安息日の祝福

与えられた言葉

神様が書物や礼拝メッセージを通して語りかけてくださった安息日、多くの祝福をいただくことができた。あまりにもたくさんの考えさせられるメッセージをいただいたのでゆっくりとその意味を考えながら咀嚼してみたいと思っている。

サムエルの書物より

ハンナは、人を責める言葉を出さなかった。地上の友に打ち明けられない重荷 を、彼女は神に委ねた。ハンナは、神が恥を除いて、彼女にむすこという尊い賜 物を賜わり、その子を神のために養育し、訓練することができるようにと熱心に 願い求めた。そして、彼女は、自分の願いがかなえられるならば、その子を生ま れた時から神に捧げることを厳粛に神に誓った。ハンナは、幕屋の入口近くに寄 って、深く悲しみ、「祈って、はげしく泣いた」(同・1:10)。しかし、ハンナ は、何も言わずに静かに神と交わった。当時の邪悪な時代にあってこうした礼拝 の光景はめったに見られなかった。宗教的な祭りの時でさえ、神を敬わない飲食、 酔酒などはいつものことであった。そして、大祭司のエリは、ハンナを見ていて、 彼女が酒に酔ったものと考えた。彼は、譴責のつもりできびしく言った。「いつま で酔っているのか。酔いをさましなさい」と(同・1:14)。
人類のあけぼの電子版 p498  幼児サムエル

彼女は、照っても曇っても輝くみ国へ行く子供たちの足のために、まっすぐな道 を備えるのである。しかし、それは、母親が自分自身の生活において、キリスト の教えに従おうとする時にのみ、子供たちの品性を神のみかたちにかたどって形 成することを望みうるのである。世の中には、腐敗的感化がみなぎっている。流 行や慣習が青年たちに強く働きかけている。もしも母親が、教え、導き、制する 義務を怠るならば、子供たちは、自然と悪に従い、善から離れていく。すべての 母親は、たびたび救い主のみもとに行って、「どのように子供をしつけ、子供に何 をしたらよいかを教えてください」と祈らなければならない。母親は神がみこと ばの中にお与えになった教えに心を向けるとよい。そうすれば、必要に応じて、 知恵が与えられることであろう。
人類のあけぼの電子版 p500  幼児サムエル

サムエルは、エリの指導のもとにおかれた。そして、サムエルの美しい品性に ひかれて、年老いた祭司は、非常に彼をかわいがった。サムエルは、親切、寛大、 従順、ていねいであった。エリは、自分の子供たちのわがままに心を痛めていた が、サムエルが彼に委ねられてから、休息と慰めと祝福とが与えられた。サムエ ルは、よく手助けをし、愛情がこまやかであった。そして、エリはこの地上のど の父親よりも優しくサムエルを愛した。国家の政治をつかさどる者とほんの少年 との間に、このような暖かい愛情が通い合うとは、不思議なことであった。エリ が老齢のためにだんだん衰弱してくると、彼自身のむすこたちの放縦な生活を憂 えて苦しむのであったが、彼は、サムエルに慰めを求めた。
人類のあけぼの電子版 p501  幼児サムエル

サムエルと同様に、現代の青年も神の御目に尊いものとみなされることができる。 彼らは、クリスチャンとしての忠誠を保つことによって、改革の働きのために強 い感化を及ぼすことができる。こうした人が今日必要である。神は、彼らの1人1人 のなすべき働きを持っておられる。今日、神の信頼に忠実である者は、これまで どんな人もなし得なかった大きなことを、神と人類のためになしとげるのである。
人類のあけぼの電子版 p502  幼児サムエル

