由布岳遭難事件

教員になってまだ間もない頃(確か2年目か3年目)の出来事。毎年5月になると中学3年生は一般で言う修学旅行に出かける。本校では「修養会」と言う。観光を目的とした旅行ではなく多少観光はするものの聖書を土台とした勉強会が中心となる旅行である。

初日は長崎に入り平和祈念館や26聖人記念館を見て二日目から湯布院入りする。卒業生が営むペンション(と言っても50人は宿泊、研修ができる施設)を拠点として毎日聖書研究やグループディスカッション、レクリエーションや観光を行い夕方からまたキリスト教プログラムが始まる。全行程4泊5日の旅となる。

湯布院入りして2日目のメインプログラムが由布岳登山。1600m弱の比較的登りやすい山である。非常に美しい山で遠くから見ていてもその雄大さと美しさに魅了される。登りやすいと言っても登山なので入念な準備や打ち合わせを繰り返して当日を迎えた。私は毎年修養会の引率で同行し由布岳も何回も登っているからかなり慣れていた。男女でペースが違うため女子が先に登り約1時間遅れで男子が登り始めるという計画を立てていた。私は女子の先頭を任された。女子のしんがりは女性の先生だったが登山直前で足を痛めた生徒がおりその生徒のフォローをするため結局私一人が女子のグループ(生徒21名)を引率して頂上を目指すこととなった。

当時、由布岳は入山口を入るとすぐに直進する道と右に折れる道とふたつあった。予定では直進ルートを通るはずだったが何度も通っている道で少々飽きていたので、本来は絶対にしてはいけないことだがその場になってルート変更をした。右に曲がるルートを選んだ。若干険しい道になるが直進ルートよりも距離が短い。興味のあったルートではあるが初めて通るルートだ。後ろの生徒たちもまさか引率者が行ったことのないルートを選んだとは思いもせずただついてきた。歌を歌ったり色々な話をしながら歩いていたが道が段々と茂みに入っていくのが分かった。若干不安を感じたが近道だからそういうルートなのだろうと思いながら進んでいくと更に大きな岩場。2mぐらいの岩を登らないといけない。「こんなに難しいのかな?」と一抹の不安をおぼえながらも岩の上から生徒たちの手を引っ張り一人一人を登らせた。そしていよいよ道がなくなった。藪をかき分けるようの進むしかなかった。この辺りでやっと登山道を外れている自覚を持った。が、一番いけない教師の例が自分である。
「先生、この道あっているんですか?」という質問に
「大丈夫。何度も来ているから。」と笑顔で嘘をついた。
生徒たちも不安と疲れで限界状態。半べそをかきながら必死にこらえる生徒、跪いて祈る生徒。やっと自分のおかれている状況と自分の全てが間違っていることに気づかされ
遭難‼️  遭難⁉️ 遭難‼️  遭難⁉️ 遭難‼️  遭難⁉️ 遭難‼️  遭難⁉️
「もしかしたら間違えたかもしれない」とやっと生徒に打ち明けることができた。その時点で登山開始から2時間ぐらい経っていた。現代のように携帯電話がある時代ではない。手元にあるのはCB無線機一台。打ち合わせていたチャンネルで男子グループに呼びかけるも応答はない。後でわかったことだがその頃山の肩の下に入っていたようで電波の状態も非常に悪いところにいたようだ。前にも進めず戻ることもできない。明らかに遭難している。唯一ありがたかったのはまだ日中で気温も暖かかったこと。生徒たちは日頃の信仰教育の成果かみんなで円陣を組み一人一人順番に祈っている。本当に申し訳ないことをしてしまった。自分の命と引き換えにこの21名を助けてほしい、と自分も必死に祈った。祈りが終わり生徒たちに
「ごめんね。申し訳ない。」と謝罪すると
「大丈夫だよ。先生のせいじゃないし。神様が必ず助けてくれるからそれを信じて讃美歌を歌おう。」と言ってくれた。
「いや先生のせいだしそれ以外の理由はないよ。」と心の中で思った。登山から3時間ぐらい経った。讃美歌を歌う彼女たちの声が届いたのか少し上の方から声が聞こえた。
「おーぃ。どこにいる?声を出し続けて❗️」男子たちの声だ。助かった、と思った。生徒たちも同じことを考えたようで残ってる力を振り絞って交互に声を出し続けた。勇敢な男子生徒たちが女子生徒の声を頼りに降りて来てくれた。私たちは頂上に比較的近いところにいたようだ。男子生徒が藪をかき分け道無きところに道を作って近づいて来てくれた。

結局私たちはそのまま助けられ、一度頂上まで上がり正規のルートで下山した。後発の男子が、途中で女子と会うことがなかったのに頂上にもいなかったのでどこかで迷っているとすぐに理解してくれていたようである。本当にありがたい。助かった。助けられた。その後同行していた教頭先生に呼び出され叱られたことは言うまでもないが、叱られて済んだからよかった。これで生徒に何かあったら…。考えただけでも恐ろしい。この日自分は教師として、集団を導くものとして、そして人としてやってはいけないことの全てをしてしまった。いまでもこの学年の生徒に会うとこの時の話題が出てくる。恥ずかしいけど笑い話にできたからよかった。自分に教師としての自覚と責任感、適性が全くないことを思い知らされる出来事であった。

 

若い人の力

数年で還暦を迎えるという年齢になってブログを始めることにかなり抵抗があった。何かを残したいのなら自費で本を出版した方が良いのではないか、とかなり悩んだ。難しさがハードルの高さになっていたがそれ以上にブログセンスというか時代の流れと隔絶されたようなものがあると滑稽な気がして手が出せなかった。水族館にフナとメダカのコーナーがあるぐらい滑稽に思えて恥ずかしかった。

しかし背中を押し助けてくれている人たちの存在もある。一人は卒業生でセブ島で活躍する青年。
プロフィールにも色々なことが書いてあるので是非見ていただきたい。特に留学などのアドバイスはピカイチ。お金のないところから這い上がって現在のポジションを築いたsasagu君である。
詳細はこちら→https://sasacebu.com/profile

高等学校で10年ほど「写真部」の顧問をしたことがあった。写真もカメラも好きということが目に止まったのか顧問にしていただいた。多くの学校に「写真部」は存在すると思うが本校のそれは他と少し違う。そもそもクラブ活動ではないのだ。情操教育、知識と技術の習得を目的とした「実業体験学習」というものを取り入れているがその中の一つにこの写真部が存在する。基本的に生徒の希望で配置が決まるが写真部は人気部門の一つ。各学年男女1名ずつ。しかも募集は2,3年のみ。つまり4名しか採用されない。定員に対して応募数が多いときは顧問ではなく別のアレンジをしてくれる部門が決めてくれる。

