平和
色々な人が世界の平和や未来を考えている。人類が進むべき道を。それが本当の平和なら良いのだが「平和」に隠れて個人の利権が絡んでいることが多い。戦争に反対する人は多いけれど、世界的なお金持ちは戦争がある程度起こるから利益を生み出すことができる。余計なことをしないで、世界人類が神様に立ち返ることが必要だ、と訴え宗教を超えたエキュメニカルな運動もしばらく前から起こっているがその先に真の神様はいない。
内閣府の掲げる「ムーンショット目標」を十分に理解する力が自分には無い。「理解できないから反対」というわけでは無いがやはり方向性が間違っている気がしてならない。2025年に大阪で開催される万国博覧会の内容を見れば、人類が踏み込んではいけない領域に足を踏み入れたことを感じる。ただでさえ自然災害に怯えながら生活しているのに、人間自ら間違った方向に進んでいる気がしてならない。安倍元総理の狙撃事件もある特定の宗教団体が原因であるとも報じられているが、やはり多くの人や団体がおかしくなっている気がする。勿論自分も含めて。
もっと単純に
世界が進もうとする方向性がよく分からない。その時点で、自分は「選ばれし優秀な人材」では無いのだろう。これから有能な人とAIに命令されて働かされるようになるのかもしれない。
世界中の人がもっと単純に神様を信じられたら良いのに、と心から思う。どれだけ人間が知恵を絞って考えたところで神様の知恵と計画に勝てるわけない。イエス様は悔い改めなさい、と教えてくれている。それだけを実行できれば人類はもっと幸せに生き真の平和を手に入れることができるのに。
信じる者には、キリストは堅くすえられた隅のかしら石である。これ らの人々は、岩なるキリストの上に落ちて砕ける人たちである。ここに キリストヘの服従とキリストを信じる信仰があらわされている。岩なる キリストの上に落ちて砕けることは、自らを義とする思いを捨てて、子 供のようなへりくだりをもってキリストのみもとに行き、罪とがを悔い 改め、キリストのゆるしの愛を信じることである。われわれが隅のかし ら石であられるキリストの上に築くのも、信仰と服従によってである。
この生ける石の上に、ユダヤ人も異邦人も同様に築くことができる。 それはわれわれがその上に安全に築くことのできる唯一の隅のかしら石 である。それはすべての者のために十分な広さがあり、全世界の重さと 重荷を支えるのに十分な強さがある。そして、生ける石であられるキリ ストにつながることによって、この隅のかしら石の上に築く者はみな生 ける石となるのである。
各時代の希望電子版 p626 ふたたび清められた宮
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