礼拝メッセージ

イエス様が弟子たちだけに船を出させてご自分は山で祈っている場面が福音書に出てくる。強風のために漕ぎ悩んでいる弟子たちに湖上を歩いて近づいたイエス様。ペテロが真似をしたくイエス様の方に行きたいと願うと「来なさい」との召がありペテロも湖上を歩くことができた。しかし、ふと足元の荒れた海に目をやるとそれが恐ろしくなりその瞬間に溺れ始めた。イエス様がすぐに手を伸ばしてペテロは助けられる。この場面が非常に好きで読むたびに新しい教訓が与えられる。が、今日伺った礼拝メッセージでは自分が今まで考えなかった切り口でこの部分を解説されていた。ペテロの一連の行動とイエス様の助けは自分たちの信仰生活を象徴している、という解釈である。確かにそうだと思わされた。そして深い感動に包まれた。ありがたいメッセージである。

2022年9月24日 「来なさい」 安息日礼拝LIVE配信

 

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弱さ

昨晩、ある中学生から連絡があった。高校進学を考えている最中に「君には他の学校に行く学力は無い。系列の学校に進学する以外に道はない」と校長先生に言われたと泣いて連絡してきた。これが事実であれば非常に残念なことである。ミッションスクールでもこういうことはあるのだろうか。本人の勘違いではないだろうかとも思っている。

自分の弱さを示されることは非常に辛い経験である。友人や先生、親、兄弟の誰からであっても弱さを指摘されれば落ち込む。それが事実であれば尚更である。

サムソン

今朝、ある本にサムソンのことが書いてある部分を読んでいた。サムソンは旧約時代の士師である。まだ王政になる前のことである。イスラエルの民が神様に背きその刑罰として他国によって苦しめられる経験をする。民が悔い改めて神様に立ち返る時、士師を通して具体的な生活指導をして神様に立ち返らせた。戦も士師を通して働く神様の力によって勝利する。そのような大切な働きを士師は担っていた。士師の一人にサムソンという人がいる。ナジル人で神様に誓願を立てている人である。しかしサムソンは異邦人と交わり自ら雑婚をして神様の教えに背いた。元々サムソンには大きな力、特に怪力が与えられていたが最終的にその力の秘密を妻であるデリラに喋ってしまう。そして力の源であった髪の毛を剃られることで怪力を失ってしまう。怪力を失い敵国であるペリシテ人の手に落ち目をえぐられてしまう。その後髪の毛が伸びて力が戻ってくると3000人が見物する建物を戻ってきた怪力で2本の柱を倒し見物人を皆殺しにしてしまう。勿論サムソン自身もここで絶命する。

20年間イスラエルを治めたサムソンであったが、神様のよしとしないことを行なった故に本来の祝福を得られずに亡くなってしまう。サムソンの生涯から教訓を得るべく次のような文章があった。

神がご自分の器として、特別の働きのために用いようとなさるその人々を、サタンは全力を尽くして挫折させようとする。サタンは、われわれの弱点を攻撃し、 品性の欠点を通じて、人間全体を支配しようとする。そしてサタンは、こういう 欠点が人の心にいだかれているかぎり、自分の成功はまちがいないことを知って いる。しかし、誰でも打ち負かされる必要はない。人間は、自分の弱い力で悪の 力を征服するように、放任されていない。援助は手近にある。そして、誰でも真 にそれを望む者には与えられる。ヤコブが幻に見たはしごを上り下りする神の使 いたちは、最高の天にまででものぼろうと志すすべての魂に助けを与えるのである。
人類のあけぼの電子版 p496  サムソン

繋がる

今朝与えられた聖書の言葉もサムソンのことに関連する御言葉だった。

「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう。枝がぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ実を結ぶことができない。」
ヨハネによる福音書 15:4 口語訳

安息日に入る準備の日、イエス様に繋がっていなければ何もできないどころか悪いことばかりしてしまうことをもう一度考えておきたい。自分の弱さが示され、同時にイエス様の必要を感じる朝のひと時を過ごした。

聖書研究ガイド22年3期13課

 

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肯定

集団教育

ある保護者さんとそのお子さんが別々に相談のメールを送ってきた。お互いに相手が私に対して相談していることを知らないようだ。内容は高校進学について。ミッション系の中学校に在学中である生徒さんは、校風や先生たちの冷たさに馴染めないという。親身になって心配してくれる先生も2名ほどいるらしいが学校全体が校長先生に気を遣い生徒の方を全く見ていない、と本人は言っている。系列の高校に進学するのはやはり価値観が合わない気がするので積極的ではないらしい。そして色々な面で「自分は他の子より劣っている」と思っているようで集団で受ける教育に合わないと言っている。

