蕎麦喰い

蕎麦の思い出

小さい頃、自宅の前にはお蕎麦屋さんがあった。ひとつ年下の「のぶちゃん」のうちである。しばらくしてのぶちゃんのお蕎麦屋さんは100メートルほど離れたところに少し大きな住宅兼店舗を買い転居した。昔からのぶちゃんのお蕎麦が大好きだった。頻繁に食べていたわけではないが、お客さんが来るとご飯が店屋物になる。隣のけいこちゃんのお寿司か向かいののぶちゃんのお蕎麦のどちらかになる。あの頃はお寿司の味が分からずおそばの出前だとテンションが上がった。時々、出前ではなくのぶちゃんのお店に食べに行くことがある。何故だか覚えていないが、いつも一人だった気がする。東京の下町なのでお蕎麦屋さんでお酒を飲む人もいる。お蕎麦屋さんだがのぶちゃんのお店は「カレーライス」もあった。あの頃、何故かお冷にスプーンが入っていた。自分が好きなのは「たぬきそば」。これに限る。一時期鍋焼きうどんやざる蕎麦に心変わりした時期はあったが、基本的には「たぬきそば」が一番美味しいと思う。そして今でもそれは変わらない。

広島に行って

中学2年から広島の学校に行った。それまで千葉県にあった学校がそのまま広島に移転したのだ。大阪より西に行ったことがない自分には大旅行だったし初めての土地に対する不安もあった。しかし、振り返ってみると人生の半分以上を広島で過ごしたことになる。初めこそ戸惑いもあったが、とても住みやすい土地であることがすぐに分かった。都電とは少し違う市内電車のシステムにもすぐに慣れた。就職してからは住んでいた三原市の山奥から本や音楽などの文化を求めて時々市内に出かけることが楽しみだった。昔の市民球場で野球を観てから帰るのが日課だった。今はマツダスタジアムのチケットを取るのはかなり難しいが、当時の市民球場はいつでも入れた。座席もロングシートで寝っ転がって観ても十分にゆとりがある。のどかだな、といつも思っていた。大好きな広島であるがひとつだけ苦労したことがあった。それは「蕎麦問題」である。今はそうでもないが、昔は東は蕎麦、西はうどんだった気がする。広島には美味しいお好み焼き屋さんがいっぱいある。お好み焼きが大好きなので何の文句もないのだが、やはりお蕎麦が食べたくなる。広島でお蕎麦屋さんを探すのは結構大変だった。広島を去る前には「いつも行く」お蕎麦屋さんも何軒かできたがそれまでは本当に見つからず苦労した。お蕎麦屋さんはあっても出汁が違う。関東風、というか東京のじゃないとだめなのだ。しかもお蕎麦は好きでもうんちくを語るほど味は分からない。とにかく昔から食べている出汁が真っ黒の「のぶちゃんのお蕎麦」が食べたいのだ。

茨城県で教員をしていた時には、東京に近いせいかお蕎麦屋さんには全く困らなかった。2,3軒定休日でも行くあてはいくらでもあった。鉾田の町だけでも4店舗あった気がする。

青森で

長年暮らした広島が色々な意味で恋しい。広島を思い出して寂しくなることなどしょっちゅうであるが、青森に来て「よかったな」と思うことがいくつかある。その一つがお蕎麦屋さんである。勿論高級なお蕎麦屋さんも近くにあるが、お蕎麦を探し求めているうちにやっと「のぶちゃんのお蕎麦」に近い味のお店を最近見つけた。職場からおよそ20分で行ける距離である。19時閉店なので仕事が終わってからでは間に合わない。だから最近、1時間の休憩時間に行くようにしている。今日は「春の嵐」で風とあられが激しかったがそれでもお蕎麦を求めて行って来た。また今日もたぬき蕎麦を注文した。ちなみにたぬきときつねは地方によって違うらしい。自分はたぬきは天かすが入り、きつねは油揚げが入ると習って来た。関西に行くとこれが大きく異なる。大阪では「はいからそば」と言わないとたぬき蕎麦は出てこない。きつねそばを注文したら何が出てくるのだろうか?

お蕎麦を食べるだけで本当に幸せな気持ちになれるが、同時にあの頃に戻れる。何も心配しないで生活できたあの頃。両親がすべてうまくやってくれたあの頃。全てを任せて、自分で生きているような気持ちになれたあの頃、何とも懐かしい。

キリストへの道

今「キリストへの道」という本を毎日読んでいる。たくさんの祝福がある本だが今日読んだところに次のようなことが書かれていた。

だれでも条件に従うならば、いかなる罪のゆるしも価なく与えられることを、はっきり知ることができるのであります。神のみ約束は、自分のためではないなどという疑いは捨てねばなりません。このみ約束は、悔い改める罪人1人1人のためであります。キリストが備えていたもう能力と恵みは、み使によって、信ずる魂1人1人に与えられます。どんなに罪深いからと言っても、彼らのために死にたもうたイエスから能力と純潔と義とを受けることができないという人はありません。イエスは罪に染んで汚れた衣を脱がせて、義の白い衣を着せようと待っておいでになります。死ぬることなく、生きよと招いておいでになるのであります。
キリストへの道「信仰」 電子版p38

何の心配もしないで御言葉を自分に対する約束として受け止めて良いと教えてくれている。何も心配しないで任せられる神様が今も共にいてくださることを心から感謝したい。

ロシアのウクライナ侵攻 エゼキエル書 38 章 2022.2.28

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