真の実力

盛(兄、もり、仮名)、正(弟、まさ、仮名)との出会い

ある年、高等学校で「盛」の担任になった。このころの生徒は昭和末期生まれで日本が何につけ冷え込んでいた頃に子どもだった世代だ。共働き家庭が多く、子どもは小さなゲーム機をあてがわれ親の苦労を見ながら静かに暮らしていた世代。しかし全寮制の本校ともなると少し様子が違いこの学年は好奇心と探究心旺盛で「とにかくやってみよう」というチャレンジ精神に溢れていた。少し気を緩めると暴走する生徒を秩序ある集団にまとめるには更なる祈りが必要だった。しかし一人一人はとても心優しくホームルームにいるだけで教師の私の方が心癒される、そのような集団だった。中でも人一倍背が高くおしゃべりが大好きで気が利く盛はみんなの人気者で常に集団の中心にいた。実は彼のご両親をよく知っている。自分が高校生の時に働いていたアルバイトの直属の上司が盛のお父さん。同じ職場の別セクションでは盛のお母さんが働いていた。お父さんはその昔、憧れの「メンズクラブ」(通称メンクラ、トラッドを中心とした男性向けファッション雑誌)のモデルをしていた方だ。私が盛の担任をした時にはお父さんとお母さんは離婚され、お母さんが再婚して学校から30分ぐらいのところに引っ越してこられていた。盛は何かにつけ私のところに来ては面白い話を聞かせてくれた。そんなある日盛が「先生、今日はお願いがあるんです。弟の誕生日なので週末母と弟の住む家にいかせてもらえませんか」。学校のルールではこのぐらいの理由での外出はできない。「そうか、少し難しいかもしれないね」というと盛は家庭の事情を話してくれ、ご両親の離婚後母親に引き取られた弟とは数年会っていないこと、弟が自分に会いたがっていることなどを話してくれた。「わかった。任せておいて。」と彼の願いを受け入れた。教師会でどのような説明をしたのかは覚えていないが何かしらのマジックを使ったのだろう、許可がおりた。週末、彼を自家用車に乗せ途中で注文しておいたケーキを受け取り弟の「正」がいる家に向かった。家に着くと「先生も一緒に」と言われたが「車で待っているから何時間でもゆっくりしたらいいよ」と盛を送り出した。2時間ぐらい経った頃、盛が車に戻ってきた。「もう帰りますが母が先生にお会いしたいと言っていますから少しだけ中に入ってください。」と言われたので家に入ると懐かしいお母さんの顔。そして新しい旦那さん。実はこの方も面識がある。そして初対面の「正」。当時正は小学5年生。電車とバスで1時間以上かけてキリスト教系の学校に通学していた。
「初めまして。お兄ちゃんの担任です。」
「初めまして、正です。僕は飛行機が大好きで飛行機のエンジン音で機種が分かります。」
といきなり特技を含めた自己紹介をしてくれた。彼が住んでいる家は空港のすぐ近くで家の真上が航空路になっているためいつの間にかわかるようになったとのこと。そんな小学生の正とその後ずっと関わるようになるとはこの時想像もしていなかった。

中学生になった正

正は通学地獄から解放され全寮制の本校に入学してきた。自分のことをほとんど話さずただただ人のことばかり考える正、実は彼の家を訪問していた時にはすでに新しい父親からDVを受けていたという。後からお母さんから聞いた。なのでお母さんと正は家を出て東京の実家に戻っていた。その頃私は高校の教員だったので正との接点はあまりなかったが、中学校で働く妻が奇しくも彼の担任になった。妻は私の10歳年下。態度は10歳年上。彼女はとにかく生徒の話をゆっくりと聞く能力に長けている。正も妻に何でも話を聞いてもらえるので色々な相談をしていたようだ。一応、我が家にはルールがあって同じ学校で働くもの同士なので生徒や保護者の情報については家庭で話さないようにしていた。折角心を開き信用して色々な話しをしてくれる生徒が、情報の出所が分かり「この夫婦、家で自分のことを話している」とわかると急に心を閉ざしてしまう。何より生徒を傷つけてしまうのでこのようなルールを作っている、というより教員の守秘義務本能がそうさせていた。時々家に帰ると正が家にきていることがある。もちろん理由は聞かない。「よぅ、正。元気?」と声をかけるだけで妻との会話を邪魔しないようにしていた。

高校生になった正

正はそのまま高校に進学してきた。今度は私の担当だ。彼を2年、そして3年の時に担任として受け持った。正はおおらかで大雑把な盛に比べて緻密で計画通り物事を進めていくタイプである。盛と同じでバスケットボールが得意で周囲に対する細かい気配りができるため男女、先輩後輩関係なく信頼されていた。聖歌隊でもリーダーシップを発揮し創意工夫に長けている。学習には常に真面目に取り組み「これをやりなさい」と指示されるとずっとそれをやり続ける真面目さと根気強さがある。しかし、試験週が終わると決まって私の家に来る。いつも明るい正が暗い顔をする。「先生、僕ってバカなんですかね?なんでこんな点しか取れないんですか。怠けていないんです。すごく努力しているんです。努力しているのにこんな点なんです」。学業成績だけを見たら彼は「中の中」、或いは「中の下」。「正、点数で人の能力を測ることがいかに愚かなことか、よくわかる時がくるよ。点数じゃない。真面目にコツコツと実直に学び続けることこそ一つの結果じゃないか。日本はそのプロセスを結果として評価してくれない国なんだ。だから学校は人を育てながら人を殺す場所なんだよ。学校の価値観を自分の価値観にしてはいけない。じゃないと君も人を結果、点数でしか評価できない人間になってしまう。45点の物理のテストを堂々とお母さんに見せなさい。僕は毎日3時間物理のために使って勉強して45点も取れたよって報告しなさい」。こういうやりとりを毎回続けていた。因みに彼の飛行機熱は冷めるどころかどんどん熱くなり「パイロットになりたい」というのが彼の夢になった。夏休みや冬休みは羽田空港でアルバイトをしていた。今はなきJASの機材清掃のアルバイトだ。輸送を終えた航空機を次の出発までにセッティングする仕事。当時JASはエアバスを多く導入していたが時々コックピットの写真を送ってくれた。正の夢が叶ったらいいな。でも今の学力では少し難しいかな。

高校卒業後の正

正は高校を卒業して留学した。米国にある系列の大学にはaviationのコースがありそこで学ぶためだ。しかし、前述の通りお母さん一人の収入である。留学、しかもaviationともなると年間500万円ぐらいかかる。奨学金やローンを用いても300万円ぐらいはかかる。それはかなり厳しいことに思えたので一抹の不安があった。加えて正の英語力。そこまでできるわけではないことは本人も自覚している。本当に大丈夫なのだろうか。緻密で計画的な彼のことだから大丈夫、という気持ちとダメかもしれないという気持ちが交錯した。そんな周りの不安をよそに彼は私たちの見えていないものに目を向けて渡米した。時々くる彼からのメールには様々な近況は記されていた。妻と一緒に我が子を送り出した保護者のようにメールを読んだ。大学の聖歌隊で日本人として初めてリーダーになった、とか単発機で練習をしているとか、勉強はかなり苦労しているけど助けてくれる人も多い、等々。もう無理かな、と心配する頃になるとメールが届き「単発のライセンスが取れました」「双発で練習中です」などアップグレイドしていく様子が伝えられる。そうこうしているうちに結局彼は卒業した。卒業できた。いや卒業を果たしたのだった。卒業式にはお母さんも盛と一緒に米国に行ってその式典に参加し彼の卒業を祝福したという。文章ではなかなか伝わらないだろうがこれは奇跡の中の奇跡である。経済的、能力的に不可能と思える道が開かれたのだ。以前の投稿に出てくる歯科医の女子生徒もそうだがこういう奇跡が私の周りにはたくさんあるのだ。モーセが200万人のイスラエル人を率いてエジプトを脱出する時、追っ手のエジプト軍がすぐ後ろまで迫ってきた。無情にも目の前は葦の海。前にも後ろにも行けない絶体絶命のピンチで神様は葦の海を二つに分け水のない乾いた地をモーセに示した。そしてそれを進み全員が渡りきったところで水は元に戻って一つの海となった。追っ手のエジプト軍はそこで海に呑まれて滅んでしまう。まさにそのようなことが起きたのだ。帰国後彼は九州でライセンスの仕上げをしていよいよ就職することとなる。

