転落事故

屋根の補修

私は学校の敷地内にある学校所有の住宅に賃貸で住んでいる。築40年超の古い住宅だがそれほど不満もない。冬になると隙間風が入ること、雨漏りがする程度の住宅なのでさほど気にならない。雨漏りに関しては修繕を所有者である学校に依頼したが何故か修繕はしないとのこと。仕方がないので自分で修繕することにした。雨漏りの位置もわかっているし原因も予想できた。外壁を少し削りたいらいにして屋根をめくって外壁から屋根を覆うシートを被せコーキングすればなおせると思った。早速屋根に上り作業を始めた。高所恐怖症なので足がすくんだ。また素人仕事なので安全対策も不十分というか皆無で行っていた。作業は結構順調に進んでいたが道具をひとつ屋根にあげていないことに気づいた。面倒だと思いながらも一度下に降りて道具を取りに行こうとした。そして下に降りるべくはじごにつかまってからのことを全く覚えていない。いまだに思い出せない。気づいた時には近所の方が多く見ていて視界の奥の方に救急車が止まっていた。屋根の上で作業をしていたはずなのに何故か地面に横たわっている。「昼寝をしちゃったのかな?」などと呑気なことを思っていると救急隊員の方が「意識ありますか?この指は何本に見えますか?」などと問いかけていた。正確に答えたつもりだったが何故かひどい頭痛がする。すぐに近くにいた妻に「何かあったの?」と聞くと「屋根から落ちたんだよ」と教えてくれた。近所の人が集まっているのは自分を見ていたのか、とその時気づいた。「意識が戻れば少し安心です。とりあえずヘリは戻しますね。救急車で搬送します。」と手際よく教えてくださった。一度には理解できなかった。汚い話で申し訳ないが救急車の中で3回嘔吐した。そして先ほどの会話に出てきた「ヘリ」という言葉が急に思い出された。救急隊員さんに「ヘリが来ていたんですか?」と聞くと「あなたを市内の大学病院に搬送する必要があると判断し近くのグラウンドにヘリが待機していました。救急車でそこまで搬送しそのあとはヘリで大学病院に行く予定でした。」とのこと。テレビでは見たことがあるが自分がヘリコプターで搬送されそうになっていたなんてにわかには信じられなかった。市内の大学病院にはかなわないがそれでも一通り設備が整った病院に着き早速検査が始まった。しばらく寝ていたらかなり楽になり座ることもできるようになった。検査結果が出た。「一通りの検査をしましたが今のところ、頭部に異常は見つかりませんでした。しかし30分以上気を失う衝撃を受けていますので今後出血してくることがありますから調子が悪ければすぐに来てください。」と言われた。その日はそのまま帰ることができた。

インフルエンザ

そのような転落事故もすっかり忘れ普段の生活をしていた頃、季節は年があけて1月中旬。学校ではインフルエンザが流行していた。集団生活のため多くの生徒が予防接種を受けているが1月ともなるとワクチンの効力も薄れ、予防接種を受けていても次々感染していった。その対応をしてくれていたスタッフも感染し、当時教頭だった自分がインフルエンザの疑いのある生徒を車に乗せて近くの病院に連れて行く役を担った。何人もの生徒を昼夜問わず、依頼があればいつでも連れていった。実は小学生の時に、もしかしたら感染したことがあるかもしれないが、自分にはインフルエンザに感染した記憶がない。だからどれだけ陽性の生徒と接触しても感染しないという根拠のない自信があった。が、1週間ほどすぎた頃。急にだるくなり手が重くて上がらなくなった。関節が痛み出したのでもしかしたら、と思い検温してみると39度を超えていた。感染した。すぐに病院に行き検査をしたが当然陽性。A型だった。妻にそのことを伝え自主隔離。職場にも伝え解熱してから尚5日欠勤する旨を伝えた。感染しない自信があったのに。とりあえず処方された薬をのんで休んだ。翌日には熱も37度台まで下がった。薬の力、恐るべし。熱は下がったが頭痛がひどい。元々頭痛持ちで3日に2日は頭痛なので最初は気にしていなかったが痛みが尋常ではない。耐えられない痛さだった。少し不安になりインフル経験者の教員に電話して聞いてみたところ「僕も頭痛がひどかったです。」とのことだったのでインフルからくる頭痛と理解した。結局6日後には通常通り出勤できるようになりまた元の日常に戻った。

何か変

日常に戻ったのだがなんとなく違和感があった。まずは以前よりもひどい頭痛。また授業中に時々ろれつが回らなくなることがあった。さらに何度か躓くことがあり、最も変だと思ったのがタイプミス。左手でよく使うEやAのキーを押し間違える。変だな、何か変だなという違和感がありながらも年度末近く、また入学試験の時期でもあったのでそれらに忙殺された。一向におさまる気配のない頭痛に耐えられなくなり入学試験が終わった直後に通院した。数ヶ月前に転落事故でお世話になった脳神経外科の先生のところに。

即手術です!

この先生はとても穏やかでお話しが上手、また聞き上手でもあり好感が持てた。「すぐに検査をしてみましょう」と促されCT検査を受けた。結果を聞くために診察室に入ると、
「今日はここまでどのようにしてこられましたか?」
『自家用車です」
『自分で運転して来ましたか?」
「そうです」
「今日すぐに手術をすることになりますのでしばらく家には帰れません」
と言われた。耳を疑った。「慢性硬膜下血腫です」と言われた。自分の拙い知識を辿ってみると、確か急性硬膜下血腫はすぐに命の危険があるものだと医療ドラマで言っていた気がした。それの慢性版か。実はこの時、我が家は下の子が長期入院をしているため妻がそれに付き添い、上の子を私が見ている状態だった。だから急に手術、入院と言われても下校して帰ってくる子どもを見てくれる人がいないのである。事情を話してなんとか今日は見逃して欲しいとお願いした。先生はかなり困っておられた。「この状況だと1ヶ月前にピークがきているんです。これが破裂したら大変なことになるんです。今なら簡単な手術でなおせます。」と仰った。CTの画像を見せてくださった。右の脳が出血のため完全に潰されていることを説明してくださった。マジックで出血がどこまで広がっているかを教えてくださった。本当にまずい状況だと言いながらもこちらの事情を考慮してくださり、先生個人の携帯番号を教えてくださりその日は帰れることになった。しかしあけた月曜日には手術をするとのことだった。遠くの病院で、下の子の看病をしている妻にこのことを伝えた。結局色々なやりくりをして翌日土曜日に入院することになった。病院なら状況が急変しても安心とのこと。そして予定通り月曜日に手術をした。全身麻酔かと思ったら局所麻酔。意識はありドリルで頭蓋骨を削るのが分かった。いろいろな処置をしてくださり頭からはドレインチューブが飛び出ている。出血した血液を抜くためだ。グロテスクな写真を掲載して申し訳ないが術後少し落ち着いた頃の写真が冒頭の写真だ。こうして私の慢性硬膜下血腫の手術ならびに治療は終わり日常に戻ることができた。屋根から転落して頚椎を損傷し体が動かなくなる事故をいくつも知っている。そういうことから考えると自分がこの程度で済んだのは奇跡だったのかもしれない。DIYは今でも好きだけど屋根には上らないとこの時誓った。また自分の思い上がった、あるいは軽率な行為がいかに多くの人を巻き込み迷惑をかけるのかもこの時身をもって経験した。ちなみにこの病院の先生、聖書の興味をもっていらっしゃるらしく、私のベッドサイドに聖書があるのを見つけて毎日のように聖書について教えて欲しいと言われていた。いろいろなことを考えさせられる経験だった。