一方母親ははなから「うちの子は学力的にも周りについていけないので個人で学習する方が良いと思っている」と言っている。子どもはどうしたら良いか、という相談をするためにメールを送ってきた。一方母親は通信制の高校を考えているがどこが良いか、との質問であった。

通信教育

通信教育課程を実施する学校はここ数年で更に増えている。青森県だけでもざっと数えて20校ほどある。自分も通信課程の大学を考えたことがあったし現在も考えている。教育に関する別の免許を取得したく大学での勉強を考えている。生活に追われなかなか実現しないが今でも時々調べている。が、今回の相談は高等学校である。コロナ禍で集団教育を心配する方も多くその需要は高い。また個別指導や集団を気にすることなく自分のペースで学べることもメリットと考えられている。通信教育課程があることで更に選択肢が増え可能性が広がったと考えている。自分が高校生の頃は色々な事情から高校に進学しなかった人もいた。積極的な気持ちで高校進学しなかった人は一人しかいなかった。この人は司法試験を受けるために高校進学しなかった。が、それ以外は学力や経済的な理由で高校進学を「諦め」た。当時は定時制もあったが4年間かかることや年齢の違う人と机を並べることの違和感、そして雰囲気の問題があり敬遠されることも多かった。が、今は違う。もっと言えば高等学校に在籍、卒業しなくても「高等学校卒業程度検定試験」に合格すれば大学に進学できる。所謂、昔の「大検」である。学びたい人には色々な可能性がある。

学習意欲

学びたい、しかしその環境が整わないので普通科の高校に通学できない。ならどうするか?という考えの中で通信制課程や検定試験などの道を模索することは非常に積極的で素晴らしいと思う。

一方で「高校ぐらいは行かないとその先がない」「しかし普通科の高校に通学する気持ちはない」そのような中で通信制や検定試験を視野に入れる人も結構多いような気がしている。何か、その人たちが肩を落としてため息をつきながら高校を考えているように思えて胸が締め付けられる。

まず第一に「何のために学ぶのか」「何故学ぶのか」を考えることができたら良いと思う。神様は全ての方に対して計画を持っていらっしゃる。それが何かを模索するところから進路を考えられたら必ず有意義な人生が送れると思う。

もしも彼らが真の謙遜を持ち続けるならば、主は神の民のために、はるかに多くの ことをなさることがおできになる。しかし、大きな責任または成功が与えられても、 なお、自己過信に陥ることなく、自分たちが神に依存していることを忘れない者は、 実に少ない。主が、神の働きをする器を選ぶに当たって、世の人々から、偉大で タラント(才能)があり、そうめいであるとほめそやされている人々を見過ごされるのは、 そのためである。このような人々は、とかく高慢で、自己過信に陥っているもの である。彼らは、神の指示を仰がないで、行動することができると思っている。
人類のあけぼの電子版 p483  初期の士師たち

2022年9月17日 「互いに愛し合いなさい」 安息日礼拝LIVE配信

 

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創始者・開拓者

福井達雨先生

卒業生と連絡をとることが多い。電話やメールを通して近況を教えていただき、その後自分の祈りのリストに名前が加えられる。2週間ほど前に連絡をとったのは福井揚(ふくいよう)さん。中学3年、高校2,3,年で担任した。以前にも彼のことやお父様のされている止揚学園について投稿している    揚さんから連絡をもらい9月初旬にお父様が逝去されたことを教えてくれた。心筋梗塞とのこと。ならば、強い痛みに辛い思いをされたのではないかと思った。90歳とは思えないほどお元気だったのでご家族の間では「きっと100歳までは生きられる」と話していたという。しばらく揚さんと思い出を語り合った。