トリプルに乗りたかった正

パイロットとして歩み始めた正が最初に就職したのがSKYMARK AIRLINESだった。ボーイング社の機材が好きな彼を待っていたのはB737だった。詳しいことはわからないが正がいうにはエアバスとボーイングは設計のコンセプトが全く違うらしい。エアバスは最終的な判断を最後まで冷静なコンピュータに任せる設計、対してボーイング社は最終判断をパイロットの技術と力量に任せる設計。で、正はボーイングが好きらしい。当時SKYMARKは経営も不安定であったが彼の英語力が大きな武器となって採用されたらしい。確かに聞いていてすごく綺麗な英語を喋る。パイロットになりよく写真を送ってくれていたが当時のSKYMARKは制服がポロシャツ。機材の前で写る正はパイロットには見えずどう見ても整備士さん。でも彼は嬉しそうに日本中の空を飛んでいた。その後別の会社に移った。今度はANK。ANAに入社したかった正は少しでもANA色に近いところということでエアー日本に入社した。新千歳ー広島路線が多く彼と会うことが多くなった。何度も家に遊びに来てくれた。ただ、この会社の体質らしいが上下関係が理不尽に厳しいらしい。結局ここも4年ぐらいで辞めてしまった。そしてついにずっと乗りたかったB-777(トリプル、トリプルセブン)に乗れる会社を見つけた。EVA AIRだ。彼は東京在住なので通勤は飛行機。家を出て出勤、台湾に向かう。そこから海外路線で777を操縦するのだ。田舎の山奥でスーパーカブに乗っているおじさんとは住む世界が違う。しかし、いつも彼はあの少年「正」、また試験のたびに落ち込んでいた「正」のままで謙遜で心優しい人間だ。自分が神様という存在を信じる理由がいくつかあるが、その一つが正のような奇跡の生き証人がいることだ。人の力や経済力で判断したら正がパイロットになれるはずがない。しかしその背後でずっと働き続け導いた神様がいるから彼はパイロットになれた。正に聞いたことがあった。「よく頑張ったよね。正直いうと少し無理なんじゃないかとも思っていたんだ」というと「僕も何度もダメだと思いました。でも不思議なことにいつも必ず助けてくれる人がいたんです」。彼はわからないことを「分かりません」ということに躊躇しない。恥ずかしさを捨てて素直にわからないものはわからないと言えるのである。これってできそうでなかなかできないことである。特に男性には難しい。「分からない、出来ない」はイコール「恥」と思っている人が多いからだ。さり気なくできて、なんでも分かって「凄いね」と言われたいのが男性である。正は何でも正直に自分をそのままさらけ出せるから、彼の周りには「正を助けたい」と思う人がいっぱいいたと言う。教師として人の実力というものを考えるときにいつも正のことを思い出す。学校も社会も結果を出せた人を力のある人、優秀な人と評価する。ではその結果とは。試験の得点や営業成績、企画の成功率、収入、を結果とするのが社会である。しかし、正のように「素直に生きる、自分をそのままさらけ出し、分からないことをわからないと言える」ことも実力のうちではないだろうか。30年以上教員をしているから色々なタイプの生徒に出会う。周りから「頭の良い人」と思われている人は結構かわいそうだ。「分からない」と言えない、言わせてもらえない雰囲気があるからだ。だから知ったかぶりをする。それが蓄積されて結局学力も伸びないし夢も叶わない。等身大で生きられない、知ったかぶりの末路はかわいそうである。日本の社会が本当の力、本当の人間らしさを評価できるようになったらもっと多くの人が幸せになれるのに、と思う。

今後の世界はどうなるのか?

世界はいつまで続くのか

世界情勢が目まぐるしく変化する昨今、この世界(地球)はいつまで続くのだろう?という疑問を持つ人も多いと思う。自分もその一人だ。だから世界の今後を予測する人が注目されたり、関連の本やテレビ番組がもてはやされる。私が小学生の頃(今から50年ぐらい前)、石油はあと30年で枯渇すると言われていた。あれから50年経った現在、このままだと石油の枯渇はあと25年と言われている。勿論この間に石油の採掘技術が進歩し、人類も石油に依存することを少しでも抑える努力を続けた。もしかしたら30年後も石油の枯渇はあと25年と同じことを言っているかもしれない。そこで甘い考えがよぎる。もしかしたら石油は無くならないんじゃないか、と。色々なことを言って不安に陥れながらも実はこの世界は永遠に続くのではないか、そんな考えを持つ人もいるかもしれない。

しかし聖書は明確に世界が終わることを預言している

聖書の後半が新約聖書、新約聖書の一番最初が「マタイによる福音書」である。人類最初の人であるアブラハムからイエスキリストに至る系図が書いてあるので、カタカナばかりで読むだけでも大変なところである。このマタイによる福音書24章に世の終わり、即ちイエスキリストがもう一度この地上に来て自分を信じて従った人たちを迎えに来てくださる「再臨」の前に起こることが列記されている。戦争、飢饉、地震、偽預言者、イエスキリストの名を語る偽物、等々。聖書の一番最後のある「ヨハネの黙示録」にはもっと具体的な預言が書かれておりその中には疫病なども出てくる。今までの災害などはある地域に限定されるものが多かったが新型コロナウィルスは全世界規模の疫病である。聖書がいう終末預言はかなりの部分が既に成就している。即ち世の終わりが近づいていることは確かなことである。

コロナ対策で考えたこと

日本で生活しているとあまり大きな変化を経験することは無い。世界情勢から考えるとある日突然大きな変化があってもおかしく無い気がするがそれが起こらないのは、恐らく国の指導者や金融を操作する方、様々な場面のリーダーたちが目に見えないところで努力をしてくださり日本という国を守ってくれているからだと思う。噂レベルの話であるがオウム真理教がこの世界を征服しようとするシナリオの中で、北朝鮮と協力して日本を征服するという計画があったと言われている。これも間一髪のところで公安が阻止したと伝え聞く。守られて来た日本、しかしこの日本が大きく変化した時があった。それを私たちは一連のコロナ対策で経験した。最初は対岸の火事ぐらいに思っていたコロナが徐々に北海道、そして本州に近づき小学校の休校要請が出された。それから間も無く学校が一斉休校となった。ある日を境に前日とは全く違った日常になってしまったのだ。米国に住む友人である医師に聞いたところ「ある日突然国の関係者がやって来てクリニックを閉鎖するよう命令してきた。そして医院にある脱脂綿やガーゼ、そのほかの医薬品を持って行ってしまった。」とのこと。アメリカは自由の国であるが、国が何かを決めるとそれは日本の「要請」とは違い「命令」となりそこに個人の意見や意思は全く通用しないとのことだった。

では世界の終わりって?