友達のいない学校生活

駆け込み入学

高等学校の教頭をしているときのこと。3月の後半に電話があった。この時期にかかってくる電話の多くは駆け込み入学の問い合わせ。「後期入試の日程を教えてください」「まだ入試受けられますか」などである。基本的に本校は一回だけの入学試験で終わってしまう。今回かけてこられたのは沖縄県のある女子生徒。普通は親御さんが問い合わせてくるがこの電話は本人からだった。何か特別な事情がありそうだったので話を聞いてみた。県内では比較的有名な進学校に通っていた彼女は2年生の後半から色々なことを考えるようになる、なぜ勉強するのかその意味を見失ってしまった。そして徐々に不登校気味になり毎朝家は出るものの近所の図書館で本を読んだり自習をして過ごしてきたらしい。そのまま勉強していれば県内でも上位の高校に進学できる筈だったが3年になってからは殆ど学校にも行かなくなったという。「このままではいけない」と自覚したのは年が明けてからだった。そのまま浪人することも考えたそうだが自分を変えるためにはまず沖縄を出る必要があると思い調べていく中で全寮制の本校を探しあてたらしい。「環境が変わっても変われないかもしれないよ」「本校はキリスト教主義の徹底した教育プログラムを行っているからかなり厳しいよ」「新入生の80%以上が系列の中学校出身者だから高校からの入学者はかなり苦労するよ」などとかなり意地悪なことを言ってみた。私の立場では本来このような申し出を断らなくてはいけないからだ。しかし彼女も食い下がってきた。本校が徹底したキリスト教主義の学校であることを調べ、沖縄にある系列中学に見学にも行ったそうだ。しかもひとりで。少し心が動いた。子どもは窮状を親に訴え親が奔走するのが一般的な光景だ。しかし彼女は全て一人で考え親の存在が見えてこない。「もう一度明日ゆっくり話しをしよう」とその日は電話を切った。この件をどのように抱えたら良いのか1日悩んだ。そして翌日。彼女と電話で話した。同じような内容だったが自分がなぜ本校に興味を持ったのかを話してくれた。異例中の異例ではあるがこのことを教師会に提出し教員の意見を聞かせてもらうことにした。教師会では色々な意見が出されたが多くの先生が、自分で門を叩いてきた彼女に普通ではない何かを感じたようで結局「二次募集試験」ということで入試を受けさせても良いという許可が出た。早速試験の手配をして受験してもらった。成績は進学校に通っているだけのことはあって問題なかった。面接試験も評価は高かったようで結局合格となった。この時期にひとり増えたり減ったりすると教務課と事務課はとても苦労する。名簿を作り直し全ての書類を作り直さなければならない。ホームルームを決め寮の部屋もアレンジしなくてはならない。大変だけど教員、スタッフ一同気落ちよく彼女を迎い入れるために頑張ってくれた。これが彼女rieの駆け込み入学のあらましである。

不登校rie

入学式前、いよいよ新入生が緊張した面持ちで学校にやってきた。その中に笑顔いっぱいのrieもいた。最初は系列校からきた生徒がグループになりその輪になかなか入れない系列外からの進学者がポツンとしてしまう。毎年の光景だ。でもこれも2,3日でかなり変化してくる。「辛いのは今だけだから頑張れよ、rie」と心の中で思いながら彼女を見ると、なんと彼女は系列校出身者の輪の中心にいた。そして何やらみんなに話しており周りもその話に聞き入って時々歓声をあげていた。「最初から頑張っているな」とその光景を見守った。入学式も終わりオリエンテーション、実力試験などもひと段落した。学期が始まって10日ぐらい経った頃。寮からの報告でrieが体調不良で欠席するとのこと。春といっても沖縄と本校では気温が10度ぐらい違う。風邪でもひいたのかな、と思った。翌日もrieは欠席した。そしてその翌日も。流石に気になり女子寮の舎監に様子を聞いた。「本人は体調不良と言っているが精神的なものかもしれない」とのこと。高校生でも、また系列校から来た寮生活に慣れている子でもホームシックになることはある。rieもホームシックなのかもしれないと思いながらも少し気になったので寮に出向き少し話してみることにした。寮の玄関に談話室がありそこまでは男性教員も入ることができる。談話室で待っているとrieがやって来た。
「どうした?体調が悪いの?病院では特に異常はないって言われたらしいけど何か自分にできることがあれば言ってごらん。」
と促した。俯いて黙っているrie。
「気持ちを上手に説明できなくてもいいよ。思ったこと、思いついたことを何でも話してごらん」
というと少しずつ重い口を開き始めた。
「rieには友達がいない」
入学式あたりではあれほどみんなと仲良くやっていたのに。
「なんで友達がいないと思ったの?」
「自分がバカだったから」
「バカな人はいないと思うけど何かあったの?」
「高校では中学校のような失敗をしないよう、自分を変えたくてなるべくみんなと明るく喋るようにしていたの。この学校の生徒って純粋な人ばかりだからなんでも信じちゃって。面白さもあったし人気もでるかなと思って中学時代年齢を偽ってキャバクラで働いていたって言ったら本気にして驚いていた」
「本当にそんなバイトしていたの?」
「するわけないですよ。ただみんなからチヤホヤされるのって初めてだったから嬉しくて嘘ばかりついていたら段々友達が離れて行っちゃった」
自業自得かもしれないけど、本人なりの知恵でやったこと。今までの自分を払拭して違うイメージで頑張ろうとしたところは素晴らしいと思う。
「これからどうしようと思っている?」と聞くと
「やっぱりこの学校は合わなかったのかもしれない。沖縄に帰ろうかな?」
「辛くてどうしようもなければその選択もあり得るけど今はそうすべきではないと思うよ」
そしてどうして友達が必要なのかを聞いてみた。
「だって友達がいないといつもひとりだもん。食事にだって一人じゃ行けないし教室でもひとりぼっち」
「なんだ、その程度の友達か。そんな友達なら今すぐ僕が君の友達になるよ」
自分としてはもっと友達の意味を考えさせたかったのだがrieは意外な反応をした。
「本当?先生が友達になってくれるの?じゃあ食堂にも一緒に行ってくれるの?」
話が少し本筋から離れた気がしたが仕方ない。
それから彼女は毎日登校するようになった。登校と言っても寮から学校の昇降口までは徒歩1分。食堂までも徒歩1分。それでも不登校になるのだ。学校までの物理的距離ではない。精神的距離が不登校にさせる。何れにしてもrieは毎日午前の授業が終わると教頭室にやってきて食事に行こうと誘う。そして一緒に食堂に行き2人で食事をとる。周りの生徒も怪訝な顔でrieと私をみていた。そして食事が終わると毎日rieと話しをする。
「先生、どうやったら友達ってできるの?」
「朝、教室に入ったらみんなに挨拶してごらん。挨拶を返してくれなくても笑顔でね。休み時間にひとりぼっちになってもずっと笑顔でいてごらん。明日から早速やってごらん」
そんなやりとりをしながら毎日昼食はrieと食堂に行っていたが1週間ぐらい経った頃だろうか、ある日ふたりの女子生徒が
「先生たちいつもふたりでご飯てべているけど、今日は私たちも仲間に入っていい?」
「もちろん大歓迎ですよ」
「あ、紹介します。こちら沖縄からきたrieさん」
「知ってますよ!!」と大爆笑。
その日からrieと私の昼食には誰かが加わるようになった。そしてそれから3週間後、rieは教頭室に迎えに来なかった。忘れたのか?少し気になって食堂に行ってみるとrieが同級生と楽しそうに食事をしていた。

rieの卒業

その後rieは自分らしさを取り戻し明るく前向きな生活ができるようになった。廊下から響いてくる一際大きな笑い声、rieである。一時は沖縄に帰ると悩んでいた彼女だが無事に卒業することになった。卒業前にまた教頭室に来た。「先生にこれあげる。私からのラブレターだよ。卒業式が終わって私がいなくなってから読んでね」と手紙を渡された。果たして卒業式も終わりrieもいなくなったので約束どおり手紙の封を切ってみた。「先生今まで本当にありがとう。先生はこの学校に来て一番最初にできた友達でした…」手紙には自分の3年間を振り返りどれだけ多くの人に支えられてきたか、そして中学時代にあれほど欲しかった真の友を得て卒業できることへの感謝が綴られていた。他の学校と感覚が違うかもしれないが全寮制の学校ではずっと生徒と一緒にいるので家族のようなイメージを持ってしまうことがある。だから本校の卒業式は他の学校より少し涙が多いのかもしれない。そして教員は家にいた我が子を送り出すような気持ちで彼らと別れる。辛い。辛いし彼らが心配。しかし手放さなくてはならない。だから神に祈る。どうか彼らの前途を祝福し、彼らがどのような状況の時にも片時も離れず神様が一人一人を守ってください、と。rieを沖縄からこの学校まで導き紆余曲折ある中でも彼女を守り続けたその同じ御手で彼女を守り続けてください、と手紙を読んだ後にひとり静かに祈った。数年して彼女から写真が送られて来た。結婚の報告と赤ちゃんが生まれた報告。「結婚の報告が遅れてすみません。赤ちゃんも先日生まれたんです。あ、私たちできちゃった結婚ではなく、できてない結婚です」と書いてあった。rie、それが本来の結婚だ。

