お迎え、お送り
先週後半、ここ青森のいくつかの場所で家先に集まって火を焚く光景が見られた。青森ではこうやるのかと納得した。ご先祖の霊をお迎えするための「迎え火」だ。そして昨日も仕事帰りに火を焚く光景を目にした。所謂「送り火」だろう。西の方からご先祖様の霊をお迎えしてお盆を共に過ごしそしてお盆が過ぎるとお見送りをする、これは日本の多くの地域にある習慣だと思う。青森のねぶたも灯籠流しの名残という説がある。自分は教員時代沖縄にも住んでいたが「祖先崇拝」が盛んな沖縄ではお盆もまた盛大に行われる。期間は多くの場所と同様8月の15日付近であるが先祖の霊をお迎えするのが「ウンケー」である。決まったお供え物をして先祖の霊を丁重に迎える。子どもたちは仏壇のある親戚宅に集まり正月さながらお年玉のようにお金をもらう。最近では内地でも「お盆玉」があるようだが元々は沖縄の習慣ではないかと思っている。先祖の霊と共に過ごしたら今度をお送りする「ウークイ」という儀式を行う。沖縄は先祖をとても大切にするのでお盆とシーミー(清明祭)は仕事を休んでも良いことになっている。最近では内地と同様のチェーン店が多くなって来ているので事情は変わって来たかもしれないが、台風や地元の祭り、シーミーやお盆は仕事を休めるシステムになっていた。ちなみに、沖縄では生命の起源であり神々の住むところを「ニライカナイ」という。死者もまた「ニライカナイ」に帰って行くと信じられている。一方死者の行くところ、つまり「あの世」のことを「グソー」という。あの世のお正月、つまりグソーのお正月もこの世でお祝いする習慣がある。これを十六日祭という。今は仏壇をもつ家も減って来ているが、沖縄の信仰で火の神(ヒヌカン)と仏壇(トートーメー)を拝む(ウートートー)する家は多い。ヒヌカンを通して神々に、トートーメーを通して先祖に祈るという信仰である。
先祖を大切にすること
亡くなった人を1年に1度お迎えして一緒に過ごすというのは心励まされる思いがする。大切な人、今でも愛してやまない人をお迎えできるのであるから支えになる。しかし、これは霊が生き続けるという意味でもある。自分がもしも霊だったらどうだろう。自分が死んだ後に奥さんが再婚していたり、子どもが大病を患ったり、家計が火の車になっている状況を見たら苦しくなると思う。何か助けられるのであれば良いが何もできなければ苦しさは増すばかりである。また、霊が悪意を持って悪さをすることもできるのかもしれない。実際多くの心霊現象なるものが人を惑わしている。本当に人間は肉体が滅んだ後も霊は生き続けるのだろうか。
聖書の見解
聖書には「死」について明確に述べている。
兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。
テサロニケ人への第一の手紙4:13-17
死は眠った状態である。イエス様が再び来られる時に初めて起こされて空中にあげられる。キリスト教会でも多くの教会が亡くなった後すぐに天国に行くという教えを説いている。とても慰めに満ちた考え方だが聖書的ではない。そう言いながら、自分も昨日の投稿で祖父のことを思い出し、朝の祈りの中で「おじいちゃんも辛かったね。奥さんを亡くしてその後すぐに大切な幼子を亡くして本当に大変だったね。実は僕も今とても苦しいんだよ」と眠っている祖父があたかも生きているかのように語りかけてしまったのである。何れにしても確実に言えることは死者は必ず復活するということである。別の場所には復活のタイミングが記されている。即ち第一の復活と第二の復活があるというのだ。第一の復活は義人の復活。これから救われる人たちの復活である。そして滅びる人たちが裁きを受けるために復活するのが第二の復活である。イエス様を信じるものとしてはどうにかして第一の復活に預かりたいものである。
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