毎年ユニークなメンバーが集まる。仕事内容はまず基本的なカメラの設定方法、被写体と画角の基本、構図の基本、ライティングなどを一通り教えその後は撮影と編集を繰り返す。特に大きな仕事は卒業アルバムの作成。一般の学校だと修学旅行や遠足などに専属のカメラマンが同行することも多いが本校の場合は写真部員がそれを担当する。結構ハードな仕事である。卒業アルバムのどこに掲載するかをイメージしながら撮影して行く。

ある年の3年生メンバーがyouとmarch。毎年面白いメンバーが集まるがこの年もそうだった。仕事も実直にこなすがとにかくふざけることが大好き。ご当地グルメと称して夏休み中に行ったところのお土産をみんなで持ち寄る企画などもこの年メンバーの発案でやって見た。体育祭は写真部大忙しの行事だが全員参加の競技はそれこそ大変。全員リレーはバトンを渡したらすぐにカメラを受け取る。他の人との何倍も走らないと良い写真は撮れない。最後の競技の綱引きも全員参加の競技だがこのプログラムだけは被写体が多いので写真部は参加せず撮影に専念する。この時、メンバーから「小芝居をしましょう」との提案があり、スターターの雷管の音に合わせて一人が

「なんじゃ、こりゃー」(ジーパン刑事・松田優作風に)
 と言って倒れる。そこに他のメンバーが

「おい、大丈夫か」
「しっかりしろ」
と駆け寄る。それを私が動画で押さえる。
周りでみんなが必死に綱引きをしている最中こんな馬鹿なことをやっているからアナウンスで
「写真部のみなさん、真面目にやってください」と放送されてしまう。写真部の話をしたいわけではない。長くなったがブログを始めるに当たり背中を押してくれたのがweb designerの小悪魔march。彼女も色々と応援してくれている。そして何より卒業生ではないが実務的な助けをしてくれるのが小悪魔marchの彼氏。彼は本職。本当に助けられている。

若い人と関わることで色々なことを学ぶことができ、また気持ちも前向きになる。本当にありがたい話だ。若い人を見て、また色々と助けてもらうことで自分も更にチャレンジしてみたくなった。というわけで先日この歳で自動二輪の教習を申し込んできた。バイクに興味があるわけではないが一度乗ってみたいバイクがある。一つはVespa。普通自動車免許で乗れるものもあるけど自分が乗りたいのは125cc。もう一つがハンターカブ。この免許が取れたら次は趣味に活かせる二級小型船舶免許。自分のことはどうでも良いが若い方々に助けてもらえることは本当にありがたいし勇気付けられる。

虐待 abuse


 現在訳あって一人暮らしをしている。誰とも話すことなく一日が過ぎて行く。日課は聖書の勉強と祈り、そしてジムで汗をかくこと。冷蔵庫が無いので毎日翌日の食材をだけを買って帰る。今日もそうだった。

23時を回ってはいたがスーパーの店内にはまだ若干のお客さんがいた。はじめは気にしていなかったけどずっと聞こえる子どもの泣き声。段々気になり出し買い物を中断して泣き声のする方へ近づいてみた。食品コーナーからかなり離れた化粧品コーナーで母親と思しき女性と小学3年生ぐらいの男の子がいた。男の子は何かを買って欲しいわけでは無さそうだがお母さんと一緒に帰りたく無いようで「帰りたく無い」と泣き叫んでいた。買い物カートには男の子のものと思われるランドセルが乗せられていた。そもそも休前日でも無いのに小学生がこの時間にスーパーにいること自体少し見慣れない光景だしランドセルがあると言う事はこの子は下校してからこの時間まで家に帰っていない事になる。急に胸騒ぎがして女性を時々睨みながらこの二人から離れないようにしていた。数名の買い物客も何か異様な雰囲気を感じたのか付かず離れずの距離を保っていたが私はもっと露骨に近づいた。余程男の子に声をかけようとしたがこの女性のなんとも言えない不自然さに圧倒されただついて行くことしかできなかった。私の執拗な尾行を振り切るかのように二人は店外に出て行ってしまった。

 こういう時どういう対応をすれば良かったのだろうと今も悩んでいる。男の子を見てまず思ったのが「虐待」だった。この子がそういう被害を受けていないことをただただ祈るばかりである。今まで山奥の田舎に住んでおり会う人も顔見知りばかりなのでそのような場面を見た事は一度もなかったが街中で一人暮らしをするようになってから、お母さんから思いっきり叩かれている子どもを何度も見かけた。先週も歩道を歩いている時に向こうから小学1年生ぐらいの男の子とお母さんらしい女性が仲良さそうに手を繋いでこちらに向かっていた。ところが私の20mぐらい手前でこのお母さんが急に男の子を往復ビンタを数回繰り返したのだ。思わずその親子に走り寄ってしまった。男の子は慣れているのか泣きもせずただ耐えていた。胸が締め付けられこちらが泣いてしまった。

 私には子どもが泣いたり悲しんだりするのを堪えることができないのだ。全寮制でお子様を預かっていると色々な背景がある事に気づく。ネグレクトを受けている生徒は結構いる。暴力的な虐待を受けている子も若干いるかもしれない。

 

思い出されるのがK君である。

彼のお母様は彼が小さい頃に病死されその後お父さんは再婚した。女のお子さんがいる女性と再婚したのだ。K君とこの再婚相手のお子さんがひとつ違いということもあり、特にこのお母さんがK君との距離を気にした。はじめはそれほどでもなかったようだが彼が中学に入学してからは食事はお父さん、お母さんそしてこの女の子の三人でとりK君は自室の前に食事が置かれるという対応を受けた。高校生になった彼と私は出会ったがそのような家庭環境を話してくれた。基本的に自室から出る事は禁止で、実のお父さんもお母さんに対して何も言えない関係だったらしい。

 彼はいつも「僕がいると家庭が壊れてお父さんが苦しむんです。早く高校を卒業して新聞配達をして新聞奨学生になりたいんです。」と言っていた。何で子どもが「自分は不要」だなんて思わなくちゃいけないのか、私には理解できない。いつだってそう。いつも子どもが泣かされる。本当に悲しいし涙が出てくる。「そんな事ないんだよ。君が生まれた時、君の家庭がどれだけ明るくなったか。君はみんなから望まれて生まれてきたんだよ。」って全ての子どもに言ってあげたい。育児ノイローゼとか精神疾患とか色々あるのも現実。お母さんだって必死、それも理解しているつもり。でもやはり子どもを苦しめないで欲しい。本当にお願いしたい。虐待を自覚しているなら自分を保護して欲しいと助けを求めて欲しい。もう子どもが苦しむのは耐えられない。