取税人マタイ

取税人という仕事

紀元前1世紀、ユダヤはローマの属州であった。自治権はあったものの税金はローマに納め裁判も種類によってはローマのそれを受けなければならない。だからユダヤ人はローマが大嫌い。ローマを敵視するパリサイ派というユダヤ教の一派が比較的民衆からは受け入れられていたが彼らのつくる口伝律法には閉口していた。そのような時代背景の中、新約聖書には「取税人(しゅぜいにん)」という言葉がよく出てくる。「徴税人」とも言われる人たちである。聖書に出てくる有名どころといえば「マタイ」や「ザアカイ」が挙げられる。彼らはユダヤ人でありながらローマの手先になって同胞から税金をとる。敬虔なユダヤ人が神に仕えるのに対して取税人はお金に仕えるのである。所謂「売国奴」である。だから彼らは大変嫌われた。嫌われたというレベルではない。絆の強さで有名なユダヤ人コミュニティーから抹殺されていたのである。彼らは神殿に対して捧げ物ができない。彼らの財産は盗んだもので汚れているから神殿では受け取ってもらえないのである。色々な取税人がいる中で特に嫌われたのが通行税を徴収する取税人。この仕事はローマに対して入札形式でアプライする。「自分を取税人にしてくれたらこの金額を毎月ローマに納めます」という入札だ。逆にいうと通行税の相場なんてあってないようなもの、取税人の言い値になる。ローマに支払う税金さえ確保できればそこから先は全て自分の儲けになる。だから彼らはお金を持っているし、大変嫌われた。

マタイという人

このようなユダヤ人社会から全く拒絶され、一方で財産だけが増えていく日々を過ごしていたマタイは一体何を考えて生活していたのだろうか。ある書物によるとマタイは、自分は罪人の中でも最も許されない罪を犯している罪人、最悪中の最悪なる人物であることを自覚していたという。そんな彼にも仲間がいた。同じようにユダヤ人社会から拒絶された人々、同業者の取税人や売春婦たちである。日々悶々とし、満たされない、喜びのない毎日を送っていた。もしかしたら自分の罪深さ故に自死を考えたこともあるかもしれない。そんな時だった。彼の仕事場であるカペナウムにイエス・キリストがこられた。通行税を徴収する仕事柄往来する通行人が喋っている会話の内容が耳に入ってくる。最近特に「イエス・キリスト」なる人物の名前がよく聞かれる。興味を持っていた。イエスが病人を癒した、イエスが悪霊を追い出したなどの会話が聞こえてくる度に「そんな人がいるのなら是非一度会ってみたい」と思っていた。そして本当に目の前にイエス・キリストが現れるのである。しかも直々に声をかけてくれたのである。

さてイエスはそこから進んで行かれマタイという人が収税所に座っているのを見て、「わたしに従ってきなさい」と言われた。すると彼は立ち上がって、イエスに従った。(マタイによる福音書9:9)</font color=#blue”>

マタイは通行人の会話からイエスという人物をイメージし、初対面なのに従っていった。イエスに招かれた弟子は全員で12名居るがその中の数名はガリラヤ湖の漁師である。彼らもイエスに従ったが万が一食いっぱぐれたとしても、漁師としての技術がある。実家に戻れば船も網もある。手直しすれば使える道具もある。しかしマタイは違う。イエスに従って食いっぱぐれたら、もう他に行くところは無い。仕事を探して生活の糧を得たくてもユダヤ人社会が受け入れてくれない。聖書にはとても簡単に記述されて居るがマタイがイエスに従うということはまさに背水の陣。それでもマタイは今の満たされない生活、罪の負目に悩む生活よりイエスに従う道を選んだ。前述と同じ書物に

「もしイエスが極めて罪深く無価値であった自分を招かれるのであれば、イエスは確かに自分よりもはるかに相応しい以前の仲間たちをお受け入れになるであろう、とマタイは考えた」</font color=”blue”>

と書いてあった。自分のようなどん底人間がイエス様に招かれるのであれば自分の知っている彼も、またあの人もイエスに招かれるに違いないと考えた。そしてマタイはそのままイエスとその弟子たちを自分の家に招き宴会を催すのである。イエスに従うことで収入源を失ったが友を得た。自分を救ってくださるイエスを得た。宴会に集まったのはイエスとその弟子たちだけではない。マタイの仲間、すなわち同業者や売春婦だ。マタイはどうしても自分よりはまだましな存在である彼らにイエスを紹介しイエスによって救われて欲しいと思ったのだ。そしてマタイはその後イエスの弟子として活動をともにする。さらに「マタイによる福音書」を執筆する。マタイによる福音書はユダヤ人向けに書かれた書物である。彼が受け入れてもらえなかったユダヤ人に対して、彼を拒絶し憎んだユダヤ人に対して、そして同胞であるユダヤ人に対して愛を込めてイエスに出会うことをすすめるべくこの書物を書いたのである。

マタイの人生から学ぶこと

マタイは孤独だった。自分の愚かさを呪い、呪いながらも金を稼ぎ続けた。何度も死にたいと考えたことだろう。マタイの気持ちに共感できる。愚かな生き方故に人を傷つけ、人から避けられ、理解してくれる人を失い、全てを失った。世の中にはそんな私と同じようなことを考えていらっしゃる方もいるのではないかと思う。自分が希死念慮を持ちながらも踏みとどまっているのは、まさにこのイエスという実在の人物に出会ったからだ。暗い場面を通過している方々がひと時その孤独から解放してくれるお酒にではなくイエス・キリストに出会うことを切に願うばかりである。イエスに出会う時、それらの問題が解決するばかりでなくその問題が尊い舞台背景となる。19Cに活躍した英国の牧師、伝道師であるチャールズ・スポルジョンという人が次のようなことを言っている


宝石商は最高のダイヤモンドを展示する際、下に黒いベルベットを敷く。黒を背景に、宝石は輝きを増す。それと同じように神は、絶望的に思える状況の中で驚異の御業を行われる。痛み、苦しみ、絶望のあるところに、必ずイエスがおられる。そして、イエスに従う者とは、そのような状況におかれている人々である。傷つき弱り、誰からも相手にされないと感じている人々である。キリストが光を放たれる場所として、これ以上ふさわしいところがどこにあろうか。チャールズ・スポルジョン
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マタイと同じように今日イエス・キリストに招かれ声をかけられているのは紛れもなくあなたなのである。この招きにどのように応答するだろうか?

価値観の押し付け?

y君との出会い

大学1年の時に教会の牧師先生に1つのことを頼まれた。「自由が丘に君より2つ下の青年が住んでいる。母親と暮らしているが彼は中学1年以来殆ど外に出たことがない。彼に外の空気を吸わせて元気にしてほしい。」と言う依頼だった。早速自由が丘駅近くのマンションに出かけた。どのようなアプローチをしようか、何を話そうかと考えていたがどうにも考えがまとまらない。駅前のマイアミという喫茶店でしばらく考えていたがなかなか良いアイデアが浮かばない。外に出ることが大好き、学校が大好きだった自分には恐らく理解できないことに思えたからだ。当時はあまりそう言う言葉は使われていなかったが今で言う「不登校」「ニート」と言われる青年なのだろう。考えながら歩いていたらいつの間にか目的のマンションに着いてしまった。聞けばy君のお母さんがこのマンションのオーナーとのこと。最上階とその下の階がy君の家だ。特別な操作をしないとその階までは上がれない。エレベーターの扉が家の中に設置されている構造だ。とてつもなく広い家だ。30畳はあるリビング、その他部屋が5部屋ぐらいあったように思う。床面積だけで150畳はあったと思う。それが2フロアーあるわけだからとんでもない広さだ。この家にお母さんとy君の二人が住んでいる。お母さんに案内されy君の部屋に通された。身長168cmの自分がかなり見上げるような青年。185cmぐらいあったと思う。「寝る子は育つ」というがそれは本当なのかもしれないと思った。簡単に自己紹介をすると「では私はこれで」とお母さんが席を外された。外見は全くの日本人だがお父さんはスイス人だという。そんなことから自分のことを少しずつ話してくれた。アルバムを見せ写真で世界中にある自分の別荘や所有するゴルフ場、牧場、射撃場、ヘリコプターなどを紹介してくれた。この自由が丘の家は別荘らしい。y君曰く、所有する住宅で最も貧素で自分に合っている、とこの家が気に入っているらしい。お母さんは日本人でもあるしy君を一人にできないということでずっとふたりで生活している。スイスで育ったようだが日本人の顔をしていることでバカにされ不登校になり、日本にきてからは勉強ができないという劣等感に悩んだという。そんな時自分の心を癒し現実から解放してくれるのがゲームであった。それから彼はゲームにのめり込み現在に至っているとのこと。お金のことを気にする必要はないし彼が一生遊んで暮らしたとしても十分すぎる財産がある訳だから生活に困ることはまずないだろう。でもy君はこのような生活に満足できず自分を変えたいと思っていた。