止揚学園

創設者である福井達雨先生は1962年、滋賀県東近江市佐野町にて「止揚学園」をはじめた。学園は自分よりも1つ年上なので今年60周年ということになる。達雨先生は、知能に重い障がいのある4名の方々に出会った。その中の一人は牛小屋を改造して作られた穴で生活していたとのこと。その様子を知り、あまりにも酷いことを母親に訴えるも「この子は社会に出ればいじめられたり石を投げられたりする。この穴にいる時だけがこの子を守ってあげられる時」と言われ、達雨先生はハッとさせられた。こんな酷いことを・・・と怒り心頭の気持ちだったが、自分自身がこの子を穴に入れていた社会の一員であることを自覚し母親に謝罪したという。知能に重い障がいを持った方は今もたくさんいらっしゃる。しかし、日常生活で彼らを見かけることはあまりない。自分が子どもの頃はもっと見かけていた気がする。恐らく自分たちの見えないところに集められているのだろう。あるいはそこで守られているのだろう。そのような施設のひとつが「止揚学園」である。  

上と下

よく、「古代に実在した高度な文明」というような表現を目にする。この手の表現にいつも疑問を感じる。現在が高度な文明で過去にはそれよりも低レベルの文明しか存在しなかった、という考えが前提になっているからだ。恐らく進化論の発想が根底にあるからだろう。ノアの洪水前の人類が今より大きかったことを知っているのだろうか、と思ってしまう。自戒を込めて言うが自分の所属する教会はよく「まだ、安息日の真理を知らないから教えてあげないと・・・」というような表現をすることがある。同じイエス様を信じているはずなのにどこか「未熟なクリスチャン」と見下げている気がしてならない。そういう表現を見聞きするたびに、自分の教会や教団に対して「安息日、聖所、再臨の真理を知っていてもあなたたちにはイエス様が最も強調された愛がありますか?他教派の教会には心からの愛情をもって新しく教会にくる方を送迎したり接待する方々がいますよ」と心の中で呟いてしまう。

神には、光の中を歩まない安息日を守るアドベンチストの 中の大勢の人よりも、 光に従うことに忠実で、 自分の知識を最大限に生かすことができる子供たちが、 プロテスタント教会の中に大勢いて、 カトリック教会の中にも大勢いる。
E.G.White 1889年、 手記30

両親が認知症や脳梗塞の後遺症で記憶が曖昧になり多くのことが分からなくなっている。そのような状況になった親を受け入れられなくなっている自分に気づかされている。これもどこかで自分が上で親を下に見ているからだと反省している。両親が怒らないで笑顔でいる影にどれほどの不安や苦しみ、悲しみ、理解されない辛さ、伝わらないもどかしさがあるのかを考えた時にやはり両親にはかなわないと率直に思う。知能に重い障がいを持った方をどのように(どの位置に)認識しているだろうかと自問してみた。正直な気持ちを言えば、やはり下に見ていると思う。人間としての価値、尊厳は同等であることは理解している。しかし「お世話をしてあげないといけない」存在と思っていることも事実である。

イエス様の弟子たちが「誰が一番偉いか」を話しているのと同じ様子がずっと心の中で展開していることを自覚し反省させられる。

福井達雨先生が遺されたものは多い。先生のご生涯をかけて伝えたかったことはこれだったのではないだろうか?と思う。「自分は何様のつもりだ?」

そう言えば、今朝与えられた聖書の言葉もそのことを教えてくれていたのかもしれない。

「わたしは、あなたの指のわざなる天を見、 あなたが設けられた月と星とを見て思います。 人は何者なので、これをみ心にとめられるのですか、 人の子は何者なので、これを顧みられるのですか。」
詩篇 8:3-4 口語訳

止揚学園クリスマス劇

 