自分の無力さ

 教員生活を振り返ってみると一番長くやっていた仕事がホームルーム担任、しかも高校3年生。次に多いのが中学3年生の担任。およそ30年ぐらい前の話。これまでの教師生活で自分のホームルームから退学者を出したのは一度だけである。家庭の事情による自主退学、生徒指導上の問題で退学になること問わず30余年でただ一人の退学者しか出していない。しかしこの退学者のことが未だに気になっており祈りの課題となっている。

 彼女はOさん。問題行動も確かに多いが思ったことを直ぐに言ったりやったりすることで友達関係がギクシャクすることもある反面リーダーシップをとって集団を導くこともできる。優しく思いやり深いところも彼女の素晴らしいところである。特に後輩の面倒をよく見るので人望も厚く信頼されていた。何回か生徒指導上の問題を起こしていた彼女は私が担任する前から「次は大ですよ。今度問題を起こしたら退学です。」と釘を刺されていた。

 彼女は大きな街の有名な歓楽街でお店を営む家庭に育った。住宅兼店舗でご両親は夕方から二人でお店に出る。夕食はお金を渡されその歓楽街の適当なお店(と言ってもほとんどが呑み屋さん)でとり夜の街を遊び歩いて飽きると家に帰って寝るという生活を小学生の頃から続けていた。そのようなOさんに、コンビニや携帯なし、テレビなし、外出はできず周りは山だけ、起床6時消灯21時30分

<font=red>テレビ❌ 携帯❌ 外出❌ 起床6時 消灯21時30分</font=red>

の生活は少年院のように感じたかもしれない。だから本人の感覚では『ちょっとしたいたずら」が学校としては進退を問われるような重大な問題になってしまう。彼女と話すと常に「ここの生活が厳しいから嫌なのではない。私は誰からも期待されていないし誰からも関心を持たれていない。」という。

 お忙しいご両親なのでOさんゆっくり話す時間が取れないのかもしれない。で、今回とても大きな問題を起こしたのである。因みに私はというとそれまで副担任だったのに初めて一人で担任をさせてもらえるチャンスが与えられ気合いも入っていた。また不良品の中の不良品を代表するような自分なので彼女の言っていることが心に刺さって来る気がした。しかも今回後輩を巻き込んで二人でやったことでもあった。

 Oさん曰く、「先生絶対に言わないでね。実は彼女(後輩)が興味を持ってやっていたことなんだ。私は、そんなことしたらダメって注意をしたんだけど止められなくて。そして二度目も彼女から誘ってきた。一緒にやりましょうって。絶対ダメと止めたけど彼女(後輩)は絶対にやると言って聞かない。だから仕方なく自分は見つからないように見張り役をやっていた。そうしたら先生(私ではない別の先生)がきてその様子を見つけた。咄嗟に彼女を別の部屋に押し込んで証拠となるブツ(物)を自分が持って先生に捕まったの。でも彼女は元々私のせいで問題を起こすようになったから絶対に彼女を守りたい。だから今回のことは絶対に言わないで内緒にして。私だけ指導を受けるように黙っていてね。」という話だった。

 なるほど、と思って聞いていたが
「なんでそこまでして後輩をかばうの?そもそも君の行為は後輩をかばうことになっているのかな?」
 というと
「自分が初めて必要とされたんだよね。彼女は本気で自分を頼り必要としてくれた。今までそんな経験なかったから嬉しくて。」
「でも真実が闇に包まれると君はおそらく退学になるよ」
「それでも大丈夫。人から必要とされたという自信で生きていける気がするから。」

 正直返す言葉がなかった。あれから30年経った今の私なら全く別の対応をしていたと思うが知識も経験もノウハウも何もない自分にはただただ彼女の寂しさとそれを潤す人からの信頼になんとも切ない気持ちになって涙を流すことしかできなかった。彼女の指導を決める会議が行われた。私から事情説明をして、現在のOさんの反省などの様子などを話した。会議初日の雰囲気は9割の先生が退学を提案する感じだった。このまま議論を進めても良いことはないと翌日に会議を伸ばしてもらうことをお願いをした。結局その日はそのまま終了。会議直後信頼している居眠り物理のA先生に彼女から聞いた全てを話し、どうしたら良いかを相談した。色々とアドバイスしてくださった。

 そして翌日の会議。彼女の退学に反対する先生が自分を含めて3人になった。しかし話しは平行線でもう一日結論を先延ばしにすることとなった。

 会議3日目。新米の自分が勇気を振り絞って先輩の先生方と渡り合って発言した。怖かったけどOさんをなんとか学校に残したい一心で精一杯の反抗をした。そして先生方の急所とも言える部分に食い込んだ見た。

「先生方は退学と仰るが、彼女は家に戻ると信仰教育を受けられる環境にないのです。寮が無理なら我が家で預かります。我が家から登校させます。彼女をイエスキリストに導くのか否かが関わって来るとても大きな問題です。私が全ての責任を追うのでどうか退学以外の指導を考えて欲しい。」


と食い下がった。そこで発言したのがチャプレン。チャプレンというのは学校や病院、軍隊などにつく牧師のこと。このチャプレンが


「大丈夫。Oさんのことは僕が面倒を見ます。彼女が退学になっても週に一度は家庭訪問をして聖書研究を施し学校にいるのと同じくらいの濃度で信仰教育をするから安心してください。」


この発言で会議は大きく傾いた。結局Oさんは退学となってしまった。何度も泣いた。そしてOさんに詫びた。

「先生、ありがとう。私は大丈夫だよ」

 という言葉が余計に辛かった。本来退学を伝えるのは校長の仕事であるが、私が本人を連れて保護者の元に送り届け一部始終を話して引き渡した。本当に辛い経験であった。この後Oさんには何度も電話で連絡をし困っていることがないか、力になれることはないかを尋ね近況を話してもらっていた。驚いたのはあのチャプレン。同僚だから悪くは言いたくないが家庭訪問など一度もせず電話すらしていないとのこと。私は自分の教団の指導的な立場の人には問題を感じる人も多くいるけど牧師に対しては非常に信頼している。それは今でも変わらないが、このチャプレンを見てこういう牧師もいるのだと失望した。

 因みに平成最後の年に突然彼女が御詩人と一緒に学校を訪問してくださったようだ。私を尋ねてきてくださったようだが生憎その日は出張で不在。対応した教員が出張で不在であることを告げ連絡先を聞いておいてくれた。その後すぐに彼女に電話をしていると相変わらずあの時の口調のまま。少し酒灼けした声にはなっていたがあのままだった。

「先生に会いたかったんだけど。でもまた会いに行くね。」と言いながら

「そうだ、一つ相談があるんだけど…」
 とお子さんのことを話し始めた。公立中学校の2年生だけど少しやんちゃな女の子さんのようで学校ではよく注意をされるとのこと。彼女が何度も