ゲーム脳

中学、高校で生徒を見ていると明らかに違和感を感じさせる子がいる。発想、視点、人との物理的距離など。だいたいこういう子はゲームや漫画によって脳が侵されている。学習は勿論のこと社会規範や人との接し方など学ばなくてはならないことがたくさんあるがこのゲーム脳になっている生徒を指導するのはなかなか難しい。本校のような全寮制で生活の全てからゲームや漫画を切り離してもかなりの時間がかかるし、折角良いところまで回復しても長期休暇でゲーム漬けになり元に戻ってしまう。そのようなことを繰り返すので結局大きな改善が見られないことも時々ある。日本が経済的に冷え切っていた時、共働きの親御さんは子どもの相手ができずゲームを与えておとなしくさせていた。勿論そうでない家庭もたくさんあったが。彼らにとってゲームは友達であり世界でもあった。だからゲームを取り上げることは彼らの世界を否定することになる。自分は我が子に一切ゲームをさせなかった。テレビも殆ど見せず漫画など買ったこともない。私たち親がそのようなものに全く関心がなかったからである。長男には3歳からサッカーと釣りを教えた。4歳では火の起こし方、火の扱いを教え、5歳で自転車、6歳からはバイオリンを教えた。だから周りの子と全く話が合わない。カードゲームに興じる近所の子を釣りに誘い、ゲーム好きな友達を家族ごと誘ってキャンプをした。我が子に、正しいと思うことを教えるだけでなく我が子と遊んでくれる子やその家族をも変えていかないと子どもが孤立してしまう。幸い、自分と同じ考えを持つ親御さんが多く、子どもを取り巻く環境から徐々にゲームや漫画、カードゲームが無くすことができた。

y君と外出

大学生の頃、理系でなかなか遊ぶ時間も取れず空いている時間はアルバイトと教会の仕事でいっぱいという状態だったが、なんとか時間を捻出してバンド活動をしていた。一番好きなバンドがTOTO(トト、便器メーカーのトートーではない)。ギターや鍵盤を演奏していたことからSteve LukatherやSteve Porcaro、RainbowのギタリストRitchie Blackmoreが特に好きだった。y君を訪問するようになってしばらくした頃TOTOの来日コンサートが武道館で予定されていたのでふたりで行ってみようとチケットを購入した。当時はネットで買える時代ではなかったので246沿いにあるウドー音楽事務所に行って直接買う。アリーナはなかったがA席が残っていたのでふたり分を購入した。そしてそれからTOTOの音源(今度のライブで演奏されるであろう曲を予想して)をカセットテープに録音してy君に渡し、ゲームをやるときにはいつも流すようにしてもらった。それから数週間後に二人で武道館に行った。記念すべきy君が外出できた日である。お母さんは涙ぐんで喜んでくれた。帰りに「どうだった?今日のライブ。」と聞くと「結構面白かった。聞いたことがある曲もあったから。でもやっぱりゲームをしている方が楽しい。」と率直な感想を話してくれた。それから何度かy君を外に連れ出し、外食もできるようになった。お母さんとふたりで自由が丘の街を歩くこともできたという。大きな成長だ。とても嬉しかった。

釈然としない気持ち

y君とはその後もしばらく交流が続いた。が、何か引っかかるものを感じていた。やはりy君はゲームがしたかったのだ。そんな彼に合わせて自分も教えてもらいながら一緒にゲームをしてみたこともあった。「一番優しいやつにしよう」と言って「女子バレー」というゲームを教えてくれた。しかし全くのド素人である自分にはコントローラーの操作もままならずy君の望む対戦相手にはなれなかった。彼はゲームを通して繋がれる友人を求めていたと思う。しかし自分はそれ以外のフィールドに彼を連れ出そうと必死になっていた。結局彼の肉体を外に連れ出すことはできたけど、彼の心はどうだったのか?疑問である。彼の心はあの広くて誰にも邪魔されないでゲームができる自由が丘のマンションに居続けているのではないか。もしも自分がy君と対戦できるほどゲームに通じている人間であればもっと違うアプローチで彼の体も心も外に出すことができたのではないかと思う。「ゲームは悪だ」という考えは間違っていないと思うしこれからも自分はその価値観を持ち続けると思う。しかしそれに興じる人にしかアプローチすることのできない領域があることも確かだと思う。自分と違う考え、価値観だと言って否定することは簡単である。しかしそこにも何か別の世界があり、自分が否定したものを必要とする人がいるのだとy君と出会って考えさせられた。その後y君はお母さんと一緒に米国の家に移り住むことになった。英語を学びもう一度高校からやり直すと言っていた。今頃彼はどこで何をしているのだろう。時々ネットで彼のフルネームを検索してみるが彼らしい人にはヒットしない。因みに少し前にこのTOTOが近くで来日コンサートを開催した。ふたりの仲間と一緒に観に行った。メンバーはみんな60代だし老けてはいるが迫力はあの時のままだった。ただ、観客の多くがあの頃からのファン。1曲目、メンバーが登場すると一斉に立ち上がって盛り上がっていたが2曲目では殆どの観客が座っていた。その後アンコールのシュプレヒコールまで立ち上がる人は殆どいなかった。観客も老齢化、高齢化しているのだ。

誕生日

死にたいと思いながら結局57歳の誕生日を迎えてしまった。頭はおめでたいが、おめでたい歳ではない。早朝、寮生活をしている長男が電話をくれた。「今日はパパの誕生日でしょ。おめでとう。」本当のことをいうと長男から連絡がくるまで忘れていた。「あ、そうだったね。覚えてくれていたの。ありがとう。とても嬉しいよ。」と返した。その後妻や次男からも連絡があり、ありがたいメッセージをもらった。しばらくして両親からも電話があった。まず父が出て「今日は誕生日だったな。お母さんが電話をかけろって言うもんだから。誕生日おめでとう。ちょっと待ってよ、お母さんにかわるから」、そして母が電話に出た。認知症なのでいつもの通り会話がずっとループする。でも声は元気だ。ガンの腫瘍マーカーが最近上がって来ているので心配していたが声は元気そうだ。57歳なのに母にとってはまだ小学生の子どもなのかもしれない。重度の認知症なのに子どもの誕生日は覚えている。昔のことは憶えていると言うが本当にそうだと思う。元気なの?今何しているの?生活は大丈夫なの?これを何度も繰り返すのである。30秒前のことが分からなくなるのだ。もう親に甘えられる歳ではない。でも「お父さん、お母さん…」と言って今の状況や自分ではどうしようもできない現実を全部話したくなる。話しているだけで安心するし涙が出そうになる。「大丈夫だよ。何も心配いらないよ。全部うまく言っているから。」もちろん嘘である。全部うまくいっていない。

自分は何にも恵まれていないと思うことが良くあるが、しかし両親と奥さん、子どもたちには恵まれた。本当にそう思う。ハンドバッグ職人として働く父。子どもたちが全寮制の学校に入ることで収入の殆どが学費に消える時と東京の土地を購入する時期が重なったのだからどれ程大変な思いをして育ててくれたか分からない。そんな苦労をよそに自分は、高校では停学になり結婚しても離婚してしまった。他の2人の兄弟は両親の犠牲に見合った大人になっているのになぜ自分だけこれほど迷惑ばかりかけているのか。決してふざけて生活しているわけではないがどうしてもうまくいかない、全てがうまくいかないように思える。これなら我が家は2人の子ども、ふたり兄弟の方がよかったと何度思ったか分からない。自分がいることで家族が迷惑し負担を背負い幸せになれない。本当に申し訳ない。そんな自分に他の2人に対するのと同じように接してくれる両親の愛情が苦しいほど伝わって来て嬉しくも申し訳ない気持ちになる。90歳を超えた父。6歳下の母。自分がいなくなることで人々、特に家族に幸せになってもらおうと思って来たがもう少しだけ生きてみようか。そしていつか自分の存在で家族を幸せにできたらこれ以上の喜びはない。お父さん、お母さん。本当にありがとう。