世界に終わりがありそれが近いことを自分は痛感している。聖書はそのことを前述の「ヨハネの黙示録」や旧約聖書の「ダニエル書」で預言している。預言書の解釈は多種多様で例えば有名なのは666の預言。これは人物を表すことまでは聖書に記述されているがそれが誰なのかは文脈から読み解くしか無い。これを皇帝ネロという人もあればローマ教皇権という解釈も成り立つ。世の終わりとの解釈として面白い動画を見つけた。話しは結構辛辣な話であるが牧師先生の人柄にためかあまりそれを感じさせない動画である。もし興味があれば是非観ていただきたい。平和な日本に住みながらもこの先何があるのか、を考えることは非常に大切なことだと思う。
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みんな良い人なのに

真面目でシャイなS君

高等学校の教師をしているときのこと。ある年S君のいるホームルームを受け持つことになった。3年生である。S君はお父様の仕事に関わりのある車が大好きで、また鉄道と写真が好きな生徒さんである。とにかく真面目で人目の有る無しに関わらず常に実直に責任を果たすタイプで周りからも一目おかれている存在である。写真や鉄道が好きということで彼はよく私のところにきては自分の話をしたり私の撮った写真を見ていた。礼儀正しい好青年だが少々シャイなところがあり女子と話すのがあまり得意ではない。男子とは楽しそうに話すが女子に話し掛けられると急に敬語になってしまう。高校3年生とはいえまだまだ可愛らしさ、初々しさがある。彼とので出会いによって色々なことを考えさせられ学ばせてもらった。親御さんの現実と子どもの願い。そして現実を受け入れざるを得ない子どもの立場。S君から子どもの叫びを聞かせてもらった。

S君のご両親

S君のご両親は、なるほど親子だと思えるほど真面目で誠実な方々である。P.T.A.にも毎回二人でお越しになり面談の内容をきちんとメモを取りS君が頑張っていることを報告すると二人で涙を流される。S君は本当に愛されているな、とその愛情がしっかりと伝わってくるご両親である。しかし、このご両親は面談が終わるとそれぞれ別行動をされる。不思議だなと感じていたがそれほど気にとめることもなくやり過ごしていた。本校は東京から800kmぐらい離れているので東京在住のS君の親御さんは飛行機で帰られる。帰りも別の飛行機を使っていたようだ。少し気になり担任だけが見ることのできる書類を見るとお二人の住所が違っていた。お父様は東京、そしてお母様は関東の別の県であった。何かご事情があるのだな、と思いながらも全寮制の学校ではそれほど珍しいことではないのでそのままになってしまった。

S君に呼ばれて

全寮制の学校で教員も同じキャンパス内に住んでいるため、舎監でなくても寮室を訪ねることはある。ただし、男性教員は男子寮にしか入れない。当然である。あるときS君が「先生に僕の撮った写真を見せたいので部屋に来てください」と誘われたので早速その日に行って見た。S君らしい整った部屋だった。部屋は2人ないし3人で一部屋だが彼のテリトリーは群を抜いて綺麗だった。彼の性格が出ている。S君が机の引き出しからおもむろに、少し嬉しそうに取り出したのが休み中に鉄道旅行をした時に撮った写真。北海道まで一人旅をしたようで素晴らしい写真ばかりだった。一人旅をしているときの彼は教室で見せるシャイな一面を微塵も感じさせないほど大人で堂々としていた。「貧乏旅行ですから結構やばいところにも泊まりましたよ」と嬉しそうに報告してくれた。「帰りは母のところで二週間ほど過ごして、学校に戻る前に三日間父のところにいました」とさり気なく報告してくれた。「そうなんだ」と言いながら次の言葉が見つからなかった。「僕の両親はとてもいい人なんです。でも二人になるとどうしても性格が合わないらしくて。今は別居しているんです。僕が中学に入ったときからだからもう6年になります。」胸が痛み出した。(もういいよ。何も話さなくていいよ。)そんな気持ちだった。

思い出の写真

ふと目を本棚に向けるとそこには綺麗な花の風景とS君、そしてご両親の3人が笑顔で写っている写真が。「これ、小学生の時に3人で行った信州の写真なんです。山に登ったんですよ。高原を歩いて。とても楽しかったな。いつかまた3人で行きたいんですよ。」場所はよく分からなかったが美ヶ原にも見えた。立派な高校3年生になりもうすぐ卒業していくS君。でも思い出と気持ちは小学生のまま。自分の気持ちを必死に押し殺しながら両親の決定にただただ従って「なんで3人で暮らせないんだろう?」と思いながらも口を真一文字に閉じて耐えるS君。「ありがとう。今日は本当に良いものを見せてもらったよ。」と早々に立ち去る自分。泣きたくて仕方なかった。みんないい人なのに。いい人が3人集まっているのに。なんで傷つかなくちゃいけないんだろう。なぜ子どもが傷つくんだろう。そういえば自分も子どもに言われたことがある。「両親が喧嘩ばかりするのはある意味虐待だよ」と。その通りである。本当の意味で子どもを大切にすること。大人の知恵を使ってもう一度考える必要があるのかもしれない。

教員として心がけていること

生意気であるが生徒さん方と接する際に目標なるものを常に意識して教員生活を送って来た。自分はクリスチャンという背景があるので少し理解してもらえない点もあるかと思うがここに書かせていただきたいと思う。

全ての生徒、それは難しいとしてもできるだけ多くの生徒の痛みに寄り添える教師でありたいと常に考えて来た。また専門科目の「物理」では自然界が単純で美しい秩序に従って今尚運行し続けその背後にある存在を意識しそれを発見することを授業の目標として来た。奢らず決して高ぶらず生徒一人一人を尊い魂として尊敬の念を持って接することを意識したい。

高校3年で停学

自分は高校3年生で停学になった。理由は喫煙。今では喫煙で停学になる学校もあまりないのかもしれないが当時、また自分のいた学校はかなり厳しく指導も徹底していた。自分は初犯で喫煙をしたというよりその場にいただけという理由でかなり停学期間は短かったがそれでも2ヶ月の停学。今では教育権の剥奪と逆に訴えられてしまう長さだ。一番辛かったのは親を悲しませてしまったこと。全寮制の学校ということで学費が毎月サラリーマン給与の1/3ぐらいかかる。苦労して、無理して送ってくれていた学校で好き勝手なことをして停学になって帰ってくる。本当にばかな子どもだと思った。しかも高校3年生、受験直前の大切な時期にである。毎日反省しながら家から出ることもなく考え事をしたり勉強をして過ごした。寂しく過ごしていたが一つだけ楽しみにしていることがあった。それは夜になると掛かってくる電話だ。舎監のY先生がほぼ毎日のように電話をかけてくださる。自宅からではなく寮の公衆電話からかけてくださるのである。「元気か?」と言いながらその辺にいる自分の同級生に代わってくれる。もともと明るいY先生だが電話では更に大声で笑いながら「今日はのぉー…」と言いながら色々な話、くだらない話をして私を笑わせてくださる。舎監専用、仕事用の電話を使えば良いのに他の生徒の声を聞かせたく寮の公衆電話を使う。まだテレフォンカードのない時代である。Y先生はいつも財布に10円玉があると電話用に貯金箱に入れてくださっていたとのこと。こういう先生がいらしたからくさらず、また将来はY先生のように人の痛みに寄り添える人間になりたいと思うようになれた。もし停学になっていなかったら自分は教員になっていなかったのかもしれないとすら思う。