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ゆとり

救急車事故

4日間休んでいたので久しぶりの出勤となった。いつものことだが色々なことがあったようだ。その中でもとても驚いたことがあった。昨日新幹線の中でネットニュースをみていたら弘前で救急車が患者さんを搬送中に事故にあったと報じていた。こういうことがあるから救急隊員も大変だな、と思っていた。そして今日出勤して驚いた。あの事故は当院から患者さんを弘前市内の大きな病院に搬送する途中で起きたものだった。うちの医院はとても小規模であるが一通りの設備が揃っている。CTやMRIは勿論、手術室、透析治療室、入院病棟等。しかしそれでも手に負えないことがあるのでその際は大学病院はじめ大きな病院に当院から搬送される。その際、当院の看護師が1名同乗する。昨日も同様、患者さんと当院の看護師が1名乗っていた。事故は出会い頭というが結構見通しのきく場所で救急車側が赤信号だった。結構大きな事故だったようで、すぐに応援の救急車が来て当院の患者さんと救急隊員1名を搬送していったとのこと。うちのスタッフもダメージはあったが、搬送中の事故ということで本人も患者さんのことしか頭になかったようで自分の怪我のことを一切忘れていたようだ。当該看護師は今日も出勤しており、今のところ大丈夫と言っている。

優先

青森で生活するようになりいくつか気になっていることがある。その一つが運転マナー。自分の運転は結構低速なので嫌がらせをされることがある。二車線で追越車線が空いているのに後ろから煽られることも時々ある。 緊急車両のサイレンが聞こえても道を開けない車がいる。「赤信号を緊急車両が通過します」と言っても道を譲らず青信号だからといって進行してしまう車も結構見かける。

当院のようなところでも心肺停止状態で運ばれてくる人がいる。こういう人にとってはそれこそ1秒が生死を分ける。とにかく緊急車両には道を譲ってもらいたいものである。

ゆとり

「ゆとり」という言葉に少しネガティブなイメージを持っている。教育現場にいると「ゆとり教育」影響を受けた生徒を多数見て来た。指導要領などものともしないで立派に成長されている方が殆どであるが、その影響を受け苦しんでいる生徒もいた。だからこの言葉はあまり好きな言葉ではないが、しかしもう少し周りを思いやる気持ち、ゆとりが必要だと思っている。ネット社会の弊害かネット上では悪魔に変わる人たちがいる。少なくとも自分にはそのように思える。「yahoo知恵袋」なるものがあるがある人が質問していた。それに対して数名の方が親身になって回答していたが、それに対して質問者が「yahoo知恵袋がどのようなものかを試してみた。こんなどうでもよい質問に真剣に答えるのは余程暇なひとがこの知恵袋の周りにいることが良くわかった」とコメントしていた。一瞬で心の中が凍る気がした。色々な状況の中で一生懸命生きている人間同士、もう少しゆとりをもって自分以外に優しくなれたら良いのに、と思う。

緊急走行中の救急車と乗用車が衝突…搬送に影響 青森・弘前市

 

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敬老の日

東北新幹線

今日は姉夫妻も実家に来てくれて敬老の食事会をした。その後父は姉夫妻の自宅がある荻窪に。そして自分は今東北新幹線で青森に向かっている。連休最終日ということもあり新幹線は満席。実は東北新幹線はやぶさ号は自由席の設定がない。が、東海道新幹線や山陽新幹線のように本数が多いわけでもないので、苦肉の策として「立ち席特急券」なるものが発売される。自由席特急券と違うのは、乗車する新幹線が指定されること、そして自由席設定がないのでどんなに空いても座れない、更に今日のように満席にならないと売り出されない、という点が挙げられる。鉄道マニアとしては少しだけ立ち席特急券なるレアチケットを購入できたことは嬉しいが約3時間経ち続ける事には閉口である。 

日々後悔

実家で父とふたりで過ごした5日間。毎晩ひとりになると泣いていた。とにかく父が毎日衰えていく。特に話していることが支離滅裂で会話が成立しない。いない人を探したり、あるはずのないものを一緒に探してくれと言ってきたり、夜中に外に行こうとする。今までこんなことは決して無かったのに母が居なくなってから急にかわってしまった。この変化に自分のそうだが何より父が戸惑い悲しい気持ちになっているはず。それは分かっているのだが、どうしても父に対して注意することが多くなる。口調も決して優しくない。時には叱るような勢いで行ってしまう。