真の実力

盛(兄、もり、仮名)、正(弟、まさ、仮名)との出会い

ある年、高等学校で「盛」の担任になった。このころの生徒は昭和末期生まれで日本が何につけ冷え込んでいた頃に子どもだった世代だ。共働き家庭が多く、子どもは小さなゲーム機をあてがわれ親の苦労を見ながら静かに暮らしていた世代。しかし全寮制の本校ともなると少し様子が違いこの学年は好奇心と探究心旺盛で「とにかくやってみよう」というチャレンジ精神に溢れていた。少し気を緩めると暴走する生徒を秩序ある集団にまとめるには更なる祈りが必要だった。しかし一人一人はとても心優しくホームルームにいるだけで教師の私の方が心癒される、そのような集団だった。中でも人一倍背が高くおしゃべりが大好きで気が利く盛はみんなの人気者で常に集団の中心にいた。実は彼のご両親をよく知っている。自分が高校生の時に働いていたアルバイトの直属の上司が盛のお父さん。同じ職場の別セクションでは盛のお母さんが働いていた。お父さんはその昔、憧れの「メンズクラブ」(通称メンクラ、トラッドを中心とした男性向けファッション雑誌)のモデルをしていた方だ。私が盛の担任をした時にはお父さんとお母さんは離婚され、お母さんが再婚して学校から30分ぐらいのところに引っ越してこられていた。盛は何かにつけ私のところに来ては面白い話を聞かせてくれた。そんなある日盛が「先生、今日はお願いがあるんです。弟の誕生日なので週末母と弟の住む家にいかせてもらえませんか」。学校のルールではこのぐらいの理由での外出はできない。「そうか、少し難しいかもしれないね」というと盛は家庭の事情を話してくれ、ご両親の離婚後母親に引き取られた弟とは数年会っていないこと、弟が自分に会いたがっていることなどを話してくれた。「わかった。任せておいて。」と彼の願いを受け入れた。教師会でどのような説明をしたのかは覚えていないが何かしらのマジックを使ったのだろう、許可がおりた。週末、彼を自家用車に乗せ途中で注文しておいたケーキを受け取り弟の「正」がいる家に向かった。家に着くと「先生も一緒に」と言われたが「車で待っているから何時間でもゆっくりしたらいいよ」と盛を送り出した。2時間ぐらい経った頃、盛が車に戻ってきた。「もう帰りますが母が先生にお会いしたいと言っていますから少しだけ中に入ってください。」と言われたので家に入ると懐かしいお母さんの顔。そして新しい旦那さん。実はこの方も面識がある。そして初対面の「正」。当時正は小学5年生。電車とバスで1時間以上かけてキリスト教系の学校に通学していた。
「初めまして。お兄ちゃんの担任です。」
「初めまして、正です。僕は飛行機が大好きで飛行機のエンジン音で機種が分かります。」
といきなり特技を含めた自己紹介をしてくれた。彼が住んでいる家は空港のすぐ近くで家の真上が航空路になっているためいつの間にかわかるようになったとのこと。そんな小学生の正とその後ずっと関わるようになるとはこの時想像もしていなかった。

中学生になった正

正は通学地獄から解放され全寮制の本校に入学してきた。自分のことをほとんど話さずただただ人のことばかり考える正、実は彼の家を訪問していた時にはすでに新しい父親からDVを受けていたという。後からお母さんから聞いた。なのでお母さんと正は家を出て東京の実家に戻っていた。その頃私は高校の教員だったので正との接点はあまりなかったが、中学校で働く妻が奇しくも彼の担任になった。妻は私の10歳年下。態度は10歳年上。彼女はとにかく生徒の話をゆっくりと聞く能力に長けている。正も妻に何でも話を聞いてもらえるので色々な相談をしていたようだ。一応、我が家にはルールがあって同じ学校で働くもの同士なので生徒や保護者の情報については家庭で話さないようにしていた。折角心を開き信用して色々な話しをしてくれる生徒が、情報の出所が分かり「この夫婦、家で自分のことを話している」とわかると急に心を閉ざしてしまう。何より生徒を傷つけてしまうのでこのようなルールを作っている、というより教員の守秘義務本能がそうさせていた。時々家に帰ると正が家にきていることがある。もちろん理由は聞かない。「よぅ、正。元気?」と声をかけるだけで妻との会話を邪魔しないようにしていた。

高校生になった正

正はそのまま高校に進学してきた。今度は私の担当だ。彼を2年、そして3年の時に担任として受け持った。正はおおらかで大雑把な盛に比べて緻密で計画通り物事を進めていくタイプである。盛と同じでバスケットボールが得意で周囲に対する細かい気配りができるため男女、先輩後輩関係なく信頼されていた。聖歌隊でもリーダーシップを発揮し創意工夫に長けている。学習には常に真面目に取り組み「これをやりなさい」と指示されるとずっとそれをやり続ける真面目さと根気強さがある。しかし、試験週が終わると決まって私の家に来る。いつも明るい正が暗い顔をする。「先生、僕ってバカなんですかね?なんでこんな点しか取れないんですか。怠けていないんです。すごく努力しているんです。努力しているのにこんな点なんです」。学業成績だけを見たら彼は「中の中」、或いは「中の下」。「正、点数で人の能力を測ることがいかに愚かなことか、よくわかる時がくるよ。点数じゃない。真面目にコツコツと実直に学び続けることこそ一つの結果じゃないか。日本はそのプロセスを結果として評価してくれない国なんだ。だから学校は人を育てながら人を殺す場所なんだよ。学校の価値観を自分の価値観にしてはいけない。じゃないと君も人を結果、点数でしか評価できない人間になってしまう。45点の物理のテストを堂々とお母さんに見せなさい。僕は毎日3時間物理のために使って勉強して45点も取れたよって報告しなさい」。こういうやりとりを毎回続けていた。因みに彼の飛行機熱は冷めるどころかどんどん熱くなり「パイロットになりたい」というのが彼の夢になった。夏休みや冬休みは羽田空港でアルバイトをしていた。今はなきJASの機材清掃のアルバイトだ。輸送を終えた航空機を次の出発までにセッティングする仕事。当時JASはエアバスを多く導入していたが時々コックピットの写真を送ってくれた。正の夢が叶ったらいいな。でも今の学力では少し難しいかな。

高校卒業後の正

正は高校を卒業して留学した。米国にある系列の大学にはaviationのコースがありそこで学ぶためだ。しかし、前述の通りお母さん一人の収入である。留学、しかもaviationともなると年間500万円ぐらいかかる。奨学金やローンを用いても300万円ぐらいはかかる。それはかなり厳しいことに思えたので一抹の不安があった。加えて正の英語力。そこまでできるわけではないことは本人も自覚している。本当に大丈夫なのだろうか。緻密で計画的な彼のことだから大丈夫、という気持ちとダメかもしれないという気持ちが交錯した。そんな周りの不安をよそに彼は私たちの見えていないものに目を向けて渡米した。時々くる彼からのメールには様々な近況は記されていた。妻と一緒に我が子を送り出した保護者のようにメールを読んだ。大学の聖歌隊で日本人として初めてリーダーになった、とか単発機で練習をしているとか、勉強はかなり苦労しているけど助けてくれる人も多い、等々。もう無理かな、と心配する頃になるとメールが届き「単発のライセンスが取れました」「双発で練習中です」などアップグレイドしていく様子が伝えられる。そうこうしているうちに結局彼は卒業した。卒業できた。いや卒業を果たしたのだった。卒業式にはお母さんも盛と一緒に米国に行ってその式典に参加し彼の卒業を祝福したという。文章ではなかなか伝わらないだろうがこれは奇跡の中の奇跡である。経済的、能力的に不可能と思える道が開かれたのだ。以前の投稿に出てくる歯科医の女子生徒もそうだがこういう奇跡が私の周りにはたくさんあるのだ。モーセが200万人のイスラエル人を率いてエジプトを脱出する時、追っ手のエジプト軍がすぐ後ろまで迫ってきた。無情にも目の前は葦の海。前にも後ろにも行けない絶体絶命のピンチで神様は葦の海を二つに分け水のない乾いた地をモーセに示した。そしてそれを進み全員が渡りきったところで水は元に戻って一つの海となった。追っ手のエジプト軍はそこで海に呑まれて滅んでしまう。まさにそのようなことが起きたのだ。帰国後彼は九州でライセンスの仕上げをしていよいよ就職することとなる。