浪人して二流大学へ

自分で言うのも変だが、当時の受験生にしてはかなり勉強したほうだと思う。寮生活(掃除や洗濯も自分でやり一般の授業以外にも「勤労体験学習」を週に8時間行う)なので勉強時間を捻出するのがかなり難しい。早朝から深夜、休み時間まで効率よく用いないと勉強が追いつかない。それも全てやったが結局浪人。6月頃まではエンジンがかからずアルバイトをしたりパチンコに行ったりしていたが夏前からかなり本気になって勉強するようになった。予備校では良い先生にも多く巡り会えた。自分と同世代の方なら分かるかもしれないが渡辺次男先生、「ナベツぐのあすなろ○○○」と言う数学のシリーズ本を執筆された先生の授業も受けさせていただいた。超怖かったけど愛のある「鬼の遠藤」先生には物理を徹底的に鍛えていただいた。寸暇を惜しんで勉強したが合格したのが誰もが羨むような一流大学ではなかった。難関大学受験生が滑り止めに受ける大学にやっと合格できた。大学に入って「自分の力はこの大学のレベルと釣り合わない」などと高飛車なことを考え親に内緒でもう一年浪人しようとさえ考えた。しかしこの経験が自分の教師としての幅に繋がった気がしている。負け惜しみではない。努力しても点数に繋がらない生徒さんの気持ちが理解でき、また自分の出身した大学で生徒さんや保護者を選別するようなことをしない教師になれたと思う。人間の真の価値というものを見失わない生き方は「努力しても二流大学にしか合格できなかった」という自分の弱さを直視することでできるようになったと思っている。人の価値は出身した大学、就職した会社のネームバリュー、就いた役職、結婚相手で決まるのでは決してない。自分のようにダメな人間を「価値がある」と言ってくださる神様によって決まる。現にキリスト教では救われるために人間側にできることは何もないことを徹底的に教える(プロテスタントの場合)。

全ての生徒を価値ある魂と考え尊敬の念を持って接する

生徒さん方と話すことが大好きな自分は機会を見つけて色々な話をするようにしている。教員であれば何となく身に覚えがあるかもしれないが、自分が全ての生徒さんと平等に関わっていないことに気づく。これは教師によって違うが、例えば成績上位者たちを更に伸ばそうとこちらに力を入れ下位の生徒にはあまり目を向けない先生。生徒指導で問題ばかり起こし何度言っても行動が改まらない生徒にばかり目が行きその生徒を何とかしようと特別に目をかける先生。自分もそういうところがあった。今もあるのかもしれないが、ある時からそれに気づかされ意識してそれをなくすように努力した。そのあることというのが生徒さんとの対話だ。彼は成績も中の上。集団の中でもみんなから好かれているものの特にリーダーシップを取ることもなく、居ると安心されるタイプ。教師の周りに集まる生徒の少し外側でその様子を笑顔で見ているタイプの男子生徒。こういうタイプは教師側も安心してしまって密なコミュニケーションを取るのを忘れがちになってしまう。そんな彼が「僕も他の人たちのように先生たちからもっと愛されたいし関わって欲しいんですよね。少し問題を起こしたら先生も僕に目をかけてくれるんですかね。」と笑いがなら冗談のように言った。彼の精一杯の叫びであり精一杯の優しさなのだと理解した。自分が大人として、クリスチャン教師として恥ずかしくなった。心当たりがあったからだ。自分では平等にしているつもりでもいつの間にか自分のようにできない生徒、ダメな生徒に行きがちだったのだ。どの生徒も価値があり教師の都合や好みで手のかけ具合が違ってはいけないはずだ。彼らを尊い魂として扱ってきたのだろうか。彼らがいつまでも高校生でいると勘違いして舐めてかかってはいなかっただろうか。色々な疑問が一気に自分に向けられた気がした。自分と同様、目の前の彼にも神様は「価値ある存在」と言われた。それを忘れていたのではないかと猛省した。

物理で学んで欲しいこと

「自然と聖書は神の愛をあかししている」とある書物に書いてあった。自然界はそれ自身非常に美しい。アメリカをキャンプしながら旅行した時に見た自然界の美しさは忘れられない。グランドキャニオンの絶景、モニュメントバレーの芸術的センス、イエローストーンの広大さ。海に潜っていても同様のことを感じる。日本は四季がはっきりしているところが多く、秋になると紅葉(こうよう)が見られる。そもそも神様が最初に創られた地球には紅葉は無かったはずである。罪がない状態の地球には「死」が無かったからだ。紅葉は「死」のプロセスでその色が変化し美しく見えるもの。自然界を見るだけで「美しい」と思える。これが自然科学の第一歩であると思う。物理は表面に見える美しさだけでなくその少し奥を覗くと見えてくる秩序と法則の美しさを探求する学問だと思う。星の美しさに魅了されることがある。しかしほんの少しその奥を掘り起こして見ると惑星の運行に、単純な法則があることに気づく。中々その法則にたどり着けなかった師であるティコ・ブラーエ。その愛弟子であるヨハネス・ケプラーがその法則を見事に探し当てるのである。物理といえばニュートンであるがニュートンが物理以上に時間をかけていた研究があったことを知っている人はそう多くはないだろう。ニュートンは聖書研究に多くの時間を費やしたのである。そしてダニエル書に出てくる2300の夕と朝の預言を正確な計算で解釈したのである。確かに物理は公式を覚えてそれを活用できれば実力に直結する。だから学びやすい。賢い受験生は物理の方が得点し易いと受験科目に選ぶ。しかし私が教えたかった物理は受験の道具としてのそれではない。これを学ぶことで自然界がいかに単純で美しい調和と法則に満たされているのかを体感してもらうのが狙いである。自分の専門は素粒子(理論物理)であるが素粒子の世界にも美しい調和がある。マクロな世界、ミクロな世界共に調和と秩序がありその源が神であると私は信じている。そしてそれを生徒さん方に伝えたく教壇に立っている。受験科目として学ぶ時、もしかすると学ぶことが辛くなるかもしれないが学ぶ本質を理解すると学ぶことが楽しくなるはず。それを物理で体験して欲しいのである。

ダビデについて

旧約聖書にダビデという人が出てくる。また旧約聖書の「詩篇」にはダビデの歌がたくさん出てくる。ダビデ(David デイビッド)とはどのような人なのか。自分が思い描くダビデ像とは。
ダビデはイエスリストが誕生するおよそ1000年前、イエスキリストと同じベツレヘムで生まれる。父親はエッサイ。クリスマスに歌われる讃美歌の歌詞に出てくる「エッサイの根より生い出でたる…」のエッサイである。実はイエスキリストはエッサイ、ダビデの20数代後の子孫になる。小さい頃は羊飼いとして過ごした。羊飼いは放牧する羊の番をしながら野宿することも多く、彼は一人の時間を神と交わり竪琴を弾いて過ごしていた。話しは変わるがイスラエルの国はエジプトでの捕虜生活(奴隷生活?)からモーセとアロンまた次世代のヨシュアによって約束の地カナンに入ることができた。すんなり行けばさほど遠くない距離を彼らは40年間の放浪生活の後たどり着いた。この40年間に、神様を忘れて好き勝手なことをして叱られ、ごめんなさいと謝ってまた好き勝手なことをする。そんなことを繰り返してた。そのため迂回を続け40年もかかってしまった。神様はもともとイスラエルに王は必要ないと仰っていたがイスラエル人が執拗に王を求めるので不承不承サウルを初代の王としてたてた。2代目にこのダビデが就くがそこに至るまでに色々なことがあった。まず伏線としてイスラエルがペリシテ軍との戦いが挙げられる。

