難病を乗りこえて

 関東にある系列中学校で働いていたときのこと。この学校で働くようになった経緯はまた別の機会に書くことにして、退職を希望していたのに異動になったことや、そもそも退職を希望するに至った出来事にためにひどく落ち込んでいる時だった。しかしこの時期、またこの学校で働かせていただいた経験の全てがいまの自分を励ましてくれる。

 4月1日、仕事始め初日の教職員会議で、ある一人の生徒さんのことが報告された。三郷に住むEさんという中学3年生の女子生徒さんである。微熱が長期にわたって下がらず始業式までに回復する見通しが立たないとのこと。自分は2年生の担任なので自分の担当ではないと思いながらも何かとても気になり胸騒ぎをおぼえた。長期間の微熱。あることが思い出された。

 自分の従兄弟のことだ。極端に体調が悪いわけでもないが微熱が続きだるさが取れない症状。病院に言っても「風邪でしょ」などと言われて風邪薬を処方されるも一向に改善の兆しがない。心配した両親(叔父、叔母)が私のかかりつけの医院が名医と評判だったのでそこで受診することに。病院ではなく所謂診療所だ。当時は非常に開放的で診察室で数名の患者さんが順番を待っている状態。流石に大人は奥の診察室に行くが子どもならみんなの前で聴診器を当てられお尻に注射をされる。そんな診療所だが腕は確か。当時三歳の従兄弟がこの診療所で診てもらうと先生が「これは少し厄介な病気かも知れない。紹介状を書くので日大病院に行くように」との指示。検査をしないとはっきりしないがおそらく「白血病」だとおもわれる、とのことだった。果たして大学病院で検査をしてみると本当にその病気だった。

 そんなことが思い出されたのでこの中学3年生のEさんの微熱、風邪症状、だるさなどの報告を受けて嫌な予感が日に日に募っていった。それから2週間後、彼女は検査のために入院し、ほどなくして「白血病」との診断を受けた。胸が締め付けられるように痛くなった。現在は多くの効果的な治療法が見つかり、二十歳未満の寛解は8割以上ときくがその頃(およそ30年前)はそうではなかった。従兄弟も5歳で亡くなった。そのような嫌なことしか連想できず真剣に祈る毎日だった。書店に行けば白血病関連の本を買い求め、医師になった友人たちにも色々と相談した。まだ一度も会ったことがないEさん、しかし学校にいれば私の数学と理科の授業を受けるはずの生徒さんである。

 自分一人でも、また彼女の同級生とも祈った。聖書に出てくるイエス・キリストという方はその公生涯において実にたくさんの人を癒された。目の見えない人、耳の聞こえない人、喋れない人、足が不自由な人、長年出血に悩む女性、悪霊に取り憑かれ自分で自分を引き倒し傷つける人等々。病人だけではない亡くなった方を生き返らせる力も持っている。だから私たちクリスチャンは同じ癒しを求める祈りをささげる。

 Eさんは入院してから非常に辛い治療を受けそれに耐えていた。そしてその甲斐あって2学期のある日、彼女は学校に戻ってきた。初めて見るEさん。とても明るく闊達でいつも周りを笑わせている、それが私のEさんに対する第一印象。髪の毛さえ見なければ彼女が大病を患っていることなど誰も分からない。彼女は「初めましてEです。よろしくお願いします。」と初対面の私に挨拶に来てくれた。彼女の明るさに助けられて「理科は何とかなるけど数学はかなり進んだからこれから特訓だよ。高校受験が控えているんだから。」と大笑いしながら言ってみた。「先生、ありがとうございます。元気なときは毎日補習してください。無理かも知れないけど、私高校に行きたいんです。」と彼女。「無理かも知れないけど…」心に刺さる言葉だった。泣きそうになった。私の曇った表情を読み取ったのか「じゃ、早速今日から補習してください。私、メッチャ頭悪いですから焦りますよ(笑)」と言って去っていった。

