取税人マタイ

取税人という仕事

紀元前1世紀、ユダヤはローマの属州であった。自治権はあったものの税金はローマに納め裁判も種類によってはローマのそれを受けなければならない。だからユダヤ人はローマが大嫌い。ローマを敵視するパリサイ派というユダヤ教の一派が比較的民衆からは受け入れられていたが彼らのつくる口伝律法には閉口していた。そのような時代背景の中、新約聖書には「取税人(しゅぜいにん)」という言葉がよく出てくる。「徴税人」とも言われる人たちである。聖書に出てくる有名どころといえば「マタイ」や「ザアカイ」が挙げられる。彼らはユダヤ人でありながらローマの手先になって同胞から税金をとる。敬虔なユダヤ人が神に仕えるのに対して取税人はお金に仕えるのである。所謂「売国奴」である。だから彼らは大変嫌われた。嫌われたというレベルではない。絆の強さで有名なユダヤ人コミュニティーから抹殺されていたのである。彼らは神殿に対して捧げ物ができない。彼らの財産は盗んだもので汚れているから神殿では受け取ってもらえないのである。色々な取税人がいる中で特に嫌われたのが通行税を徴収する取税人。この仕事はローマに対して入札形式でアプライする。「自分を取税人にしてくれたらこの金額を毎月ローマに納めます」という入札だ。逆にいうと通行税の相場なんてあってないようなもの、取税人の言い値になる。ローマに支払う税金さえ確保できればそこから先は全て自分の儲けになる。だから彼らはお金を持っているし、大変嫌われた。

マタイという人

このようなユダヤ人社会から全く拒絶され、一方で財産だけが増えていく日々を過ごしていたマタイは一体何を考えて生活していたのだろうか。ある書物によるとマタイは、自分は罪人の中でも最も許されない罪を犯している罪人、最悪中の最悪なる人物であることを自覚していたという。そんな彼にも仲間がいた。同じようにユダヤ人社会から拒絶された人々、同業者の取税人や売春婦たちである。日々悶々とし、満たされない、喜びのない毎日を送っていた。もしかしたら自分の罪深さ故に自死を考えたこともあるかもしれない。そんな時だった。彼の仕事場であるカペナウムにイエス・キリストがこられた。通行税を徴収する仕事柄往来する通行人が喋っている会話の内容が耳に入ってくる。最近特に「イエス・キリスト」なる人物の名前がよく聞かれる。興味を持っていた。イエスが病人を癒した、イエスが悪霊を追い出したなどの会話が聞こえてくる度に「そんな人がいるのなら是非一度会ってみたい」と思っていた。そして本当に目の前にイエス・キリストが現れるのである。しかも直々に声をかけてくれたのである。

さてイエスはそこから進んで行かれマタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。(マタイによる福音書9:9)</font color=#blue”>

マタイは通行人の会話からイエスという人物をイメージし、初対面なのに従っていった。イエスに招かれた弟子は全員で12名居るがその中の数名はガリラヤ湖の漁師である。彼らもイエスに従ったが万が一食いっぱぐれたとしても、漁師としての技術がある。実家に戻れば船も網もある。手直しすれば使える道具もある。しかしマタイは違う。イエスに従って食いっぱぐれたら、もう他に行くところは無い。仕事を探して生活の糧を得たくてもユダヤ人社会が受け入れてくれない。聖書にはとても簡単に記述されて居るがマタイがイエスに従うということはまさに背水の陣。それでもマタイは今の満たされない生活、罪の負目に悩む生活よりイエスに従う道を選んだ。前述と同じ書物に

「もしイエスが極めて罪深く無価値であった自分を招かれるのであれば、イエスは確かに自分よりもはるかに相応しい以前の仲間たちをお受け入れになるであろう、とマタイは考えた」</font color=”blue”>

と書いてあった。自分のようなどん底人間がイエス様に招かれるのであれば自分の知っている彼も、またあの人もイエスに招かれるに違いないと考えた。そしてマタイはそのままイエスとその弟子たちを自分の家に招き宴会を催すのである。イエスに従うことで収入源を失ったが友を得た。自分を救ってくださるイエスを得た。宴会に集まったのはイエスとその弟子たちだけではない。マタイの仲間、すなわち同業者や売春婦だ。マタイはどうしても自分よりはまだましな存在である彼らにイエスを紹介しイエスによって救われて欲しいと思ったのだ。そしてマタイはその後イエスの弟子として活動をともにする。さらに「マタイによる福音書」を執筆する。マタイによる福音書はユダヤ人向けに書かれた書物である。彼が受け入れてもらえなかったユダヤ人に対して、彼を拒絶し憎んだユダヤ人に対して、そして同胞であるユダヤ人に対して愛を込めてイエスに出会うことをすすめるべくこの書物を書いたのである。

マタイの人生から学ぶこと

マタイは孤独だった。自分の愚かさを呪い、呪いながらも金を稼ぎ続けた。何度も死にたいと考えたことだろう。マタイの気持ちに共感できる。愚かな生き方故に人を傷つけ、人から避けられ、理解してくれる人を失い、全てを失った。世の中にはそんな私と同じようなことを考えていらっしゃる方もいるのではないかと思う。自分が希死念慮を持ちながらも踏みとどまっているのは、まさにこのイエスという実在の人物に出会ったからだ。暗い場面を通過している方々がひと時その孤独から解放してくれるお酒にではなくイエス・キリストに出会うことを切に願うばかりである。イエスに出会う時、それらの問題が解決するばかりでなくその問題が尊い舞台背景となる。19Cに活躍した英国の牧師、伝道師であるチャールズ・スポルジョンという人が次のようなことを言っている


宝石商は最高のダイヤモンドを展示する際、下に黒いベルベットを敷く。黒を背景に、宝石は輝きを増す。それと同じように神は、絶望的に思える状況の中で驚異の御業を行われる。痛み、苦しみ、絶望のあるところに、必ずイエスがおられる。そして、イエスに従う者とは、そのような状況におかれている人々である。傷つき弱り、誰からも相手にされないと感じている人々である。キリストが光を放たれる場所として、これ以上ふさわしいところがどこにあろうか。チャールズ・スポルジョン
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マタイと同じように今日イエス・キリストに招かれ声をかけられているのは紛れもなくあなたなのである。この招きにどのように応答するだろうか?

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