先週末に届いた書留があった。両親の保険証だ。これが届いた時にすぐに保険証だと分かったが、庭の作業をしていたので上り框に置いてしまった。作業を終えて書留をしまおうとしたが既になくなっていた。父に聞くが、そんなものは知らないと言う。知らない訳ないのだが憶えていないのだろう。そもそも今回は保険証が短期間に2回変わるので、「年寄りのものをそんな煩雑にするのは不親切なのではないか」と心の中で国を責めたりしていた。元々自分がすぐに片付けないのがいけなかったのに誰かのせいにしたい衝動にかられた。父も申し訳なさそうに「一緒に探す」と言ったが、そんなことはいいから早く寝てくれ、と言ってしまった。

こんなやりとりを毎日していた。1日を振り返り、後悔しながら「お父さん、ごめんなさい。辛いのはお父さんなんだよね」と独り言を言いながら風呂場で泣いていた。

でも

父とお別れする時に「また来月来るから、それまで待っていてね」と声を掛けると「いつでもおいで。困ったことがあれば何でも連絡してきなさい」と言われた。父のお世話をしているつもりだが、父は全てが分かっているんじゃないか、と思わされた。そして子どもからきついことを言われても、母がいない寂しさに心挫けそうになっても尚家族のことを考える父は偉大だな、と思わされた。

あと1年で還暦。自分も間も無く父のようになる。その時、薄れ行く記憶と理性の中でどれぐらい家族を想い続けられるのだろうか。

敬老の日の今日、特別に意味深い1日になった。

 

まぼろしのかげをおいて 関根宣義先生

 

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新しき地に

ヨシュア

モーセに代わってイスラエルの民をカナンの地に導き、彼らに土地を嗣業として分配しその生活指導を行なったヨシュアもいよいよ最期の場面を迎えた。イスラエルの民に対するラストメッセージである。

今日選びなさい

ヨシュアの指示に従って、契約の箱がシロから持って来られた。これは、非常 に厳粛な時の1つであって、この神の臨在の象徴は、彼が人々に与えようとした 印象を強固なものにした。彼は、イスラエルに対する神の恵みを示したあとで、 主の名によって、彼らが誰に仕えるかを選べと人々に呼びかけた。偶像礼拝は、 なお、ある程度まで、ひそかに行われていた。それでヨシュアは、彼らに決心を 促して、イスラエルから、この罪を除こうとしたのである。「もしあなたがたが主 に仕えることを、こころよしとしないのならば、・・・・あなたがたの仕える者を、 きょう、選びなさい」と彼は言った(同・24:15)。ヨシュアは、強制的でなく て、彼らが心から神に仕えるようになることを望んだ。神を愛することが、宗教の基礎そのものである。報酬を望んだり、あるいは、刑罰を恐れたりする気持ち だけから奉仕に携わるのでは、なんの益もない。神は、公然と反逆することと同 様に、偽善と単なる形式的礼拝をおきらいになる。

人類のあけぼの電子版 p454  ヨシュアの決別の言葉

随分昔になるが大川従道先生他が牧会される大和カルバリーチャペルに数年通っていた。当時、音楽家として伝道に励んでおられた関根先生がよく歌っておられた讃美歌がある。自分の所属する教団でこの聖歌を歌うことはまずないのだが、とても印象深くまた感動して聴いていた。

1新しき地に 踏み出()だす
心に備え ありや見よ
ヨシュアのごとく われも言わん
「わが家()とわれは 主に仕えん」

2試みしげく ありと聞く
恐るる心 無きや見よ
ヨシュアのごとく われも言わん
「わが家()とわれは 主に仕えん」

3群がる仇(あだ)も 何かあらん
先立つ君は イエスなれば
ヨシュアのごとく われも言わん
「わが家()とわれは 主に仕えん」

4取るべき所 なお多し
心強くし かつ勇め
ヨシュアのごとく われも言わん
「わが家()とわれは 主に仕えん」

選択

教団や教会に頼るのではなく、自分自身が調べて経験して信じるに値する方を選択しないといけないことを痛感している。終末時代、サタンは牧師や教会の指導者を支配して、微妙に違う教えを気づかれないように混ぜている気がしてならない。