 実際その夜から補習をした。治療の合間に学校に戻っているため今回学校に居られるのは2週間だけ。とにかく毎日補習をした。体調が良さそうな時はフルに。でも表情がすぐれない時は15分ぐらいやっておしゃべりをして終わる、そんな感じだった。予定の2週間が経ち彼女はまた病院に戻って行った。そしてまた治療がひと段落すると学校に来る、ということを繰り返した。そして病院での治療が落ち着いたところで自宅療養に切り替え今度は自宅と学校で過ごすようになった。自宅にいるときも今まで同様補習を続けようと考え週に2,3回彼女の家を訪問することを提案してみると快諾、というか非常に喜んでくれた。

 本当は数学の補習などどうでもよかった。ただ厳しい現実を直視しているEさんに寄り添いたかった。彼女の不安や怒り焦りや寂しさ、など全てをぶつけてほしいという気持ちで家庭訪問を続けた。学校から彼女の家までは高速を使えば2時間弱で行けるのでそれほど負担でもなかった。

 そしていよいよ高校の願書を提出する時期を迎えた。彼女は私が働いて居た前任校に進学したいと希望した。勿論全寮制。しかも彼女の家から900kmぐらい離れている。今までのように自宅と寮の二重生活が容易にできる距離ではない。彼女のお母様は本人の希望を叶えてあげたいと言いながら本心は心配なので手元に置きたいとのこと。結局彼女はその900km離れた系列の高校に合格し進学を果たした。色々な事情が考慮され彼女のこととは全く別の理由で私も同じタイミングでその学校に異動することとなった。不安を抱えながらも毎日彼女の様子をお母様に報告できることは双方にとって良いことだった。何度か体調を崩すことはあったがそれでも明るく前向きに生活することができた。

 当時の記憶がはっきりしないが、病院で一通りの治療を受けたあと主治医から「やれることは全てやりました。これからどうなるかは分かりませんがかなり高い確率で再発することが考えられます。」とお母様は言われたそうだ。そしてそれから大豆タンパク(曖昧な記憶)を用いた食餌療法を行なったと聞いた。その効果なのか本人の免疫力なのか、また周りの祈りの力なのか。恐らく神様が彼女を目的があって生かしてくださったのだと思うが兎に角彼女は高校を卒業することができた。そして系列の大学(看護学部)に進学しクリスチャンナースとして人々に奉仕するようになった。

 現在結婚もしてお子様を育て上げ元気に生活しておられる。こういうことを奇跡と言うのだろう。ある人は難病でも癒され、ある人は生涯を終えられる。

 旧約聖書にヨブという人がいる。彼はすべてのものを与えられまたそれらが一瞬で失われる経験をした。その時に「主は与え、主はとりたもう。主の御名はほむべきかな」と言っている。何故あの人が癒されなかったのか?という疑問を持っている。何故なのかを教えて欲しいところだが神の摂理を全て理解することはできないと言われている。やがてイエスキリストがもう一度この地上に戻って私たち人類を救ってくださり天の御国に行った時にその理由を教えてもらえる。

 理由は分からないが今生かされていることには何か意味があるようだ。私のように「死にたい」と切望するような人間も今は生きることが要求されている。「生きたくても生きられない人がいるのだから、死のうなどと思わないで生きなさい」という人がいる。恐らく死にたい人の気持ちを理解したことがない人なのだろう。しかし生かされている以上何か意味と目的があるのかも知れない。それがどんなに険しい茨の道でも。

あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。  Ⅰコリント10:13

There hath no temptation taken you but such as is common to man: but God is faithful, who will not suffer you to be tempted above that ye are able; but will with the temptation also make a way to escape, that ye may be able to bear it.