「大したことじゃなくてちょっとしたことが積み重なって…」

 というのでそのちょっとしたことが何かを聞いたら喫煙と男子に対する暴力とのこと。相談というのは今の学校にいずらくなったので私のいる学校に転校できないか?とのこと。

「そうか」と言いながらも
「うちは厳しいからね…」と言ったら
「そうだよね」と笑っていた。

 イエスキリストという人はこういう方を受け入れたのではないのか、教員を続けながらいつも考えさせられることである。

思い出すと笑ってしまう出来事

 大学生に入学するとすぐに教会の牧師先生から青年会の責任者になって欲しいと言われた。青年会長というものだ。どこの教会にも性別や世代などでグループがあるが私の行っている教会では30歳までを青年会というグループに分ける。当時教会の青年会メンバーは季節参加者も含めると30名ぐらいいた。レギュラーはその半分ぐらい。頼まれたのでその青年会長という役を引き受けた。何をして良いのか分からないのでとりあえず礼拝以外の日(私の行っている教会は土曜日が安息日で礼拝日)にも集まって聖書研究や日頃の出来事を分かち合うプログラムを持った。また修養会と称して夏はキャンプ、春は伊豆大島に渡って聖書の勉強会をした。

 同じ教団の教会が関東だけでも20ぐらいありその殆どに青年会が組織されていた。一つの教会だけでなく関東の教会に集う青年が一堂に会す組織をつくったらより充実したプログラムを持つ事はできるのではないかという話になり、先輩である横浜の教会の青年会長がこの組織のリーダーになった。そして何も分からないまま私が副リーダーになってしまった。活動も多岐にわたっていた。教会に来やすいようにとスポーツ交流会や音楽会、夏に行っていた修養会は100名を超える参加者で賑わった。冬はスキー修養会、クリスマスのキャロリングで表参道をねり歩き、本職のシェフを招いてイヤーエンドパーティーなども行った。一つの教会の活動とこの関東全体の青年会活動共に充実していた。

 スポーツ交流会の一環としてテニストーナメントを提案したのはリーダーの山口さん(男性、実名)。どうせやるなら本格的にやりたいということで色々な部門に分けてそれぞれの優勝と準優勝を表彰する事になった。この山口さん、思いつくのはいいけれど実働部隊は常に私を指名する。会場となるコートは教会が所有しているので問題ないがその他のものは全て私が調達する事になった。差し当たってトロフィーと楯を準備しないと銘板を作るのに時間がかかる。今みたいにネットで検索できる時代ではない。自分の勘ピューターでトロフィーを扱っているお店を必死に思い出した。そう言えば小学生の頃電子部品を買いに神田の方に行っていた御茶ノ水に向かう坂の途中にトロフィーを扱う店があったことを思い出した。とりあえずお茶の水に行ってみた。

 昔のままの佇まいでその店はあった。早速幾つかのトロフィーと楯、それにつけてもらう銘板を注文した。こちらが学生だと分かったためか邪険に扱われた。私も少々気分を害したが個人の客ではなく教会のメンバーとして来ているのでぞんざいな態度も取れない。出来るだけ丁寧に受け答えをして注文完了。一週間ほどで仕上がるので取りに来るよう言われた。正直な気持ちを言うと邪険に扱われ心も折れかかっていたので受け取りに行くのは山口さんにお願いできないかと考えた。

 電話で注文が完了したことと一週間後に出来上がること、そしてそれを山口さんが取りに行くことを伝えた。「何で東京にいる君が行かないで横浜の僕が行くのか」と叱られた。付け足しとして、注文した楯の一つは今回の企画のものではなく山口さんが個人的に作ったものらしい。で、領収書を分けるようにと面倒な指示まで頂いた。仕方がないので一週間後、引き取りに行った。対応したのはまたあのおじさんだ。憂鬱な気持ちになった。

 商品を受け取り確認を済ませて

「領収書をお願いできますか?」
  と言うと想定内の返答。

「え、領収書いるの?ったく」
 すみませんと恐縮しながらお願いした。

「で、宛名は?上でいいの?」。
言い忘れたが関東の教会が集まった組織を「関東連合青年会」という。なんとも仰々しい名称である。

「すみません。宛名は一枚を関東連合青年会に、そしてもう一枚を関東連合青年会山口宛でお願いします」

と言った途端におじさんの表情が明らかに変わった。

「あ、間違えた。これ値引き前の値段だ。お客さん、割引しておきますね。」

「それと山口の後に組はつけなくていいですか?」

明らかに任侠的な集団と勘違いしている。それからお店を出るまで終始媚びるような笑顔で対応してくれた。キリスト教会の組織で関東連合青年会、やはりそぐわない気がする。35年以上前の話だが今でも思い出すと笑ってしまう。

嵐の海で

 人の欲求の一つに「分かって欲しい、理解して欲しい」という気持ちがあると思う。程度の差はあっても誰にでもある欲求であると考える。例えば、運動会で苦手な徒競走があったとする。当日家を出る時に家族から「苦手でも、不得意でも徒競走を最後まで走り抜くことが素晴らしいんだ。そんな君の姿を今日は家族みんなで見ているぞ。」と言われて送り出される。実際に見にきている家族を見つける。家族は自分が運動嫌いで特に走ることが大嫌いなことを知っている。しかし、嫌いな徒競走から逃げることなくチャレンジすることを理解しずっと見ていてくれる。「分かってくれる人がいる」と実感できるだけで心の重荷は軽くなる。嫌いな徒競走を代わって欲しいわけではない。ただ理解して見守ってくれるだけで勇気が出て来る。

 聖書はとても厚い本だがその中を大きく二つに分けることができる。前半が「旧約聖書」後半が「新約聖書」である。新約聖書はまず4つの「福音書」から始まる。これは主にイエス・キリストの誕生から十字架までの生涯を記しており特に「マタイによる福音書」「マルコによる福音書」「ルカによる福音書」の3つを共観福音書という。これらの福音書は同じ記事を扱っていることが多く並行して読むことで状況や情景が浮かび上がって来る。マタイによる福音書14章、マルコによる福音書6章には同じ記事が記されている。 