トリプルに乗りたかった正

パイロットとして歩み始めた正が最初に就職したのがSKYMARK AIRLINESだった。ボーイング社の機材が好きな彼を待っていたのはB737だった。詳しいことはわからないが正がいうにはエアバスとボーイングは設計のコンセプトが全く違うらしい。エアバスは最終的な判断を最後まで冷静なコンピュータに任せる設計、対してボーイング社は最終判断をパイロットの技術と力量に任せる設計。で、正はボーイングが好きらしい。当時SKYMARKは経営も不安定であったが彼の英語力が大きな武器となって採用されたらしい。確かに聞いていてすごく綺麗な英語を喋る。パイロットになりよく写真を送ってくれていたが当時のSKYMARKは制服がポロシャツ。機材の前で写る正はパイロットには見えずどう見ても整備士さん。でも彼は嬉しそうに日本中の空を飛んでいた。その後別の会社に移った。今度はANK。ANAに入社したかった正は少しでもANA色に近いところということでエアー日本に入社した。新千歳ー広島路線が多く彼と会うことが多くなった。何度も家に遊びに来てくれた。ただ、この会社の体質らしいが上下関係が理不尽に厳しいらしい。結局ここも4年ぐらいで辞めてしまった。そしてついにずっと乗りたかったB-777(トリプル、トリプルセブン)に乗れる会社を見つけた。EVA AIRだ。彼は東京在住なので通勤は飛行機。家を出て出勤、台湾に向かう。そこから海外路線で777を操縦するのだ。田舎の山奥でスーパーカブに乗っているおじさんとは住む世界が違う。しかし、いつも彼はあの少年「正」、また試験のたびに落ち込んでいた「正」のままで謙遜で心優しい人間だ。自分が神様という存在を信じる理由がいくつかあるが、その一つが正のような奇跡の生き証人がいることだ。人の力や経済力で判断したら正がパイロットになれるはずがない。しかしその背後でずっと働き続け導いた神様がいるから彼はパイロットになれた。正に聞いたことがあった。「よく頑張ったよね。正直いうと少し無理なんじゃないかとも思っていたんだ」というと「僕も何度もダメだと思いました。でも不思議なことにいつも必ず助けてくれる人がいたんです」。彼はわからないことを「分かりません」ということに躊躇しない。恥ずかしさを捨てて素直にわからないものはわからないと言えるのである。これってできそうでなかなかできないことである。特に男性には難しい。「分からない、出来ない」はイコール「恥」と思っている人が多いからだ。さり気なくできて、なんでも分かって「凄いね」と言われたいのが男性である。正は何でも正直に自分をそのままさらけ出せるから、彼の周りには「正を助けたい」と思う人がいっぱいいたと言う。教師として人の実力というものを考えるときにいつも正のことを思い出す。学校も社会も結果を出せた人を力のある人、優秀な人と評価する。ではその結果とは。試験の得点や営業成績、企画の成功率、収入、を結果とするのが社会である。しかし、正のように「素直に生きる、自分をそのままさらけ出し、分からないことをわからないと言える」ことも実力のうちではないだろうか。30年以上教員をしているから色々なタイプの生徒に出会う。周りから「頭の良い人」と思われている人は結構かわいそうだ。「分からない」と言えない、言わせてもらえない雰囲気があるからだ。だから知ったかぶりをする。それが蓄積されて結局学力も伸びないし夢も叶わない。等身大で生きられない、知ったかぶりの末路はかわいそうである。日本の社会が本当の力、本当の人間らしさを評価できるようになったらもっと多くの人が幸せになれるのに、と思う。

今後の世界はどうなるのか?

世界はいつまで続くのか

世界情勢が目まぐるしく変化する昨今、この世界(地球)はいつまで続くのだろう?という疑問を持つ人も多いと思う。自分もその一人だ。だから世界の今後を予測する人が注目されたり、関連の本やテレビ番組がもてはやされる。私が小学生の頃(今から50年ぐらい前)、石油はあと30年で枯渇すると言われていた。あれから50年経った現在、このままだと石油の枯渇はあと25年と言われている。勿論この間に石油の採掘技術が進歩し、人類も石油に依存することを少しでも抑える努力を続けた。もしかしたら30年後も石油の枯渇はあと25年と同じことを言っているかもしれない。そこで甘い考えがよぎる。もしかしたら石油は無くならないんじゃないか、と。色々なことを言って不安に陥れながらも実はこの世界は永遠に続くのではないか、そんな考えを持つ人もいるかもしれない。

しかし聖書は明確に世界が終わることを預言している

聖書の後半が新約聖書、新約聖書の一番最初が「マタイによる福音書」である。人類最初の人であるアブラハムからイエスキリストに至る系図が書いてあるので、カタカナばかりで読むだけでも大変なところである。このマタイによる福音書24章に世の終わり、即ちイエスキリストがもう一度この地上に来て自分を信じて従った人たちを迎えに来てくださる「再臨」の前に起こることが列記されている。戦争、飢饉、地震、偽預言者、イエスキリストの名を語る偽物、等々。聖書の一番最後のある「ヨハネの黙示録」にはもっと具体的な預言が書かれておりその中には疫病なども出てくる。今までの災害などはある地域に限定されるものが多かったが新型コロナウィルスは全世界規模の疫病である。聖書がいう終末預言はかなりの部分が既に成就している。即ち世の終わりが近づいていることは確かなことである。

コロナ対策で考えたこと

日本で生活しているとあまり大きな変化を経験することは無い。世界情勢から考えるとある日突然大きな変化があってもおかしく無い気がするがそれが起こらないのは、恐らく国の指導者や金融を操作する方、様々な場面のリーダーたちが目に見えないところで努力をしてくださり日本という国を守ってくれているからだと思う。噂レベルの話であるがオウム真理教がこの世界を征服しようとするシナリオの中で、北朝鮮と協力して日本を征服するという計画があったと言われている。これも間一髪のところで公安が阻止したと伝え聞く。守られて来た日本、しかしこの日本が大きく変化した時があった。それを私たちは一連のコロナ対策で経験した。最初は対岸の火事ぐらいに思っていたコロナが徐々に北海道、そして本州に近づき小学校の休校要請が出された。それから間も無く学校が一斉休校となった。ある日を境に前日とは全く違った日常になってしまったのだ。米国に住む友人である医師に聞いたところ「ある日突然国の関係者がやって来てクリニックを閉鎖するよう命令してきた。そして医院にある脱脂綿やガーゼ、そのほかの医薬品を持って行ってしまった。」とのこと。アメリカは自由の国であるが、国が何かを決めるとそれは日本の「要請」とは違い「命令」となりそこに個人の意見や意思は全く通用しないとのことだった。

では世界の終わりって?

世界に終わりがありそれが近いことを自分は痛感している。聖書はそのことを前述の「ヨハネの黙示録」や旧約聖書の「ダニエル書」で預言している。預言書の解釈は多種多様で例えば有名なのは666の預言。これは人物を表すことまでは聖書に記述されているがそれが誰なのかは文脈から読み解くしか無い。これを皇帝ネロという人もあればローマ教皇権という解釈も成り立つ。世の終わりとの解釈として面白い動画を見つけた。話しは結構辛辣な話であるが牧師先生の人柄にためかあまりそれを感じさせない動画である。もし興味があれば是非観ていただきたい。平和な日本に住みながらもこの先何があるのか、を考えることは非常に大切なことだと思う。
動画に興味のある方はこちらをクリック

みんな良い人なのに

真面目でシャイなS君

高等学校の教師をしているときのこと。ある年S君のいるホームルームを受け持つことになった。3年生である。S君はお父様の仕事に関わりのある車が大好きで、また鉄道と写真が好きな生徒さんである。とにかく真面目で人目の有る無しに関わらず常に実直に責任を果たすタイプで周りからも一目おかれている存在である。写真や鉄道が好きということで彼はよく私のところにきては自分の話をしたり私の撮った写真を見ていた。礼儀正しい好青年だが少々シャイなところがあり女子と話すのがあまり得意ではない。男子とは楽しそうに話すが女子に話し掛けられると急に敬語になってしまう。高校3年生とはいえまだまだ可愛らしさ、初々しさがある。彼とので出会いによって色々なことを考えさせられ学ばせてもらった。親御さんの現実と子どもの願い。そして現実を受け入れざるを得ない子どもの立場。S君から子どもの叫びを聞かせてもらった。

S君のご両親

S君のご両親は、なるほど親子だと思えるほど真面目で誠実な方々である。P.T.A.にも毎回二人でお越しになり面談の内容をきちんとメモを取りS君が頑張っていることを報告すると二人で涙を流される。S君は本当に愛されているな、とその愛情がしっかりと伝わってくるご両親である。しかし、このご両親は面談が終わるとそれぞれ別行動をされる。不思議だなと感じていたがそれほど気にとめることもなくやり過ごしていた。本校は東京から800kmぐらい離れているので東京在住のS君の親御さんは飛行機で帰られる。帰りも別の飛行機を使っていたようだ。少し気になり担任だけが見ることのできる書類を見るとお二人の住所が違っていた。お父様は東京、そしてお母様は関東の別の県であった。何かご事情があるのだな、と思いながらも全寮制の学校ではそれほど珍しいことではないのでそのままになってしまった。

S君に呼ばれて

全寮制の学校で教員も同じキャンパス内に住んでいるため、舎監でなくても寮室を訪ねることはある。ただし、男性教員は男子寮にしか入れない。当然である。あるときS君が「先生に僕の撮った写真を見せたいので部屋に来てください」と誘われたので早速その日に行って見た。S君らしい整った部屋だった。部屋は2人ないし3人で一部屋だが彼のテリトリーは群を抜いて綺麗だった。彼の性格が出ている。S君が机の引き出しからおもむろに、少し嬉しそうに取り出したのが休み中に鉄道旅行をした時に撮った写真。北海道まで一人旅をしたようで素晴らしい写真ばかりだった。一人旅をしているときの彼は教室で見せるシャイな一面を微塵も感じさせないほど大人で堂々としていた。「貧乏旅行ですから結構やばいところにも泊まりましたよ」と嬉しそうに報告してくれた。「帰りは母のところで二週間ほど過ごして、学校に戻る前に三日間父のところにいました」とさり気なく報告してくれた。「そうなんだ」と言いながら次の言葉が見つからなかった。「僕の両親はとてもいい人なんです。でも二人になるとどうしても性格が合わないらしくて。今は別居しているんです。僕が中学に入ったときからだからもう6年になります。」胸が痛み出した。(もういいよ。何も話さなくていいよ。)そんな気持ちだった。