生徒の夢

 新任教師として中学校に赴任して中学の理科全般、技術家庭などを受け持ったが高等学校の物理も担当していた。当時は物理Ⅰ、物理Ⅱという講座名だった。物理Ⅱは選択科目設定してあり理系の大学進学を考えている生徒、また医歯薬系の受験生が受講する科目と位置付けられていた。最初の年の物理Ⅱ受講者は医学部進学希望が3名、そして歯学部希望が1名いた。

 歯学部進学希望の女子生徒Mさんはとても明るく元気の良い子で人一倍やる気のある生徒さんだった。最初の授業でオリエンテーションを行い2回目で彼らの実力がどの程度なのかを知るためにプレースメントテストを行った。そこまで難しくない内容だったが殆どの生徒さんが物理Ⅰの内容を8割程度理解している様子だった。しかし、このMさんが少しよくなかった。よくなかったというか非常に悪かった。物理Ⅰの内容をほとんど理解していない様子。Mさんは東京出身、家もそこまで離れたいないということもあり長期休暇(夏休み、冬休み、春休み)は実家に帰省している私もMさんも共に同じ教会に出席していた。そんなこともあり彼女は物理を担当する前から顔見知りではあった。ご両親が歯科医で彼女も後を継ぐために歯学部受験を考えているとのこと。が、現役で歯学部はかなり厳しい状況だった。

 物理だけならなんとかなったかもしれないが数学も英語も深刻な状態。そこで、寮制のメリットでもある夜間補習を週5日行うことにした。毎日わずか2時間ではあるが徹底的に物理を教えようとした。ちなみに彼女の実力、時速を秒速に変換する何でもない問題で「Mさん、1時間は何秒?」という質問に対して「少し待ってください」とじっと下を見て考えている様子。少し時間が経ったので「難しかったかな?」と聞くと「しっ!」と叱られてしまった。彼女は自分の腕時計を見ながらずっと数えていたようだった。これがMさんの実力と真面目さ。

 しかしやる気だけは人一倍ある彼女は卒業までこの補習を受け続けた。現役受験の時は全て不合格。どこかに彼女の真面目さとやる気を評価してくれる大学はないかな?などと考えていた。

 Mさんが卒業して最初の夏休み、地元の教会で彼女にあった。合格させられなかった負目もあり私の方からは声を掛けづらい状況だったが彼女の方からいつもの屈託のない笑顔で

 「先生、お元気ですか?私決めたんですよ」と切り出してくれた。

 「決めたって何を?」

「私浪人して予備校に通っていたんですけどやはり合わないなって思ったんです」

「合わないって、予備校が?歯学部が?」

「いえ、日本が」

「…」

「で、私留学することに決めました。来週日本を発ちます。」

「そ、そうか。そ、それはよかった。」

 本音をいうと「日本でも難しいのに言語のハードルをあげて渡米するってどういうこと?」という気持ちを持ってしまった。大丈夫かな、と心配する教師のことなど意に介さず結局彼女は渡米し留学。4年ぐらい経った夏休み。私は数名の先生方とアメリカを2週間キャンプしながら旅をするチャンスに恵まれ、勿論途中で彼女との再会を果たした。何と彼女はE.S.L.をきちんと終了して正式に歯学部で学んでいた。その後e-mailというのが少しずつ流行りだしMさんとも時々連絡を取っていた。

 その後Mさんはある牧師さんと結婚し歯学部ももう少しで卒業というところで家庭に入ることに。しかし、その後も彼女の歯科医になりたいという夢は消えることがなく、また大学で学び始め卒業を果たした。しばらくは歯科医としてクリニックで働いていたがお子さんが生まれて子育てに追われるようになりまた家庭に入って専業主婦に。

 彼女が歯科医になっただけでも信じられない話なのだが、更に奇跡は続く。

 お子様方が小学校に入るようになり、少し自分の時間が取れるようになったある日、ご主人(牧師)の教会に一人の見慣れない初老の男性が来られた。初めて来られた方だったのでこの牧師さんと牧師夫人(Mさん)はこの男性と昼食を摂りながら色々なお話ししたとのこと。聞けば、この男性は歯科医だったけど年齢的に仕事を続けるのが難しいと思い、自身のクリニックを手放して今は各地を旅行で回っているという。彼女が、自分も歯科医であることを告げると「私のクリニックを居抜きで買わないか」と言ってこられた。相場の90%offぐらいの価格だったらしい。結局彼女はそのクリニックを破格の値段で買取自分のクリニックを開院した。