<聖書の引用>
 みんなを帰したあと、ただお一人になったイエスは、祈るために丘に登って行かれました。 一方、湖上は夕闇に包まれ、弟子たちは強い向かい風と大波に悩まされていました。朝の四時ごろ、イエスが水の上を歩いて弟子たちのところに行かれると、 26弟子たちは悲鳴をあげました。てっきり幽霊だと思ったのです。しかし、すぐにイエスが、「わたしです。こわがらなくてよいのです」と声をおかけになったので、彼らはほっと胸をなでおろしました。その時、ペテロが叫びました。「先生。もしほんとうにあなただったら、私に、水の上を歩いてここまで来いとおっしゃってください。」「いいでしょう。来なさい。」言われるままに、ペテロは舟べりをまたいで、水の上を歩き始めました。 ところが高波を見てこわくなり、沈みかけたので、大声で、「主よ。助けてください」と叫びました。イエスはすぐに手を差し出してペテロを助け、「ああ、信仰の薄い人よ。なぜわたしを疑うのです」と言われました。 32二人が舟に乗り込むと、すぐに風はやみました。舟の中にいた者たちはみな、「あなたはほんとうに神の子です」と告白しました。
(マタイ14:23-33)

 

 ガリラヤでの伝道報告会をしているときに群衆が押し寄せイエスのところに集まった。彼らを空腹のまま帰すわけにいかないので2匹の魚と5つのパンで(成人男性だけで)5000人を養う奇跡のあとの出来事。イエスは疲れている弟子をねぎらい群衆から離れて静かなところに行くよう促すと弟子たちは船を漕ぎだして対岸に向かわせた。この時イエスは船には同乗せず陸にいた。船を漕ぎだして間も無く嵐に遭い弟子たちは何時間(9時間?)も格闘していた。その時イエスが海の上を歩き弟子たちに近づき助けるという話。

 この時海の上を歩くイエスを見て弟子の一人ペテロがイエスに、自分も水の上を歩けるようにして欲しいと願うと、イエスから「いいでしょう。来なさい。」と言われる。しばらくは歩けたが高波を見て恐ろしくなったペテロは急に溺れてしまい間一髪のところでイエスに助けられる。ペテロはイエスの招き、指示に従って視線をイエスに向けているときは水の上を歩けたが視線をイエスから嵐に向けた途端に溺れてしまったのである。

 これは私たちの人生に大きな教訓となる話。キリスト教(プロテスタント教会)は難しいことを教えていない。イエスキリストが自分の罪を許すために十字架で死なれ墓に葬られ、そして3日目に蘇り今は天にて私たちのために働いて(キリスト教界ではとりなしという)くださることを信じるだけで救われる。

 良い人、得を積んだ人、長年教会に通っている人、聖書をよく理解してその知識が豊富な人が救われるのではない。救いは神様側の一方的な恵みで、人間の側で何か努力をして得られるものではない。即ちいまこの文章を読んでいる人も救われる(神様の側からすれば是非救いたい)存在なのである。神様を信じてイエス様から目を離さずに生きるとき、大きな力が溢れるように与えられる。しかし少しでも現実の高波(家庭の問題、健康の問題、人間関係、不安な将来、パワハラの被害、困窮した生活等々)に目を向けた瞬間「幾ら神様でもこの問題を解決することはできない」と思ってしまう。これを不信仰という。実際自分もイエスキリストを見上げているときは問題がありながらも前を向けるが、一旦現実の生活や家族、解雇などを考え始めると心は「死にたい。こんなに不安で辛い気持ちを持ちながら生きるくらいなら死にたい。一瞬怖いのを我慢すれば永遠に苦しまないで済む死を選びたい。」という気持ちになってしまう。ペテロの経験はイエスを信じることの単純さと奥深さを教えているように思う。

 自分が今ここで書きたかったのはペテロのことだけでなくもう一つのことである。弟子たちが海で激しい嵐と格闘しているときイエスは何をしていたのか?ということだ。並行箇所のマルコによる福音書にはこう書いてある。

<聖書の引用>
 それからすぐ、イエスは自分で群衆を解散させておられる間に、しいて弟子たちを舟に乗り込ませ、向こう岸のベツサイダへ先におやりになった。そして群衆に別れてから、祈るために山へ退かれた。夕方になったとき、舟は海のまん中に出ており、イエスだけが陸地におられた。ところが逆風が吹いていたために、弟子たちがこぎ悩んでいるのをごらんになって、夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らに近づき、そのそばを通り過ぎようとされた。彼らはイエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。みんなの者がそれを見て、おじ恐れたからである。しかし、イエスはすぐ彼らに声をかけ、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と言われた。そして、彼らの舟に乗り込まれると、風はやんだ。彼らは心の中で、非常に驚いた。
(マルコによる福音書6:45-51)

 イエスは弟子たちだけを船に乗せて自分は祈るために山に登っていた。そして「弟子たちが漕ぎ悩んでいるのをご覧になって…」とあるようにイエスはこの状況をずっと見ていたのである。「見てないで助けてよ」と思う人もいるかもしれない。が、私はそう思わない。前述の運動会の例のように。分かってくれる人、理解してくれる人が見てくれているだけで力が湧いて来る。

 今窮地に立たされ誰からも理解されず途方にくれている人もいらっしゃるかもしれない。孤独を感じ「誰もこんな自分を理解してくれない」と思うことがあるかもしれない。しかしイエスキリストはずっと見ていらっしゃる。流した涙も、泣きながら祈った姿も、もうダメだと思って多量の眠剤を飲もうとした姿も。

 昨日の新聞で小田急線に飛び込んだ親子の記事を読んだ。飛び込む前に何度もためらい1時間も行ったり来たりしている様子が防犯カメラに写っていたとのこと。この様子もイエスキリストは見ていたのだと思う。時々「死にたい」と思ってしまう自分だが人の死にはものすごく心が痛む。そして「神様を信じるまで絶対に死なないで」という気持ちになる。矛盾しているけどこれが本心である。

 何れにしてもイエスキリストという方がクリスチャンであろうとなかろうと全ての人を救いたいという優しい眼差しで見ておられる、ということを書きたかったのである

難病を乗りこえて

 関東にある系列中学校で働いていたときのこと。この学校で働くようになった経緯はまた別の機会に書くことにして、退職を希望していたのに異動になったことや、そもそも退職を希望するに至った出来事にためにひどく落ち込んでいる時だった。しかしこの時期、またこの学校で働かせていただいた経験の全てがいまの自分を励ましてくれる。

 4月1日、仕事始め初日の教職員会議で、ある一人の生徒さんのことが報告された。三郷に住むEさんという中学3年生の女子生徒さんである。微熱が長期にわたって下がらず始業式までに回復する見通しが立たないとのこと。自分は2年生の担任なので自分の担当ではないと思いながらも何かとても気になり胸騒ぎをおぼえた。長期間の微熱。あることが思い出された。

