長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典

長崎の鐘

教員として広島の中学校に赴任した当時、修学旅行は長崎、熊本をめぐり2日目から湯布院入りして最後は別府観光をして広別汽船(広島と別府を結ぶ航路、現在はない)にて広島に戻るルートの旅行だった。旅行といっても観光よりは「修養」のイメージが強く「修学旅行」ではなく「修養会」と呼んでいた。長崎では必ず平和祈念像、資料館そして永井先生の如己堂の見学を行っていた。永井隆先生については長崎の原爆と切っても切り離せない繋がりがある。1908年-1951年、激動の時代を生きられた医師である。長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)を首席で卒業し健康上の理由から内科医を諦め放射線療法の道を歩む。長崎大学で奉職中にクリスチャンとなる。同じ信仰を持つ女性森山緑と結婚。そして1945年8月9日、長崎にて被爆。爆心地から700mの距離にある長崎医大での被爆であった。妻を亡くし自らも被爆した状態ながら懸命に医療活動に従事。体調を崩して療養した場所を「如己堂(にょこどう)」とした。医療活動の他に執筆活動にも熱心で多くの著作を残している。幼い子どもを残して自分は死んで行かなくてはならないことを著した「この子を残して」は非常に有名。また、原爆によって浦上天主堂の鐘が吹き飛ばされたが、瓦礫の中から見つかった鐘を見て書いた「長崎の鐘」はその後歌謡曲として世に出ることとなり藤山一郎氏をはじめとする歌手に歌われた。

原子爆弾

広島に続いて長崎にも76年前の今日、原子爆弾が投下された。広島に投下した原子爆弾がウランを用いたのに対して、長崎の原子爆弾はプルトニウム爆弾だった。プルトニウムは自然界にはあまり多く存在しないためウランから作られる。原子力エネルギーを生み出すウランが存在比0.7%のウラン235。天然に存在するウランのほとんどがウラン238である。このウラン238に中性子を吸収させることで製造できる。このプルトニウム爆弾が長崎に投下された。当初米国は小倉を標的にしたが事前に投下した爆弾の煙で小倉市内の様子が十分に確認できなかったために急遽投下する場所を長崎に変更したという。こういうことで人の運命が左右されるのだから恐ろしく、また愚かなことである。広島に続き第二の原子爆弾が投下された場所になってしまった。この地球で長崎が最後の原子爆弾投下地になることを心から願うものである。

平和

今日も職場でコロナのワクチンについて話しをしていた。たまたまそこにいた人たちは自分を含めてワクチン反対派だけだったので異様な盛り上がり方をした。ワクチンを接種することで次の株が出現するたびにワクチンを打ちつづけなくてはならないことなどを教えてもらった。また、自分の所属する教会の中でもこのことに対する意見で大きく二分される様子が見てとれた。教会は「接種しなさい」という姿勢を示している。それに伴い教会が運営する学校も極力受けるようにとの指導がなされている。このことについて本当に責任が取れるのかと聞きたくなってしまう。実はうちの息子は4日ほど前に接種したようだ。学校からの指導だったようだ。残念である。聖書には平和について多くの言葉を記している。

どうか、平和の主ご自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和を与えて下さるように。主があなたがた一同と共におられるように。
テサロニケ人への第二の手紙3:16

人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
ヨハネの黙示録21:4

本当の平和、それは神様が与えてくださるものであり人が与えることのできるものではない。真の平和を求め続けて生きたい。

平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。
マタイによる福音書5:9

【長崎原爆ツアー】恐ろしい原爆の爪痕を現地長崎からわかりやすく解説

 

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