謙遜と柔和

教員という仕事をしていると

数ヶ月前、以前担任をした学年が同窓会を行った。直前まで何度も話し合いを重ねた様だが結局コロナの影響でオンラインでの同窓会となった。元々は横浜にて直接会える同窓会を計画していたが断念したそうだ。高校3年、卒業をするときに担任をしていたということでメッセージをビデオにて送ってくれる様頼まれた。また当日もオンライン上で出席して欲しいとのことであった。快諾した。メッセージといってもなかなか難しい。ある特定の生徒の思い出などを語れば一気にしらけてしまう。かといって彼らは教え子ではあるがもう教員と生徒という関係ではない。彼らを社会人としてリスペクトしてものを語る必要がある。そんなことを考えていたら結局、毎日彼らのために名前を挙げて祈っていることと、今の自分には力がないのでひとりの重荷を一緒に抱えるだけの精神的力はないけれどそれでも何かあったら頼りないこの自分に連絡してくれないかというふたつのことだけを話した。そして卒業後自分の思い描いた通りの道を歩いているならそれも結構、しかし理想とは違う道に迷い込み全てがうまくいっていない様に感じているのなら是非自信を持って欲しい。まだまだ人生始まったばかりだ、100m走の10mも走っていない。失望するには早すぎる。何も失敗していないしまだまだできるから自信を持ってと話した。90秒ほどのメッセージだ。

教員という生き物

同窓会では他の先生方からのメッセージもいくつか集められていてそれらが流された。ひとりを除いて全員同じタイプのメッセージを送っていた。要するに生徒に対する言葉遣いで、いかにも教員らしく説教しているのだ。「こいつよくこんなことが言えるな」と感心するほど偉そうだった。この卒業生は自分が育てたとでも言いたい様な口調で、正直がっかりした。この先生たちは生徒が本当に落ち込んで助けを求めているときに知らん顔をしたのに何故こんなに偉そうに語れるのだろう。この人たちは生徒が他の怖い先生からプレッシャーをかけられているときにそれに迎合して助けることをせず教員の味方をしたのに何故こんなに自分だけは生徒を思っていた様なメッセージが語れるのだろうか。この学校は既に終わっている、と直感した。
昔こんなことがあったことを思い出した。自分が教頭をしている時の話だ。ある生徒がいくつかの問題を抱えて相談に来ていた。生徒を取り巻く環境が原因の問題もあったが本人が考え方を変えることで解決する問題もあった。生徒が自分を頼る以上真剣に対応するが、本音をいうと教頭という立場上どこまで入り込んで良いのか悩むことが多い。担任が

いるので担任を超えて指導することはできない。しかし、担任が生徒の心に無関心である場合担任に全てを任せるわけにはいかない。そんなこともあり担任に「少し当該の生徒と関わって欲しい」と依頼した。不承不承当該生徒と面接をして色々な話しをした様だった。翌朝、誰も登校していない時間帯にその生徒が教頭室にやって来た。実は昨晩寮で友達が自分の話をゆっくり聞いてくれたという。そして共感し涙を流してくれたという。最後に一緒に祈ってくれたことが本当に嬉しかった様で、そういう友人がいるから自分はもう一度立ち上がれるという報告にきてくれたのである。やはり寝食をともにする仲間の存在が大きい。そしてその日の昼休み、昨日面接をする様依頼した担任が意気揚々教頭室にやってきた。「昨日面接して少しばかりガツンと言ってやりましたよ。昨晩の面接が効いた様で今日は朝から非常に元気です」と彼の報告をしてくれた。「ありがとう、助かったよ」とは言ったけど心の中はそれとは違ったことを考えていた。教員というのは常に自分が何かをしたことで生徒が変わった、生徒を指導できたと思いたがる存在なのだと思う。そういう意味では世界で最も愚かな人たちが集まる職域なのではないかと思う。かつて自分がいた学校が特別そうなのかもしれない。この先生たちが生徒の心の傷に気付いて、自分を顧みず彼らのために必死に働ける様になるには何億年かかるのだろう。救いようのない人たちだと思った。神様は人に手柄を立てさせそれを人々に自慢するために人を召すわけではないのに、何故この学校の先生たちは「自分、自分」と自分のことばかり考えるのだろう。そういう人の集まりだから神様の祝福から漏れてしまったのに。もっと謙遜に。さらに柔和に。謙遜と柔和、イエス様はこれを人々に教えようとしていたのではなかったか。

全能にして謙遜なるキリスト|高原剛一郎

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