 自分の従兄弟のことだ。極端に体調が悪いわけでもないが微熱が続きだるさが取れない症状。病院に言っても「風邪でしょ」などと言われて風邪薬を処方されるも一向に改善の兆しがない。心配した両親(叔父、叔母)が私のかかりつけの医院が名医と評判だったのでそこで受診することに。病院ではなく所謂診療所だ。当時は非常に開放的で診察室で数名の患者さんが順番を待っている状態。流石に大人は奥の診察室に行くが子どもならみんなの前で聴診器を当てられお尻に注射をされる。そんな診療所だが腕は確か。当時三歳の従兄弟がこの診療所で診てもらうと先生が「これは少し厄介な病気かも知れない。紹介状を書くので日大病院に行くように」との指示。検査をしないとはっきりしないがおそらく「白血病」だとおもわれる、とのことだった。果たして大学病院で検査をしてみると本当にその病気だった。

 そんなことが思い出されたのでこの中学3年生のEさんの微熱、風邪症状、だるさなどの報告を受けて嫌な予感が日に日に募っていった。それから2週間後、彼女は検査のために入院し、ほどなくして「白血病」との診断を受けた。胸が締め付けられるように痛くなった。現在は多くの効果的な治療法が見つかり、二十歳未満の寛解は8割以上ときくがその頃(およそ30年前)はそうではなかった。従兄弟も5歳で亡くなった。そのような嫌なことしか連想できず真剣に祈る毎日だった。書店に行けば白血病関連の本を買い求め、医師になった友人たちにも色々と相談した。まだ一度も会ったことがないEさん、しかし学校にいれば私の数学と理科の授業を受けるはずの生徒さんである。

 自分一人でも、また彼女の同級生とも祈った。聖書に出てくるイエス・キリストという方はその公生涯において実にたくさんの人を癒された。目の見えない人、耳の聞こえない人、喋れない人、足が不自由な人、長年出血に悩む女性、悪霊に取り憑かれ自分で自分を引き倒し傷つける人等々。病人だけではない亡くなった方を生き返らせる力も持っている。だから私たちクリスチャンは同じ癒しを求める祈りをささげる。

 Eさんは入院してから非常に辛い治療を受けそれに耐えていた。そしてその甲斐あって2学期のある日、彼女は学校に戻ってきた。初めて見るEさん。とても明るく闊達でいつも周りを笑わせている、それが私のEさんに対する第一印象。髪の毛さえ見なければ彼女が大病を患っていることなど誰も分からない。彼女は「初めましてEです。よろしくお願いします。」と初対面の私に挨拶に来てくれた。彼女の明るさに助けられて「理科は何とかなるけど数学はかなり進んだからこれから特訓だよ。高校受験が控えているんだから。」と大笑いしながら言ってみた。「先生、ありがとうございます。元気なときは毎日補習してください。無理かも知れないけど、私高校に行きたいんです。」と彼女。「無理かも知れないけど…」心に刺さる言葉だった。泣きそうになった。私の曇った表情を読み取ったのか「じゃ、早速今日から補習してください。私、メッチャ頭悪いですから焦りますよ(笑)」と言って去っていった。

 実際その夜から補習をした。治療の合間に学校に戻っているため今回学校に居られるのは2週間だけ。とにかく毎日補習をした。体調が良さそうな時はフルに。でも表情がすぐれない時は15分ぐらいやっておしゃべりをして終わる、そんな感じだった。予定の2週間が経ち彼女はまた病院に戻って行った。そしてまた治療がひと段落すると学校に来る、ということを繰り返した。そして病院での治療が落ち着いたところで自宅療養に切り替え今度は自宅と学校で過ごすようになった。自宅にいるときも今まで同様補習を続けようと考え週に2,3回彼女の家を訪問することを提案してみると快諾、というか非常に喜んでくれた。

 本当は数学の補習などどうでもよかった。ただ厳しい現実を直視しているEさんに寄り添いたかった。彼女の不安や怒り焦りや寂しさ、など全てをぶつけてほしいという気持ちで家庭訪問を続けた。学校から彼女の家までは高速を使えば2時間弱で行けるのでそれほど負担でもなかった。

 そしていよいよ高校の願書を提出する時期を迎えた。彼女は私が働いて居た前任校に進学したいと希望した。勿論全寮制。しかも彼女の家から900kmぐらい離れている。今までのように自宅と寮の二重生活が容易にできる距離ではない。彼女のお母様は本人の希望を叶えてあげたいと言いながら本心は心配なので手元に置きたいとのこと。結局彼女はその900km離れた系列の高校に合格し進学を果たした。色々な事情が考慮され彼女のこととは全く別の理由で私も同じタイミングでその学校に異動することとなった。不安を抱えながらも毎日彼女の様子をお母様に報告できることは双方にとって良いことだった。何度か体調を崩すことはあったがそれでも明るく前向きに生活することができた。

 当時の記憶がはっきりしないが、病院で一通りの治療を受けたあと主治医から「やれることは全てやりました。これからどうなるかは分かりませんがかなり高い確率で再発することが考えられます。」とお母様は言われたそうだ。そしてそれから大豆タンパク(曖昧な記憶)を用いた食餌療法を行なったと聞いた。その効果なのか本人の免疫力なのか、また周りの祈りの力なのか。恐らく神様が彼女を目的があって生かしてくださったのだと思うが兎に角彼女は高校を卒業することができた。そして系列の大学(看護学部)に進学しクリスチャンナースとして人々に奉仕するようになった。

 現在結婚もしてお子様を育て上げ元気に生活しておられる。こういうことを奇跡と言うのだろう。ある人は難病でも癒され、ある人は生涯を終えられる。

 旧約聖書にヨブという人がいる。彼はすべてのものを与えられまたそれらが一瞬で失われる経験をした。その時に「主は与え、主はとりたもう。主の御名はほむべきかな」と言っている。何故あの人が癒されなかったのか?という疑問を持っている。何故なのかを教えて欲しいところだが神の摂理を全て理解することはできないと言われている。やがてイエスキリストがもう一度この地上に戻って私たち人類を救ってくださり天の御国に行った時にその理由を教えてもらえる。

 理由は分からないが今生かされていることには何か意味があるようだ。私のように「死にたい」と切望するような人間も今は生きることが要求されている。「生きたくても生きられない人がいるのだから、死のうなどと思わないで生きなさい」という人がいる。恐らく死にたい人の気持ちを理解したことがない人なのだろう。しかし生かされている以上何か意味と目的があるのかも知れない。それがどんなに険しい茨の道でも。

あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。  Ⅰコリント10:13

There hath no temptation taken you but such as is common to man: but God is faithful, who will not suffer you to be tempted above that ye are able; but will with the temptation also make a way to escape, that ye may be able to bear it.