思い出の写真

ふと目を本棚に向けるとそこには綺麗な花の風景とS君、そしてご両親の3人が笑顔で写っている写真が。「これ、小学生の時に3人で行った信州の写真なんです。山に登ったんですよ。高原を歩いて。とても楽しかったな。いつかまた3人で行きたいんですよ。」場所はよく分からなかったが美ヶ原にも見えた。立派な高校3年生になりもうすぐ卒業していくS君。でも思い出と気持ちは小学生のまま。自分の気持ちを必死に押し殺しながら両親の決定にただただ従って「なんで3人で暮らせないんだろう?」と思いながらも口を真一文字に閉じて耐えるS君。「ありがとう。今日は本当に良いものを見せてもらったよ。」と早々に立ち去る自分。泣きたくて仕方なかった。みんないい人なのに。いい人が3人集まっているのに。なんで傷つかなくちゃいけないんだろう。なぜ子どもが傷つくんだろう。そういえば自分も子どもに言われたことがある。「両親が喧嘩ばかりするのはある意味虐待だよ」と。その通りである。本当の意味で子どもを大切にすること。大人の知恵を使ってもう一度考える必要があるのかもしれない。

教員として心がけていること

生意気であるが生徒さん方と接する際に目標なるものを常に意識して教員生活を送って来た。自分はクリスチャンという背景があるので少し理解してもらえない点もあるかと思うがここに書かせていただきたいと思う。

全ての生徒、それは難しいとしてもできるだけ多くの生徒の痛みに寄り添える教師でありたいと常に考えて来た。また専門科目の「物理」では自然界が単純で美しい秩序に従って今尚運行し続けその背後にある存在を意識しそれを発見することを授業の目標として来た。奢らず決して高ぶらず生徒一人一人を尊い魂として尊敬の念を持って接することを意識したい。

高校3年で停学

自分は高校3年生で停学になった。理由は喫煙。今では喫煙で停学になる学校もあまりないのかもしれないが当時、また自分のいた学校はかなり厳しく指導も徹底していた。自分は初犯で喫煙をしたというよりその場にいただけという理由でかなり停学期間は短かったがそれでも2ヶ月の停学。今では教育権の剥奪と逆に訴えられてしまう長さだ。一番辛かったのは親を悲しませてしまったこと。全寮制の学校ということで学費が毎月サラリーマン給与の1/3ぐらいかかる。苦労して、無理して送ってくれていた学校で好き勝手なことをして停学になって帰ってくる。本当にばかな子どもだと思った。しかも高校3年生、受験直前の大切な時期にである。毎日反省しながら家から出ることもなく考え事をしたり勉強をして過ごした。寂しく過ごしていたが一つだけ楽しみにしていることがあった。それは夜になると掛かってくる電話だ。舎監のY先生がほぼ毎日のように電話をかけてくださる。自宅からではなく寮の公衆電話からかけてくださるのである。「元気か?」と言いながらその辺にいる自分の同級生に代わってくれる。もともと明るいY先生だが電話では更に大声で笑いながら「今日はのぉー…」と言いながら色々な話、くだらない話をして私を笑わせてくださる。舎監専用、仕事用の電話を使えば良いのに他の生徒の声を聞かせたく寮の公衆電話を使う。まだテレフォンカードのない時代である。Y先生はいつも財布に10円玉があると電話用に貯金箱に入れてくださっていたとのこと。こういう先生がいらしたからくさらず、また将来はY先生のように人の痛みに寄り添える人間になりたいと思うようになれた。もし停学になっていなかったら自分は教員になっていなかったのかもしれないとすら思う。

浪人して二流大学へ

自分で言うのも変だが、当時の受験生にしてはかなり勉強したほうだと思う。寮生活(掃除や洗濯も自分でやり一般の授業以外にも「勤労体験学習」を週に8時間行う)なので勉強時間を捻出するのがかなり難しい。早朝から深夜、休み時間まで効率よく用いないと勉強が追いつかない。それも全てやったが結局浪人。6月頃まではエンジンがかからずアルバイトをしたりパチンコに行ったりしていたが夏前からかなり本気になって勉強するようになった。予備校では良い先生にも多く巡り会えた。自分と同世代の方なら分かるかもしれないが渡辺次男先生、「ナベツぐのあすなろ○○○」と言う数学のシリーズ本を執筆された先生の授業も受けさせていただいた。超怖かったけど愛のある「鬼の遠藤」先生には物理を徹底的に鍛えていただいた。寸暇を惜しんで勉強したが合格したのが誰もが羨むような一流大学ではなかった。難関大学受験生が滑り止めに受ける大学にやっと合格できた。大学に入って「自分の力はこの大学のレベルと釣り合わない」などと高飛車なことを考え親に内緒でもう一年浪人しようとさえ考えた。しかしこの経験が自分の教師としての幅に繋がった気がしている。負け惜しみではない。努力しても点数に繋がらない生徒さんの気持ちが理解でき、また自分の出身した大学で生徒さんや保護者を選別するようなことをしない教師になれたと思う。人間の真の価値というものを見失わない生き方は「努力しても二流大学にしか合格できなかった」という自分の弱さを直視することでできるようになったと思っている。人の価値は出身した大学、就職した会社のネームバリュー、就いた役職、結婚相手で決まるのでは決してない。自分のようにダメな人間を「価値がある」と言ってくださる神様によって決まる。現にキリスト教では救われるために人間側にできることは何もないことを徹底的に教える(プロテスタントの場合)。

全ての生徒を価値ある魂と考え尊敬の念を持って接する

生徒さん方と話すことが大好きな自分は機会を見つけて色々な話をするようにしている。教員であれば何となく身に覚えがあるかもしれないが、自分が全ての生徒さんと平等に関わっていないことに気づく。これは教師によって違うが、例えば成績上位者たちを更に伸ばそうとこちらに力を入れ下位の生徒にはあまり目を向けない先生。生徒指導で問題ばかり起こし何度言っても行動が改まらない生徒にばかり目が行きその生徒を何とかしようと特別に目をかける先生。自分もそういうところがあった。今もあるのかもしれないが、ある時からそれに気づかされ意識してそれをなくすように努力した。そのあることというのが生徒さんとの対話だ。彼は成績も中の上。集団の中でもみんなから好かれているものの特にリーダーシップを取ることもなく、居ると安心されるタイプ。教師の周りに集まる生徒の少し外側でその様子を笑顔で見ているタイプの男子生徒。こういうタイプは教師側も安心してしまって密なコミュニケーションを取るのを忘れがちになってしまう。そんな彼が「僕も他の人たちのように先生たちからもっと愛されたいし関わって欲しいんですよね。少し問題を起こしたら先生も僕に目をかけてくれるんですかね。」と笑いがなら冗談のように言った。彼の精一杯の叫びであり精一杯の優しさなのだと理解した。自分が大人として、クリスチャン教師として恥ずかしくなった。心当たりがあったからだ。自分では平等にしているつもりでもいつの間にか自分のようにできない生徒、ダメな生徒に行きがちだったのだ。どの生徒も価値があり教師の都合や好みで手のかけ具合が違ってはいけないはずだ。彼らを尊い魂として扱ってきたのだろうか。彼らがいつまでも高校生でいると勘違いして舐めてかかってはいなかっただろうか。色々な疑問が一気に自分に向けられた気がした。自分と同様、目の前の彼にも神様は「価値ある存在」と言われた。それを忘れていたのではないかと猛省した。