<聖書の引用>
 さてペリシテびとは、軍を集めて戦おうとし、ユダに属するソコに集まって、ソコとアゼカの間にあるエペス・ダミムに陣取った。 サウルとイスラエルの人々は集まってエラの谷に陣取り、ペリシテびとに対して戦列をしいた。 ペリシテびとは向こうの山の上に立ち、イスラエルはこちらの山の上に立った。その間に谷があった。 時に、ペリシテびとの陣から、ガテのゴリアテという名の、戦いをいどむ者が出てきた。身のたけは六キュビト半。 頭には青銅のかぶとを頂き、身には、うろことじのよろいを着ていた。そのよろいは青銅で重さ五千シケル。 また足には青銅のすね当を着け、肩には青銅の投げやりを背負っていた。 手に持っているやりの柄は、機の巻棒のようであり、やりの穂の鉄は六百シケルであった。彼の前には、盾を執る者が進んだ。 ゴリアテは立ってイスラエルの戦列に向かって叫んだ、「なにゆえ戦列をつくって出てきたのか。わたしはペリシテびと、おまえたちはサウルの家来ではないか。おまえたちから、ひとりを選んで、わたしのところへ下ってこさせよ。 もしその人が戦ってわたしを殺すことができたら、われわれはおまえたちの家来となる。しかしわたしが勝ってその人を殺したら、おまえたちは、われわれの家来になって仕えなければならない」。 またこのペリシテびとは言った、「わたしは、きょうイスラエルの戦列にいどむ。ひとりを出して、わたしと戦わせよ」。 サウルとイスラエルのすべての人は、ペリシテびとのこの言葉を聞いて驚き、ひじょうに恐れた。(サムエル記上17:1-11)

ペリシテ軍の強者、ゴリアテという大男が出て来て誰か自分を倒せる者はいないかと言っている場面である。ここの出てくるのが一介の羊飼いであるダビデ少年。神様のお力により石投げ器(長尺の革の真ん中に石を置きそれを包むようにして振り回しタイミングよく石を飛ばす装置)でゴリアテの眉間に命中させ一撃で彼を倒す。この戦果がありサウル王はダビデを召しかかえ待遇良く自分の右腕とした。ちなみにサウル王の息子にヨナタンという青年がいるが彼とダビデは大変仲が良くどのような状況でも互いに互いのことを第一に考える間柄になった。ダビデの名声が高まるにつれてサウルはこのダビデに嫉妬するようになりまた自分の王位を狙っていると思い込み何度もダビデを殺そうとする。しかしどの場面でも神様はこのヨナタンを用いてダビデの命を助けるのである。それだけではない。ダビデにサウルを殺す機会が訪れたときも彼を殺さず、更にのちのペリシテとの戦いでサウルとその息子大親友のヨナタンがなくなったときには衣を裂いて泣いた。

これらののちダビデは第二代王として40年に渡りイスラエルを統治するようになる。神に対して常に敬虔で神と共に歩む人生を送って来たダビデだったが一方で権力は彼を徐々に盲目にして行くのであった。人を殺し神様の喜ばれないことを行った。
特に有名なのはバテ・シバ(バト・シェバ)との姦淫。ある日城から下を見るとバテ・シバが行水で裸になっているのを目撃する。彼女にはウリヤという旦那がいる。が、彼は現在戦争で出兵中。しかも彼は軍の責任者でもあった。バテ・シバと関係を持ったが次第に彼女が妊娠することに気づく。これはまずいとダビデはウリヤを戦場から戻し妻とゆっくり過ごすよう促す。しかし責任感の強いウリヤはそれを断る。仕方がないのでこのことが公にならないよう、ウリヤを戦火の最も激しいところに送ってしまう。結局ウリヤは戦死する。

そして次の王となるソロモンが誕生する。イスラエルは第三代王のソロモンの後北イスラエルと南ユダ王国に分裂しそれぞれ王を置くことになる。
ダビデは晩年自分の生涯を振り返りいかに自分が間違ったことを繰り返して来たのか、そしてそのような愚かな自分に神様は何と慈しみ深く愛を注いでくださったかを思い徐々にあの羊飼いだった少年ダビデの頃に戻って行く。
そしてダビデは一つの決心をする。神様のために神殿を建てたい。これがダビデの真心からの願いであった。ダビデはこのことを神様に願い出た。ところが神様からの返答は意外なものだった。

<聖書の引用>
 しかし主はわたしの父ダビデに言われた、『わたしの名のために宮を建てることはあなたの心にあった。あなたの心にこの事のあったのは結構である。 けれどもあなたはその宮を建ててはならない。あなたの身から出るあなたの子がわたしの名のために宮を建てるであろう』と。(列王記上8:18,19)

神様のために真心から贈り物をしたいと申し出たのにそれを断られてしまうのである。そしてソロモンがその神殿を建てる。ダビデはどのような気持ちだっただろうか。折角神様のために何かできることはないかと考え最高のことをしたいと申し出るのにそれを断られてしまう。私だったらヤケを起こすと思う。「神様そうですか。それならいいですよ。神様の思うとおりにしたらいいんですよ。」といじけることだろう。

しかしダビデはそうではなかった。彼はソロモンがまだ王になって力も経験もないからといって事前に神殿に必要な資材を全て集めておくのである。それだけではない。石工や大工なども雇いソロモンの命令に従うよう手配をしていたのである。イスラエルに建てられたこの神殿を「ソロモンの神殿」や「第一神殿」と呼ぶが私の意見としては「ダビデの神殿」といっても良いのではないかと思っている。

神様は強敵ゴリアテを倒すために名も知られぬ人を用いるが、逆にこれはこの人が適任という場面で全く違う人を用いることがある。ダビデの人生がそれを教えてくれる。特に神様から「あなたではない」と言われるときどのような態度をとるか、とれるかは大きな意味を持つような気がする。決して神様はダビデを見捨ててつまはじきにしたのではない。それが神様の長期計画における計画だったのだ。自分が、自分がと自分を主張しないと不利益を被る。しかしキリスト教では自己実現ではなく神様の計画を実現することが要求される。これに従うのは結構難しい。

由布岳遭難事件

教員になってまだ間もない頃(確か2年目か3年目)の出来事。毎年5月になると中学3年生は一般で言う修学旅行に出かける。本校では「修養会」と言う。観光を目的とした旅行ではなく多少観光はするものの聖書を土台とした勉強会が中心となる旅行である。

初日は長崎に入り平和祈念館や26聖人記念館を見て二日目から湯布院入りする。卒業生が営むペンション(と言っても50人は宿泊、研修ができる施設)を拠点として毎日聖書研究やグループディスカッション、レクリエーションや観光を行い夕方からまたキリスト教プログラムが始まる。全行程4泊5日の旅となる。

湯布院入りして2日目のメインプログラムが由布岳登山。1600m弱の比較的登りやすい山である。非常に美しい山で遠くから見ていてもその雄大さと美しさに魅了される。登りやすいと言っても登山なので入念な準備や打ち合わせを繰り返して当日を迎えた。私は毎年修養会の引率で同行し由布岳も何回も登っているからかなり慣れていた。男女でペースが違うため女子が先に登り約1時間遅れで男子が登り始めるという計画を立てていた。私は女子の先頭を任された。女子のしんがりは女性の先生だったが登山直前で足を痛めた生徒がおりその生徒のフォローをするため結局私一人が女子のグループ(生徒21名)を引率して頂上を目指すこととなった。