生徒の夢

 新任教師として中学校に赴任して中学の理科全般、技術家庭などを受け持ったが高等学校の物理も担当していた。当時は物理Ⅰ、物理Ⅱという講座名だった。物理Ⅱは選択科目設定してあり理系の大学進学を考えている生徒、また医歯薬系の受験生が受講する科目と位置付けられていた。最初の年の物理Ⅱ受講者は医学部進学希望が3名、そして歯学部希望が1名いた。

 歯学部進学希望の女子生徒Mさんはとても明るく元気の良い子で人一倍やる気のある生徒さんだった。最初の授業でオリエンテーションを行い2回目で彼らの実力がどの程度なのかを知るためにプレースメントテストを行った。そこまで難しくない内容だったが殆どの生徒さんが物理Ⅰの内容を8割程度理解している様子だった。しかし、このMさんが少しよくなかった。よくなかったというか非常に悪かった。物理Ⅰの内容をほとんど理解していない様子。Mさんは東京出身、家もそこまで離れたいないということもあり長期休暇(夏休み、冬休み、春休み)は実家に帰省している私もMさんも共に同じ教会に出席していた。そんなこともあり彼女は物理を担当する前から顔見知りではあった。ご両親が歯科医で彼女も後を継ぐために歯学部受験を考えているとのこと。が、現役で歯学部はかなり厳しい状況だった。

 物理だけならなんとかなったかもしれないが数学も英語も深刻な状態。そこで、寮制のメリットでもある夜間補習を週5日行うことにした。毎日わずか2時間ではあるが徹底的に物理を教えようとした。ちなみに彼女の実力、時速を秒速に変換する何でもない問題で「Mさん、1時間は何秒?」という質問に対して「少し待ってください」とじっと下を見て考えている様子。少し時間が経ったので「難しかったかな?」と聞くと「しっ!」と叱られてしまった。彼女は自分の腕時計を見ながらずっと数えていたようだった。これがMさんの実力と真面目さ。

 しかしやる気だけは人一倍ある彼女は卒業までこの補習を受け続けた。現役受験の時は全て不合格。どこかに彼女の真面目さとやる気を評価してくれる大学はないかな?などと考えていた。

 Mさんが卒業して最初の夏休み、地元の教会で彼女にあった。合格させられなかった負目もあり私の方からは声を掛けづらい状況だったが彼女の方からいつもの屈託のない笑顔で

 「先生、お元気ですか?私決めたんですよ」と切り出してくれた。

 「決めたって何を?」

「私浪人して予備校に通っていたんですけどやはり合わないなって思ったんです」

「合わないって、予備校が?歯学部が?」

「いえ、日本が」

「…」

「で、私留学することに決めました。来週日本を発ちます。」

「そ、そうか。そ、それはよかった。」

 本音をいうと「日本でも難しいのに言語のハードルをあげて渡米するってどういうこと?」という気持ちを持ってしまった。大丈夫かな、と心配する教師のことなど意に介さず結局彼女は渡米し留学。4年ぐらい経った夏休み。私は数名の先生方とアメリカを2週間キャンプしながら旅をするチャンスに恵まれ、勿論途中で彼女との再会を果たした。何と彼女はE.S.L.をきちんと終了して正式に歯学部で学んでいた。その後e-mailというのが少しずつ流行りだしMさんとも時々連絡を取っていた。

 その後Mさんはある牧師さんと結婚し歯学部ももう少しで卒業というところで家庭に入ることに。しかし、その後も彼女の歯科医になりたいという夢は消えることがなく、また大学で学び始め卒業を果たした。しばらくは歯科医としてクリニックで働いていたがお子さんが生まれて子育てに追われるようになりまた家庭に入って専業主婦に。

 彼女が歯科医になっただけでも信じられない話なのだが、更に奇跡は続く。

 お子様方が小学校に入るようになり、少し自分の時間が取れるようになったある日、ご主人(牧師)の教会に一人の見慣れない初老の男性が来られた。初めて来られた方だったのでこの牧師さんと牧師夫人(Mさん)はこの男性と昼食を摂りながら色々なお話ししたとのこと。聞けば、この男性は歯科医だったけど年齢的に仕事を続けるのが難しいと思い、自身のクリニックを手放して今は各地を旅行で回っているという。彼女が、自分も歯科医であることを告げると「私のクリニックを居抜きで買わないか」と言ってこられた。相場の90%offぐらいの価格だったらしい。結局彼女はそのクリニックを破格の値段で買取自分のクリニックを開院した。

 人間的に考えた時に「絶対に無理」ということがある。確かにあると思う。世の中で受験指導で評価される先生というのは無理なものは諦めさせ余計な夢を見せずに、でももしかしたら到達できるかも知れないところに生徒を導き合格させられる人なのかもしれない。

 しかし自分はそのような価値観が一番大切だとは思っていない。人の人生など高校生や中学生の実力、特に学力だけでは決して判断できないし、彼らを導く神の存在を無視して将来など決して考えられない。夢を持つ責任はあると思うがあまりにも現実だけで全てを判断してしまうと人を傷つけるだけで終わってしまうと思う。現にMさんは進学指導に定評のある先生が見たら10人が10人歯学部受験を諦めさせてであろう。しかし彼女はそのような先生に出会わなかったおかげで歯科医に慣れた、というか自分の夢を叶えることができたのである。

 このような話は私の教員生活でいくつも経験したことである。目に見えない世界を意識して生徒を見たら救われる生徒さんもいるように思う。

 

ラザロって誰?ラザロの家って何?

<bgcolor=red>

 イエスキリストが神という存在でありながら人類の罪を全て贖う(自分の死によって人々を罪の無いものとする働き)ために人間となってこの世界にこられました。キリスト教の用語でこれを「キリストの受肉(じゅにく)」と言います。イエスキリストは大工の息子として生まれ、成長しますが31歳頃「バプテスマのヨハネ」という人からバプテスマ(先例)を受けます。これ以降を「イエスキリストの公生涯(こうしょうがい)」と言います。公生涯の期間はおよそ3年半。その間に弟子たちを12名の弟子を集め人々に福音を伝えられました。ユダヤ、サマリヤ、ガリラヤ地方を始め色々な場所で福音を伝えられました。転々と各地を巡り歩くため野宿をしたり迎え入れてくれる人の所に泊まって雨風を凌いでいました。

 「死海」の西側にエルサレムがありますがそこから3kmほどのところにベタニヤ村という集落があります。ここにマルタ(長女)マリヤ(次女)そしてラザロという人が住んでいました。聖書によるとイエスキリストはこのラザロの家を好んで訪問していました。そしてラザロたちもイエスキリスト御一行を心から歓迎していました。イエスキリストを招いたラザロの家はいつも愛と喜びで満ち溢れとても良い雰囲気であったと想像できます。