神が、神の民を愛される愛は非常に大きいから、民の罪をお許しになるという もっともらしい説を唱えて、サタンは多くの人々を欺くのである。神の脅迫の言 葉は、神の道徳的政府の中で、ある種の役割を果たしはするが、それは文字通り 成就するものではないと、サタンは言うのである。しかし、神は、その被造物に 対するすべての扱いにおいて、罪の本性を明らかにあらわし、その確実な結果は、 悲惨と死であることを実証して、義の原則を維持なさった。罪を無条件で許すこ とは、これまでになかったし、これからもないのである。そのような許しは神の 政府の基礎そのものである義の原則を廃棄することになる。それは、堕落しない 宇宙を驚嘆させることであろう。神は、忠実に罪の結果を指摘なさった。ところ が、もしその警告が真実でないとすれば、どうして、神の約束が成就することを 確かめることができようか。正義を廃棄するようないわゆる慈愛は、慈愛ではな くて弱さである。

人類のあけぼの電子版 p453  ヨシュアの決別の言葉

新しき地に

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喜びの朝

家庭礼拝

安息日の今日、父とふたりでオンラインの礼拝に参加した。今は行けなくなったが私たち家族の母教会である東京中央教会の礼拝に参加させていただいた。特に長年お世話になった牧師先生がメッセージを取り継がれ、父も懐かしそうに聴き入っていた。どのような時も神様が共にいてくださる、という確信に満ちたメッセージで大変励まされた。

もう随分前に亡くなった叔母、父のお姉さんの名前を挙げて「さっき、たみ子がいたけどどこに行った?」と何度も聞いてくる。ここ2ヶ月で別人になってしまった両親をみてとても悲しく切ない気持ちでいる。そのような時に聴いたメッセージだったので特に心に染みた。  

喜びの朝

ここ数年「明日が楽しみだな」と思って寝た記憶がない。朝が来て「今日も頑張るぞ」と思ったことも殆どないと思う。命を与えられたことを感謝できるまで長い時間がかかる。

聖書にはダビデのとても素晴らしい詩がたくさん書かれているが、朝について次の言葉がある。

「その怒りはただつかのまで、 その恵みはいのちのかぎり長いからである。 夜はよもすがら泣きかなしんでも、 朝と共に喜びが来る。」

‭‭詩篇‬ ‭30:5‬ ‭口語訳‬‬

今はそう思えなくても必ず喜びの朝を迎えることができると信じていたい。

わたしはあなたの神  千先勉 名誉牧師

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ひとりぼっち

帰郷

昨晩遅くに実家に帰省した。夜から父と2人で実家で過ごしている。リハビリ病院に入院中の母は、やはり後遺症が重く、認知機能が著しく低下し、言葉もあまりしゃべれず、感情のコントロールもできないのが現状だと言う。ほぼこの状態で固定するのではないかとの説明を受けた。そんな母だが、日常的によく人の名前を呼ぶらしい。その中で1番多いのが私の名前だと聞いて涙が出てきた。1番迷惑をかけて、兄弟の中でも最も心配をかけたので印象に残っているのかもしれない。おそらく今の自分を見ても息子だと認知できないと思うが、それでも自分の名前を覚えていてくれる事は本当に嬉しい。父の認知昨日もさらに低下している。今日も一緒に病院に行ったが、そこでの挙動もかなりおかしかった。こうやって両親が弱り、自分の知らない状態に変化していくことに絶えず戸惑いを感じている。それでも、特に母は命を落とすような状況であったにもかかわらず、神様が深い哀れみの中で、それを支え生かしてくださっているので、今の状態を何とかしてほしいなどと思うこと自体、神様に失礼なことだと思っている。

剪定

朝から庭のかりんの木を中心に剪定をしていた。母がとても花好きなので、狭い庭にたくさんの植物が植えられているが、もう手入れができないので数年前から自分が母に代わって手入れをするようになった。特に木の剪定は体力的にもかなりきつくこの時期が来ると少し憂鬱な気持ちで帰省する今年は、父の面倒を見ることを理由に剪定をやめようと考えたが、やはり見栄えも悪く空き家と分かってしまうので重い腰をあげてみた。剪定しながら、「もうこの庭を、母は見ることもないのだろう」と思ったら、無性に寂しくなり、今すぐ母に会いに行きたくなった。