物理で学んで欲しいこと

「自然と聖書は神の愛をあかししている」とある書物に書いてあった。自然界はそれ自身非常に美しい。アメリカをキャンプしながら旅行した時に見た自然界の美しさは忘れられない。グランドキャニオンの絶景、モニュメントバレーの芸術的センス、イエローストーンの広大さ。海に潜っていても同様のことを感じる。日本は四季がはっきりしているところが多く、秋になると紅葉(こうよう)が見られる。そもそも神様が最初に創られた地球には紅葉は無かったはずである。罪がない状態の地球には「死」が無かったからだ。紅葉は「死」のプロセスでその色が変化し美しく見えるもの。自然界を見るだけで「美しい」と思える。これが自然科学の第一歩であると思う。物理は表面に見える美しさだけでなくその少し奥を覗くと見えてくる秩序と法則の美しさを探求する学問だと思う。星の美しさに魅了されることがある。しかしほんの少しその奥を掘り起こして見ると惑星の運行に、単純な法則があることに気づく。中々その法則にたどり着けなかった師であるティコ・ブラーエ。その愛弟子であるヨハネス・ケプラーがその法則を見事に探し当てるのである。物理といえばニュートンであるがニュートンが物理以上に時間をかけていた研究があったことを知っている人はそう多くはないだろう。ニュートンは聖書研究に多くの時間を費やしたのである。そしてダニエル書に出てくる2300の夕と朝の預言を正確な計算で解釈したのである。確かに物理は公式を覚えてそれを活用できれば実力に直結する。だから学びやすい。賢い受験生は物理の方が得点し易いと受験科目に選ぶ。しかし私が教えたかった物理は受験の道具としてのそれではない。これを学ぶことで自然界がいかに単純で美しい調和と法則に満たされているのかを体感してもらうのが狙いである。自分の専門は素粒子(理論物理)であるが素粒子の世界にも美しい調和がある。マクロな世界、ミクロな世界共に調和と秩序がありその源が神であると私は信じている。そしてそれを生徒さん方に伝えたく教壇に立っている。受験科目として学ぶ時、もしかすると学ぶことが辛くなるかもしれないが学ぶ本質を理解すると学ぶことが楽しくなるはず。それを物理で体験して欲しいのである。

ダビデについて

旧約聖書にダビデという人が出てくる。また旧約聖書の「詩篇」にはダビデの歌がたくさん出てくる。ダビデ(David デイビッド)とはどのような人なのか。自分が思い描くダビデ像とは。
ダビデはイエスリストが誕生するおよそ1000年前、イエスキリストと同じベツレヘムで生まれる。父親はエッサイ。クリスマスに歌われる讃美歌の歌詞に出てくる「エッサイの根より生い出でたる…」のエッサイである。実はイエスキリストはエッサイ、ダビデの20数代後の子孫になる。小さい頃は羊飼いとして過ごした。羊飼いは放牧する羊の番をしながら野宿することも多く、彼は一人の時間を神と交わり竪琴を弾いて過ごしていた。話しは変わるがイスラエルの国はエジプトでの捕虜生活(奴隷生活?)からモーセとアロンまた次世代のヨシュアによって約束の地カナンに入ることができた。すんなり行けばさほど遠くない距離を彼らは40年間の放浪生活の後たどり着いた。この40年間に、神様を忘れて好き勝手なことをして叱られ、ごめんなさいと謝ってまた好き勝手なことをする。そんなことを繰り返してた。そのため迂回を続け40年もかかってしまった。神様はもともとイスラエルに王は必要ないと仰っていたがイスラエル人が執拗に王を求めるので不承不承サウルを初代の王としてたてた。2代目にこのダビデが就くがそこに至るまでに色々なことがあった。まず伏線としてイスラエルがペリシテ軍との戦いが挙げられる。

<聖書の引用>
 さてペリシテびとは、軍を集めて戦おうとし、ユダに属するソコに集まって、ソコとアゼカの間にあるエペス・ダミムに陣取った。 サウルとイスラエルの人々は集まってエラの谷に陣取り、ペリシテびとに対して戦列をしいた。 ペリシテびとは向こうの山の上に立ち、イスラエルはこちらの山の上に立った。その間に谷があった。 時に、ペリシテびとの陣から、ガテのゴリアテという名の、戦いをいどむ者が出てきた。身のたけは六キュビト半。 頭には青銅のかぶとを頂き、身には、うろことじのよろいを着ていた。そのよろいは青銅で重さ五千シケル。 また足には青銅のすね当を着け、肩には青銅の投げやりを背負っていた。 手に持っているやりの柄は、機の巻棒のようであり、やりの穂の鉄は六百シケルであった。彼の前には、盾を執る者が進んだ。 ゴリアテは立ってイスラエルの戦列に向かって叫んだ、「なにゆえ戦列をつくって出てきたのか。わたしはペリシテびと、おまえたちはサウルの家来ではないか。おまえたちから、ひとりを選んで、わたしのところへ下ってこさせよ。 もしその人が戦ってわたしを殺すことができたら、われわれはおまえたちの家来となる。しかしわたしが勝ってその人を殺したら、おまえたちは、われわれの家来になって仕えなければならない」。 またこのペリシテびとは言った、「わたしは、きょうイスラエルの戦列にいどむ。ひとりを出して、わたしと戦わせよ」。 サウルとイスラエルのすべての人は、ペリシテびとのこの言葉を聞いて驚き、ひじょうに恐れた。(サムエル記上17:1-11)

ペリシテ軍の強者、ゴリアテという大男が出て来て誰か自分を倒せる者はいないかと言っている場面である。ここの出てくるのが一介の羊飼いであるダビデ少年。神様のお力により石投げ器(長尺の革の真ん中に石を置きそれを包むようにして振り回しタイミングよく石を飛ばす装置)でゴリアテの眉間に命中させ一撃で彼を倒す。この戦果がありサウル王はダビデを召しかかえ待遇良く自分の右腕とした。ちなみにサウル王の息子にヨナタンという青年がいるが彼とダビデは大変仲が良くどのような状況でも互いに互いのことを第一に考える間柄になった。ダビデの名声が高まるにつれてサウルはこのダビデに嫉妬するようになりまた自分の王位を狙っていると思い込み何度もダビデを殺そうとする。しかしどの場面でも神様はこのヨナタンを用いてダビデの命を助けるのである。それだけではない。ダビデにサウルを殺す機会が訪れたときも彼を殺さず、更にのちのペリシテとの戦いでサウルとその息子大親友のヨナタンがなくなったときには衣を裂いて泣いた。

これらののちダビデは第二代王として40年に渡りイスラエルを統治するようになる。神に対して常に敬虔で神と共に歩む人生を送って来たダビデだったが一方で権力は彼を徐々に盲目にして行くのであった。人を殺し神様の喜ばれないことを行った。
特に有名なのはバテ・シバ(バト・シェバ)との姦淫。ある日城から下を見るとバテ・シバが行水で裸になっているのを目撃する。彼女にはウリヤという旦那がいる。が、彼は現在戦争で出兵中。しかも彼は軍の責任者でもあった。バテ・シバと関係を持ったが次第に彼女が妊娠することに気づく。これはまずいとダビデはウリヤを戦場から戻し妻とゆっくり過ごすよう促す。しかし責任感の強いウリヤはそれを断る。仕方がないのでこのことが公にならないよう、ウリヤを戦火の最も激しいところに送ってしまう。結局ウリヤは戦死する。

そして次の王となるソロモンが誕生する。イスラエルは第三代王のソロモンの後北イスラエルと南ユダ王国に分裂しそれぞれ王を置くことになる。
ダビデは晩年自分の生涯を振り返りいかに自分が間違ったことを繰り返して来たのか、そしてそのような愚かな自分に神様は何と慈しみ深く愛を注いでくださったかを思い徐々にあの羊飼いだった少年ダビデの頃に戻って行く。
そしてダビデは一つの決心をする。神様のために神殿を建てたい。これがダビデの真心からの願いであった。ダビデはこのことを神様に願い出た。ところが神様からの返答は意外なものだった。

<聖書の引用>
 しかし主はわたしの父ダビデに言われた、『わたしの名のために宮を建てることはあなたの心にあった。あなたの心にこの事のあったのは結構である。 けれどもあなたはその宮を建ててはならない。あなたの身から出るあなたの子がわたしの名のために宮を建てるであろう』と。(列王記上8:18,19)

神様のために真心から贈り物をしたいと申し出たのにそれを断られてしまうのである。そしてソロモンがその神殿を建てる。ダビデはどのような気持ちだっただろうか。折角神様のために何かできることはないかと考え最高のことをしたいと申し出るのにそれを断られてしまう。私だったらヤケを起こすと思う。「神様そうですか。それならいいですよ。神様の思うとおりにしたらいいんですよ。」といじけることだろう。

しかしダビデはそうではなかった。彼はソロモンがまだ王になって力も経験もないからといって事前に神殿に必要な資材を全て集めておくのである。それだけではない。石工や大工なども雇いソロモンの命令に従うよう手配をしていたのである。イスラエルに建てられたこの神殿を「ソロモンの神殿」や「第一神殿」と呼ぶが私の意見としては「ダビデの神殿」といっても良いのではないかと思っている。

神様は強敵ゴリアテを倒すために名も知られぬ人を用いるが、逆にこれはこの人が適任という場面で全く違う人を用いることがある。ダビデの人生がそれを教えてくれる。特に神様から「あなたではない」と言われるときどのような態度をとるか、とれるかは大きな意味を持つような気がする。決して神様はダビデを見捨ててつまはじきにしたのではない。それが神様の長期計画における計画だったのだ。自分が、自分がと自分を主張しないと不利益を被る。しかしキリスト教では自己実現ではなく神様の計画を実現することが要求される。これに従うのは結構難しい。