 イエスがヨルダン川の東側、ぺレアというところで伝道活動をしているときにラザロが病気で死にそうであるとの連絡を受けました。ぺレアからラザロのいるベタニアまでは徒歩で1日の距離。その知らせを受けて尚2日イエスはぺレアに滞在し活動しました。実は使いのものがイエスのところに行くためにベタニアを出発した直後にこのラザロは病のためなくなってしまったのです。

 知らせを聞いてから尚2日滞在したイエスは

「我が友ラザロのところに行こう」

と1日の距離を歩いてベタニアに向かいました。お分かりでしょうか。使いがイエスのところに行くのに1日、尚2日ぺレアに滞在し1日かけてベタニアに行ったわけですからラザロが亡くなって4日経った時にイエスはラザロの亡骸に対面するのです。ラザロは白い布に包まれて既に墓に葬られていました。

 当時ユダヤでは死者の魂は死後3日の間その肉体の周りをさまようと考えられていました。ですから3日以内に蘇生する人は稀にいたのかもしれません。

 しかしその蘇生の見込みもなくなった4日目にイエスはラザロのいる墓に向かって

「ラザロよ出て来なさい」

と言われました。すると本当にラザロが墓から出て来たのです。これが「ラザロの復活」という実話です。

 イエスが方々で病人を癒したり目の不自由な方を見えるようにしたり悪霊に取り憑かれている人を自由にするので、イエスの力が「ベルゼブル」という悪魔の力によるものであり神を冒涜する行為であるとユダヤ人指導者は考えていました。しかし今回は死者の復活という決定的な「メシア(救い主)にしかできない奇跡」を行ったためユダヤ人指導者(祭司長、パリサイ人など)は驚きと悔しさで当惑してしまいました。結局イエスの力を証明する生き証人であるラザロを殺すことにしてしまうのです。

 余談ですが私は身を隠したラザロがイエスキリストの十字架の場面でどこにいたのかを考えるのが好きです。いつも楽しい交わりをさせていただき、思い出もたくさんあるイエスキリスト。その方が十字架にかかる重大な場面でラザロは自分の命惜しさに隠れ続けていたとは思えないのです。どこかでずっと十字架上のイエスを見ていたのではないかと思いその場面を勝手に想像しています。

 長くなりましたがこのブログで出てくるラザロという人物がどのような人かお分かりいただけたでしょうか。そしてイエスが最も好んで何度も訪れていたのがラザロの家です。

今日も行ってみよう

ここに行けば何かがある

そのような場所になりたいと考え

「ラザロの家」

というタイトルをつけさせていただきました。私は悪人ですのでラザロとは対照的な人間ですので自分のことをラザロと言っているのではありません。ただラザロの家を目指して行きたいと思っています。

</bgcolor=red>

問題児?

 

 赴任して最初に与えられた校務分掌の一つが中学3年生の副担任であった。記憶が曖昧ではあるが46名の生徒がいた。男子20名、女子26名。男子はいつも穏やかで信仰心に篤く誠実な生徒がほとんどだった。これに対して女子26名がとにかくうるさくて授業中などは学級崩壊寸前の状態。女子と言っても26名のうち13名は非常に大人しく学習にも実直に取り組むタイプの生徒。それに対してもう一つのグループの13名は常に賑やかで問題を起こすこともよくあった。

 新卒の私などは彼女たちの格好のターゲットであった。「先生、私の枕に縫い針が仕込まれていました」と泣きながら訴えてくる生徒。こちらも色々と調べ他の生徒からも情報を集めたが結局彼女の虚言であることが発覚。授業中も「先生の授業つまんなーい」「全然わかりませーん」などと言われる始末。当時はまだ鬱という言葉を知らなかったが自分の心が弱っていくのを感じた。出勤にため家のドアを開けようとするがどうしてもそれができない。自分がおかしくなっていくような気がした。唯一の救いが天使のような20名の男子。彼らが「先生大丈夫?」「気分転換にサッカー野郎」と誘ってくれた。彼らと良い方の13名女子がいたから何とか出勤できた。

 何の問題だったか忘れたがこの13名が一斉に問題を起こし全員自宅に帰し謹慎処分としたことがあった。まだ生徒からも受け入れてもらえていない自分が生徒を連れて彼女たちの家に行き親御さんに事情を説明し反省を促すのである。保護者面接もしたことがない自分が赴任一ヶ月で生徒指導で家庭訪問。絶対にあり得ない、と泣きたくなる思いで一旦自宅に戻り準備をした。そして急いで身支度を整えて家を出たら家の前にあの怖くて愛情深い教頭先生の車が。

 「乗りなさい」と言われ車に乗り込むと「君のホームルームなんだから君が親御さんにきちんと話しなさい。そして自分の気持ち、特にお子さんに対する君の愛情を伝えなさい。私はオブザーバー兼運転手で一緒に行くだけだから」と言ってくださった。不安で不安で仕方なかったから一気に涙が溢れて来た。今の時代、「怖い」というだけで敬遠してしまう若者が多いと聞くが怖さの先に深い愛情を持って育てようとする上司もいる。幸運なことに自分はそのような上司に巡り会えた。

 それからも色々な問題を起こす13名だったが私自身の気持ちをきちんと伝えることで少しずつ彼女たちの距離が縮まった気がした。

 2学期のある日この13名が私のところにきた。一人一人との距離は縮まった気がしていたが集団となるとやはり威圧感はあった。「あんたが言いなよ」「なんで私なの?あんたでしょ」などと小声で話していたが一人の生徒が「実は」と話し始めた。自分たちは確かに問題児だけど自分たちもどうして良いかわからないでいる、先生たちが私たちを問題児と決めつけるから余計に反抗して来た、先生(私のこと)は私たちのことを問題児と見るのかそうではないと見るのかずっと試して来た、だから今まで辛く当たってすみません、という内容だった。

 彼女たちが叫んでいたこと、分かって欲しいと訴えていたことに全く気づいていなかった自分を恥じた。そしてそのままを話し彼女たちを問題児と見ていたことを謝罪した。しかし先輩の先生方は決して君たちを問題児として見てはいなかったことを付け加えた。実際、彼女たちに対する指導方針を考える会を何度も持って来たが先輩の先生方から彼女たちを排除する発言は全くなく「まだ何かできることがあるはずだ」とみんなが真剣に話していた。そのことを彼女たちに伝えたら驚いた表情で口を開けながらも一人またひとり涙目になっていた。

 誰もが自分を分かって欲しい、と思っている。それは生徒だけでなく大人だってそう。そして人を育てる、特に方向性を変えることができるのは愛情だけであることもこの時学んだ。教員生活半年で最も大切なことを全部教えていただいた。勿論その後このホームルームの雰囲気は見違えるように良くなり最上級生として下級生から尊敬され慕われる存在となっていった。元々の問題児なんていない。ただ彼らを見る目が悪意なら彼らを問題児にする。