当時、由布岳は入山口を入るとすぐに直進する道と右に折れる道とふたつあった。予定では直進ルートを通るはずだったが何度も通っている道で少々飽きていたので、本来は絶対にしてはいけないことだがその場になってルート変更をした。右に曲がるルートを選んだ。若干険しい道になるが直進ルートよりも距離が短い。興味のあったルートではあるが初めて通るルートだ。後ろの生徒たちもまさか引率者が行ったことのないルートを選んだとは思いもせずただついてきた。歌を歌ったり色々な話をしながら歩いていたが道が段々と茂みに入っていくのが分かった。若干不安を感じたが近道だからそういうルートなのだろうと思いながら進んでいくと更に大きな岩場。2mぐらいの岩を登らないといけない。「こんなに難しいのかな?」と一抹の不安をおぼえながらも岩の上から生徒たちの手を引っ張り一人一人を登らせた。そしていよいよ道がなくなった。藪をかき分けるようの進むしかなかった。この辺りでやっと登山道を外れている自覚を持った。が、一番いけない教師の例が自分である。
「先生、この道あっているんですか?」という質問に
「大丈夫。何度も来ているから。」と笑顔で嘘をついた。
生徒たちも不安と疲れで限界状態。半べそをかきながら必死にこらえる生徒、跪いて祈る生徒。やっと自分のおかれている状況と自分の全てが間違っていることに気づかされ
遭難‼️  遭難⁉️ 遭難‼️  遭難⁉️ 遭難‼️  遭難⁉️ 遭難‼️  遭難⁉️
「もしかしたら間違えたかもしれない」とやっと生徒に打ち明けることができた。その時点で登山開始から2時間ぐらい経っていた。現代のように携帯電話がある時代ではない。手元にあるのはCB無線機一台。打ち合わせていたチャンネルで男子グループに呼びかけるも応答はない。後でわかったことだがその頃山の肩の下に入っていたようで電波の状態も非常に悪いところにいたようだ。前にも進めず戻ることもできない。明らかに遭難している。唯一ありがたかったのはまだ日中で気温も暖かかったこと。生徒たちは日頃の信仰教育の成果かみんなで円陣を組み一人一人順番に祈っている。本当に申し訳ないことをしてしまった。自分の命と引き換えにこの21名を助けてほしい、と自分も必死に祈った。祈りが終わり生徒たちに
「ごめんね。申し訳ない。」と謝罪すると
「大丈夫だよ。先生のせいじゃないし。神様が必ず助けてくれるからそれを信じて讃美歌を歌おう。」と言ってくれた。
「いや先生のせいだしそれ以外の理由はないよ。」と心の中で思った。登山から3時間ぐらい経った。讃美歌を歌う彼女たちの声が届いたのか少し上の方から声が聞こえた。
「おーぃ。どこにいる?声を出し続けて❗️」男子たちの声だ。助かった、と思った。生徒たちも同じことを考えたようで残ってる力を振り絞って交互に声を出し続けた。勇敢な男子生徒たちが女子生徒の声を頼りに降りて来てくれた。私たちは頂上に比較的近いところにいたようだ。男子生徒が藪をかき分け道無きところに道を作って近づいて来てくれた。

結局私たちはそのまま助けられ、一度頂上まで上がり正規のルートで下山した。後発の男子が、途中で女子と会うことがなかったのに頂上にもいなかったのでどこかで迷っているとすぐに理解してくれていたようである。本当にありがたい。助かった。助けられた。その後同行していた教頭先生に呼び出され叱られたことは言うまでもないが、叱られて済んだからよかった。これで生徒に何かあったら…。考えただけでも恐ろしい。この日自分は教師として、集団を導くものとして、そして人としてやってはいけないことの全てをしてしまった。いまでもこの学年の生徒に会うとこの時の話題が出てくる。恥ずかしいけど笑い話にできたからよかった。自分に教師としての自覚と責任感、適性が全くないことを思い知らされる出来事であった。

 

若い人の力

数年で還暦を迎えるという年齢になってブログを始めることにかなり抵抗があった。何かを残したいのなら自費で本を出版した方が良いのではないか、とかなり悩んだ。難しさがハードルの高さになっていたがそれ以上にブログセンスというか時代の流れと隔絶されたようなものがあると滑稽な気がして手が出せなかった。水族館にフナとメダカのコーナーがあるぐらい滑稽に思えて恥ずかしかった。

しかし背中を押し助けてくれている人たちの存在もある。一人は卒業生でセブ島で活躍する青年。
プロフィールにも色々なことが書いてあるので是非見ていただきたい。特に留学などのアドバイスはピカイチ。お金のないところから這い上がって現在のポジションを築いたsasagu君である。
詳細はこちら→https://sasacebu.com/profile

高等学校で10年ほど「写真部」の顧問をしたことがあった。写真もカメラも好きということが目に止まったのか顧問にしていただいた。多くの学校に「写真部」は存在すると思うが本校のそれは他と少し違う。そもそもクラブ活動ではないのだ。情操教育、知識と技術の習得を目的とした「実業体験学習」というものを取り入れているがその中の一つにこの写真部が存在する。基本的に生徒の希望で配置が決まるが写真部は人気部門の一つ。各学年男女1名ずつ。しかも募集は2,3年のみ。つまり4名しか採用されない。定員に対して応募数が多いときは顧問ではなく別のアレンジをしてくれる部門が決めてくれる。

毎年ユニークなメンバーが集まる。仕事内容はまず基本的なカメラの設定方法、被写体と画角の基本、構図の基本、ライティングなどを一通り教えその後は撮影と編集を繰り返す。特に大きな仕事は卒業アルバムの作成。一般の学校だと修学旅行や遠足などに専属のカメラマンが同行することも多いが本校の場合は写真部員がそれを担当する。結構ハードな仕事である。卒業アルバムのどこに掲載するかをイメージしながら撮影して行く。

ある年の3年生メンバーがyouとmarch。毎年面白いメンバーが集まるがこの年もそうだった。仕事も実直にこなすがとにかくふざけることが大好き。ご当地グルメと称して夏休み中に行ったところのお土産をみんなで持ち寄る企画などもこの年メンバーの発案でやって見た。体育祭は写真部大忙しの行事だが全員参加の競技はそれこそ大変。全員リレーはバトンを渡したらすぐにカメラを受け取る。他の人との何倍も走らないと良い写真は撮れない。最後の競技の綱引きも全員参加の競技だがこのプログラムだけは被写体が多いので写真部は参加せず撮影に専念する。この時、メンバーから「小芝居をしましょう」との提案があり、スターターの雷管の音に合わせて一人が

「なんじゃ、こりゃー」(ジーパン刑事・松田優作風に)
 と言って倒れる。そこに他のメンバーが

「おい、大丈夫か」
「しっかりしろ」
と駆け寄る。それを私が動画で押さえる。
周りでみんなが必死に綱引きをしている最中こんな馬鹿なことをやっているからアナウンスで
「写真部のみなさん、真面目にやってください」と放送されてしまう。写真部の話をしたいわけではない。長くなったがブログを始めるに当たり背中を押してくれたのがweb designerの小悪魔march。彼女も色々と応援してくれている。そして何より卒業生ではないが実務的な助けをしてくれるのが小悪魔marchの彼氏。彼は本職。本当に助けられている。

若い人と関わることで色々なことを学ぶことができ、また気持ちも前向きになる。本当にありがたい話だ。若い人を見て、また色々と助けてもらうことで自分も更にチャレンジしてみたくなった。というわけで先日この歳で自動二輪の教習を申し込んできた。バイクに興味があるわけではないが一度乗ってみたいバイクがある。一つはVespa。普通自動車免許で乗れるものもあるけど自分が乗りたいのは125cc。もう一つがハンターカブ。この免許が取れたら次は趣味に活かせる二級小型船舶免許。自分のことはどうでも良いが若い方々に助けてもらえることは本当にありがたいし勇気付けられる。

虐待 abuse


 現在訳あって一人暮らしをしている。誰とも話すことなく一日が過ぎて行く。日課は聖書の勉強と祈り、そしてジムで汗をかくこと。冷蔵庫が無いので毎日翌日の食材をだけを買って帰る。今日もそうだった。

