浜(川崎)から千葉の陸路はものすごく大回りをしなくてはならなかったが、これが直線で結ばれたのだからすごいことだと思う。橋は人や車を行き交わして文化や習慣も交流できるようになる。ヤコブが幻で見た天から地上に降りるはしごもふたつの空間を繋ぐ架け橋といえる。ふたつの異なる空間をつなぐ橋。イエス様は神様と人類をつなぐ唯一の架け橋となってくださった。存在をかけて、ご自身が架け橋となってくださったことを心から感謝したい。
モーセもまた架け橋
モーセはただ1人で死に、地 上の友はだれも彼の最後を見とるのを許されないことを知っていた。前途には神 秘と恐れが横たわり、それを思って彼の心はひるんだ。何よりもつらいのは、彼 が保護し、愛してきた民、長い間彼の関心と生命とが結びついていた民と別れな ければならないことであった。だが、彼は、神に信頼することを学んでいた。彼 は、自分と自分の民とを疑うことなく神の愛と憐れみに委ねた。
人類のあけぼの電子版 p408 モーセの死
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