ひとりぼっち

両親のこともさることながら、他にも心に重くのしかかる問題があり、「どうしたらいいのかな?」と肩を落とす日々が続いている。神様が1番良い道を用意してくださっているのに、悪路をひとりぼっちで歩いている気がしてならない。神様に申し訳ないと思いながらも、信仰の目が開かれず、状況にばかり目を向ける。これではいけないと思いながらもなかなか前を向くことができない。そんな時すばらしいメッセージをいただくことができた。是非このメッセージから力をいただいてほしいと思う。肩を落として歩いた1週間ではあったが、癒しと再創造の日である安息日を迎えた。すべての人に安息日の祝福があることを祈りたい。

私がひとりぼっちの時

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自己放棄 self-renunciation

自己実現

良いことを考えそれを望み、それが叶うよう努力する。できるだけ良い望みを持てるように良いものをたくさんみて良い教育を受ける。自分の中にある思いを具現化して行く自己実現は多くの人の理想的な生き方であり目指すべき方向である。教員時代、この言葉を何度も並べる教材をたくさんみてきた。若者にとって自己実現はとても大切なことである。

自己放棄

放棄、と言葉に否定的な意味が含まれるので誤解されやすいがキリスト教の世界ではこの言葉をよく使う。もう少し別な言い方で「自己に死ぬ」などと言うことが多い。要するに自分の欲求や考えをすてて神様のご意思を自分の行いとすることを言う。自分を放棄することについてイエス様は一粒の麦をたとえにしてお話しされた。

24よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。 25自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。 26もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう。
ヨハネによる福音書12:24-26

自己放棄の難しさ

昨日、自己否定についてゆっくり考えてみた。そしてこれが非常に難しいことであると気づいた。

例えば自分の無力さを感じて必死に神様に祈る。そして神様からのお助けをいただきたく聖書を毎日定期的に通読し、キリスト教書籍を読むことも怠らない。毎日長い祈りをささげてとにかく神様からの助けを請い願う。これ自体は何ら悪いことではなく、むしろクリスチャンのあるべき姿だと思う。しかし、これをずっと続けていくうちに何度も何度も聖書を通読する行為が自分を助け、清めると勘違いしてしまう可能性もある。最初は神様にすがる以外の道がなく必死にみ言葉から力をいただいていたが、だんだんと通読する行為に力があるとすりかえられてしまうことがある。力は聖書の言葉、神様の言葉にあるのに、それを求める自分の行為に依存することが「自己放棄できていない状態」であることに気づいた。紙一重だし周りの人にはその違いは分からない。もしかしたら自分自身も分からないのかも知れない。

人は「見たものを頼る」と学んだ。「見たもの」よって生じた「自分の考え」に頼り、そしてその考えによって起こる「感情」に頼って生きる、らしい。

この奥深い「自己放棄」を日々実践したい。

もし、わたしたちが、神のご用のために自分をささげているならば、 神は、なんの備えもなさらないような所へ、わたしたちを置かれること はない。わたしたちがどのような境遇にあっても、導き手であられる主 がわたしたちをお導きくださる。どんな問題であっても主は確実な相談 相手である。また、どんな悲しみ、死別のなげき寂しさの中にあっても、 同情にあふれた友なるイエスがわたしたちとともにおられる。無知のた めに足を踏みすべらすようなことがあったとしても、キリストはわたし たちを、おすてにはならない。「わたしは道であり、真理であり、命であ る」と言われる主のみ声が、はっきりと聞こえてくる(ヨハネ 14:6)。 「彼は乏しい者をその呼ばわる時に救い、貧しい者と、助けなき者とを 救う」(詩篇 72:12)。
キリストの実物教訓 p120 祈りの能力

聖書研究ガイド22312

 

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