23時を回ってはいたがスーパーの店内にはまだ若干のお客さんがいた。はじめは気にしていなかったけどずっと聞こえる子どもの泣き声。段々気になり出し買い物を中断して泣き声のする方へ近づいてみた。食品コーナーからかなり離れた化粧品コーナーで母親と思しき女性と小学3年生ぐらいの男の子がいた。男の子は何かを買って欲しいわけでは無さそうだがお母さんと一緒に帰りたく無いようで「帰りたく無い」と泣き叫んでいた。買い物カートには男の子のものと思われるランドセルが乗せられていた。そもそも休前日でも無いのに小学生がこの時間にスーパーにいること自体少し見慣れない光景だしランドセルがあると言う事はこの子は下校してからこの時間まで家に帰っていない事になる。急に胸騒ぎがして女性を時々睨みながらこの二人から離れないようにしていた。数名の買い物客も何か異様な雰囲気を感じたのか付かず離れずの距離を保っていたが私はもっと露骨に近づいた。余程男の子に声をかけようとしたがこの女性のなんとも言えない不自然さに圧倒されただついて行くことしかできなかった。私の執拗な尾行を振り切るかのように二人は店外に出て行ってしまった。

 こういう時どういう対応をすれば良かったのだろうと今も悩んでいる。男の子を見てまず思ったのが「虐待」だった。この子がそういう被害を受けていないことをただただ祈るばかりである。今まで山奥の田舎に住んでおり会う人も顔見知りばかりなのでそのような場面を見た事は一度もなかったが街中で一人暮らしをするようになってから、お母さんから思いっきり叩かれている子どもを何度も見かけた。先週も歩道を歩いている時に向こうから小学1年生ぐらいの男の子とお母さんらしい女性が仲良さそうに手を繋いでこちらに向かっていた。ところが私の20mぐらい手前でこのお母さんが急に男の子を往復ビンタを数回繰り返したのだ。思わずその親子に走り寄ってしまった。男の子は慣れているのか泣きもせずただ耐えていた。胸が締め付けられこちらが泣いてしまった。

 私には子どもが泣いたり悲しんだりするのを堪えることができないのだ。全寮制でお子様を預かっていると色々な背景がある事に気づく。ネグレクトを受けている生徒は結構いる。暴力的な虐待を受けている子も若干いるかもしれない。

 

思い出されるのがK君である。

彼のお母様は彼が小さい頃に病死されその後お父さんは再婚した。女のお子さんがいる女性と再婚したのだ。K君とこの再婚相手のお子さんがひとつ違いということもあり、特にこのお母さんがK君との距離を気にした。はじめはそれほどでもなかったようだが彼が中学に入学してからは食事はお父さん、お母さんそしてこの女の子の三人でとりK君は自室の前に食事が置かれるという対応を受けた。高校生になった彼と私は出会ったがそのような家庭環境を話してくれた。基本的に自室から出る事は禁止で、実のお父さんもお母さんに対して何も言えない関係だったらしい。

 彼はいつも「僕がいると家庭が壊れてお父さんが苦しむんです。早く高校を卒業して新聞配達をして新聞奨学生になりたいんです。」と言っていた。何で子どもが「自分は不要」だなんて思わなくちゃいけないのか、私には理解できない。いつだってそう。いつも子どもが泣かされる。本当に悲しいし涙が出てくる。「そんな事ないんだよ。君が生まれた時、君の家庭がどれだけ明るくなったか。君はみんなから望まれて生まれてきたんだよ。」って全ての子どもに言ってあげたい。育児ノイローゼとか精神疾患とか色々あるのも現実。お母さんだって必死、それも理解しているつもり。でもやはり子どもを苦しめないで欲しい。本当にお願いしたい。虐待を自覚しているなら自分を保護して欲しいと助けを求めて欲しい。もう子どもが苦しむのは耐えられない。

自分の無力さ

 教員生活を振り返ってみると一番長くやっていた仕事がホームルーム担任、しかも高校3年生。次に多いのが中学3年生の担任。およそ30年ぐらい前の話。これまでの教師生活で自分のホームルームから退学者を出したのは一度だけである。家庭の事情による自主退学、生徒指導上の問題で退学になること問わず30余年でただ一人の退学者しか出していない。しかしこの退学者のことが未だに気になっており祈りの課題となっている。

 彼女はOさん。問題行動も確かに多いが思ったことを直ぐに言ったりやったりすることで友達関係がギクシャクすることもある反面リーダーシップをとって集団を導くこともできる。優しく思いやり深いところも彼女の素晴らしいところである。特に後輩の面倒をよく見るので人望も厚く信頼されていた。何回か生徒指導上の問題を起こしていた彼女は私が担任する前から「次は大ですよ。今度問題を起こしたら退学です。」と釘を刺されていた。

 彼女は大きな街の有名な歓楽街でお店を営む家庭に育った。住宅兼店舗でご両親は夕方から二人でお店に出る。夕食はお金を渡されその歓楽街の適当なお店(と言ってもほとんどが呑み屋さん)でとり夜の街を遊び歩いて飽きると家に帰って寝るという生活を小学生の頃から続けていた。そのようなOさんに、コンビニや携帯なし、テレビなし、外出はできず周りは山だけ、起床6時消灯21時30分

<font=red>テレビ❌ 携帯❌ 外出❌ 起床6時 消灯21時30分</font=red>

の生活は少年院のように感じたかもしれない。だから本人の感覚では『ちょっとしたいたずら」が学校としては進退を問われるような重大な問題になってしまう。彼女と話すと常に「ここの生活が厳しいから嫌なのではない。私は誰からも期待されていないし誰からも関心を持たれていない。」という。

 お忙しいご両親なのでOさんゆっくり話す時間が取れないのかもしれない。で、今回とても大きな問題を起こしたのである。因みに私はというとそれまで副担任だったのに初めて一人で担任をさせてもらえるチャンスが与えられ気合いも入っていた。また不良品の中の不良品を代表するような自分なので彼女の言っていることが心に刺さって来る気がした。しかも今回後輩を巻き込んで二人でやったことでもあった。

 Oさん曰く、「先生絶対に言わないでね。実は彼女(後輩)が興味を持ってやっていたことなんだ。私は、そんなことしたらダメって注意をしたんだけど止められなくて。そして二度目も彼女から誘ってきた。一緒にやりましょうって。絶対ダメと止めたけど彼女(後輩)は絶対にやると言って聞かない。だから仕方なく自分は見つからないように見張り役をやっていた。そうしたら先生(私ではない別の先生)がきてその様子を見つけた。咄嗟に彼女を別の部屋に押し込んで証拠となるブツ(物)を自分が持って先生に捕まったの。でも彼女は元々私のせいで問題を起こすようになったから絶対に彼女を守りたい。だから今回のことは絶対に言わないで内緒にして。私だけ指導を受けるように黙っていてね。」という話だった。

 なるほど、と思って聞いていたが
「なんでそこまでして後輩をかばうの?そもそも君の行為は後輩をかばうことになっているのかな?」
 というと
「自分が初めて必要とされたんだよね。彼女は本気で自分を頼り必要としてくれた。今までそんな経験なかったから嬉しくて。」
「でも真実が闇に包まれると君はおそらく退学になるよ」
「それでも大丈夫。人から必要とされたという自信で生きていける気がするから。」

 正直返す言葉がなかった。あれから30年経った今の私なら全く別の対応をしていたと思うが知識も経験もノウハウも何もない自分にはただただ彼女の寂しさとそれを潤す人からの信頼になんとも切ない気持ちになって涙を流すことしかできなかった。彼女の指導を決める会議が行われた。私から事情説明をして、現在のOさんの反省などの様子などを話した。会議初日の雰囲気は9割の先生が退学を提案する感じだった。このまま議論を進めても良いことはないと翌日に会議を伸ばしてもらうことをお願いをした。結局その日はそのまま終了。会議直後信頼している居眠り物理のA先生に彼女から聞いた全てを話し、どうしたら良いかを相談した。色々とアドバイスしてくださった。

 そして翌日の会議。彼女の退学に反対する先生が自分を含めて3人になった。しかし話しは平行線でもう一日結論を先延ばしにすることとなった。

 会議3日目。新米の自分が勇気を振り絞って先輩の先生方と渡り合って発言した。怖かったけどOさんをなんとか学校に残したい一心で精一杯の反抗をした。そして先生方の急所とも言える部分に食い込んだ見た。

「先生方は退学と仰るが、彼女は家に戻ると信仰教育を受けられる環境にないのです。寮が無理なら我が家で預かります。我が家から登校させます。彼女をイエスキリストに導くのか否かが関わって来るとても大きな問題です。私が全ての責任を追うのでどうか退学以外の指導を考えて欲しい。」


と食い下がった。そこで発言したのがチャプレン。チャプレンというのは学校や病院、軍隊などにつく牧師のこと。このチャプレンが


「大丈夫。Oさんのことは僕が面倒を見ます。彼女が退学になっても週に一度は家庭訪問をして聖書研究を施し学校にいるのと同じくらいの濃度で信仰教育をするから安心してください。」


この発言で会議は大きく傾いた。結局Oさんは退学となってしまった。何度も泣いた。そしてOさんに詫びた。

「先生、ありがとう。私は大丈夫だよ」

 という言葉が余計に辛かった。本来退学を伝えるのは校長の仕事であるが、私が本人を連れて保護者の元に送り届け一部始終を話して引き渡した。本当に辛い経験であった。この後Oさんには何度も電話で連絡をし困っていることがないか、力になれることはないかを尋ね近況を話してもらっていた。驚いたのはあのチャプレン。同僚だから悪くは言いたくないが家庭訪問など一度もせず電話すらしていないとのこと。私は自分の教団の指導的な立場の人には問題を感じる人も多くいるけど牧師に対しては非常に信頼している。それは今でも変わらないが、このチャプレンを見てこういう牧師もいるのだと失望した。

 因みに平成最後の年に突然彼女が御詩人と一緒に学校を訪問してくださったようだ。私を尋ねてきてくださったようだが生憎その日は出張で不在。対応した教員が出張で不在であることを告げ連絡先を聞いておいてくれた。その後すぐに彼女に電話をしていると相変わらずあの時の口調のまま。少し酒灼けした声にはなっていたがあのままだった。

「先生に会いたかったんだけど。でもまた会いに行くね。」と言いながら

「そうだ、一つ相談があるんだけど…」
 とお子さんのことを話し始めた。公立中学校の2年生だけど少しやんちゃな女の子さんのようで学校ではよく注意をされるとのこと。彼女が何度も

「大したことじゃなくてちょっとしたことが積み重なって…」

 というのでそのちょっとしたことが何かを聞いたら喫煙と男子に対する暴力とのこと。相談というのは今の学校にいずらくなったので私のいる学校に転校できないか?とのこと。

「そうか」と言いながらも
「うちは厳しいからね…」と言ったら
「そうだよね」と笑っていた。

 イエスキリストという人はこういう方を受け入れたのではないのか、教員を続けながらいつも考えさせられることである。

思い出すと笑ってしまう出来事

 大学生に入学するとすぐに教会の牧師先生から青年会の責任者になって欲しいと言われた。青年会長というものだ。どこの教会にも性別や世代などでグループがあるが私の行っている教会では30歳までを青年会というグループに分ける。当時教会の青年会メンバーは季節参加者も含めると30名ぐらいいた。レギュラーはその半分ぐらい。頼まれたのでその青年会長という役を引き受けた。何をして良いのか分からないのでとりあえず礼拝以外の日(私の行っている教会は土曜日が安息日で礼拝日)にも集まって聖書研究や日頃の出来事を分かち合うプログラムを持った。また修養会と称して夏はキャンプ、春は伊豆大島に渡って聖書の勉強会をした。

 同じ教団の教会が関東だけでも20ぐらいありその殆どに青年会が組織されていた。一つの教会だけでなく関東の教会に集う青年が一堂に会す組織をつくったらより充実したプログラムを持つ事はできるのではないかという話になり、先輩である横浜の教会の青年会長がこの組織のリーダーになった。そして何も分からないまま私が副リーダーになってしまった。活動も多岐にわたっていた。教会に来やすいようにとスポーツ交流会や音楽会、夏に行っていた修養会は100名を超える参加者で賑わった。冬はスキー修養会、クリスマスのキャロリングで表参道をねり歩き、本職のシェフを招いてイヤーエンドパーティーなども行った。一つの教会の活動とこの関東全体の青年会活動共に充実していた。

 スポーツ交流会の一環としてテニストーナメントを提案したのはリーダーの山口さん(男性、実名)。どうせやるなら本格的にやりたいということで色々な部門に分けてそれぞれの優勝と準優勝を表彰する事になった。この山口さん、思いつくのはいいけれど実働部隊は常に私を指名する。会場となるコートは教会が所有しているので問題ないがその他のものは全て私が調達する事になった。差し当たってトロフィーと楯を準備しないと銘板を作るのに時間がかかる。今みたいにネットで検索できる時代ではない。自分の勘ピューターでトロフィーを扱っているお店を必死に思い出した。そう言えば小学生の頃電子部品を買いに神田の方に行っていた御茶ノ水に向かう坂の途中にトロフィーを扱う店があったことを思い出した。とりあえずお茶の水に行ってみた。

 昔のままの佇まいでその店はあった。早速幾つかのトロフィーと楯、それにつけてもらう銘板を注文した。こちらが学生だと分かったためか邪険に扱われた。私も少々気分を害したが個人の客ではなく教会のメンバーとして来ているのでぞんざいな態度も取れない。出来るだけ丁寧に受け答えをして注文完了。一週間ほどで仕上がるので取りに来るよう言われた。正直な気持ちを言うと邪険に扱われ心も折れかかっていたので受け取りに行くのは山口さんにお願いできないかと考えた。

 電話で注文が完了したことと一週間後に出来上がること、そしてそれを山口さんが取りに行くことを伝えた。「何で東京にいる君が行かないで横浜の僕が行くのか」と叱られた。付け足しとして、注文した楯の一つは今回の企画のものではなく山口さんが個人的に作ったものらしい。で、領収書を分けるようにと面倒な指示まで頂いた。仕方がないので一週間後、引き取りに行った。対応したのはまたあのおじさんだ。憂鬱な気持ちになった。

 商品を受け取り確認を済ませて

「領収書をお願いできますか?」
  と言うと想定内の返答。

「え、領収書いるの?ったく」
 すみませんと恐縮しながらお願いした。

「で、宛名は?上でいいの?」。
言い忘れたが関東の教会が集まった組織を「関東連合青年会」という。なんとも仰々しい名称である。

「すみません。宛名は一枚を関東連合青年会に、そしてもう一枚を関東連合青年会山口宛でお願いします」

と言った途端におじさんの表情が明らかに変わった。

「あ、間違えた。これ値引き前の値段だ。お客さん、割引しておきますね。」

「それと山口の後に組はつけなくていいですか?」

明らかに任侠的な集団と勘違いしている。それからお店を出るまで終始媚びるような笑顔で対応してくれた。キリスト教会の組織で関東連合青年会、やはりそぐわない気がする。35年以上前の話だが今でも思い出すと笑ってしまう。