 人間的に考えた時に「絶対に無理」ということがある。確かにあると思う。世の中で受験指導で評価される先生というのは無理なものは諦めさせ余計な夢を見せずに、でももしかしたら到達できるかも知れないところに生徒を導き合格させられる人なのかもしれない。

 しかし自分はそのような価値観が一番大切だとは思っていない。人の人生など高校生や中学生の実力、特に学力だけでは決して判断できないし、彼らを導く神の存在を無視して将来など決して考えられない。夢を持つ責任はあると思うがあまりにも現実だけで全てを判断してしまうと人を傷つけるだけで終わってしまうと思う。現にMさんは進学指導に定評のある先生が見たら10人が10人歯学部受験を諦めさせてであろう。しかし彼女はそのような先生に出会わなかったおかげで歯科医に慣れた、というか自分の夢を叶えることができたのである。

 このような話は私の教員生活でいくつも経験したことである。目に見えない世界を意識して生徒を見たら救われる生徒さんもいるように思う。

 

ラザロって誰?ラザロの家って何?

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 イエスキリストが神という存在でありながら人類の罪を全て贖う(自分の死によって人々を罪の無いものとする働き)ために人間となってこの世界にこられました。キリスト教の用語でこれを「キリストの受肉(じゅにく)」と言います。イエスキリストは大工の息子として生まれ、成長しますが31歳頃「バプテスマのヨハネ」という人からバプテスマ(先例)を受けます。これ以降を「イエスキリストの公生涯(こうしょうがい)」と言います。公生涯の期間はおよそ3年半。その間に弟子たちを12名の弟子を集め人々に福音を伝えられました。ユダヤ、サマリヤ、ガリラヤ地方を始め色々な場所で福音を伝えられました。転々と各地を巡り歩くため野宿をしたり迎え入れてくれる人の所に泊まって雨風を凌いでいました。

 「死海」の西側にエルサレムがありますがそこから3kmほどのところにベタニヤ村という集落があります。ここにマルタ(長女)マリヤ(次女)そしてラザロという人が住んでいました。聖書によるとイエスキリストはこのラザロの家を好んで訪問していました。そしてラザロたちもイエスキリスト御一行を心から歓迎していました。イエスキリストを招いたラザロの家はいつも愛と喜びで満ち溢れとても良い雰囲気であったと想像できます。

 イエスがヨルダン川の東側、ぺレアというところで伝道活動をしているときにラザロが病気で死にそうであるとの連絡を受けました。ぺレアからラザロのいるベタニアまでは徒歩で1日の距離。その知らせを受けて尚2日イエスはぺレアに滞在し活動しました。実は使いのものがイエスのところに行くためにベタニアを出発した直後にこのラザロは病のためなくなってしまったのです。

 知らせを聞いてから尚2日滞在したイエスは

「我が友ラザロのところに行こう」

と1日の距離を歩いてベタニアに向かいました。お分かりでしょうか。使いがイエスのところに行くのに1日、尚2日ぺレアに滞在し1日かけてベタニアに行ったわけですからラザロが亡くなって4日経った時にイエスはラザロの亡骸に対面するのです。ラザロは白い布に包まれて既に墓に葬られていました。

 当時ユダヤでは死者の魂は死後3日の間その肉体の周りをさまようと考えられていました。ですから3日以内に蘇生する人は稀にいたのかもしれません。

 しかしその蘇生の見込みもなくなった4日目にイエスはラザロのいる墓に向かって

「ラザロよ出て来なさい」

と言われました。すると本当にラザロが墓から出て来たのです。これが「ラザロの復活」という実話です。

 イエスが方々で病人を癒したり目の不自由な方を見えるようにしたり悪霊に取り憑かれている人を自由にするので、イエスの力が「ベルゼブル」という悪魔の力によるものであり神を冒涜する行為であるとユダヤ人指導者は考えていました。しかし今回は死者の復活という決定的な「メシア(救い主)にしかできない奇跡」を行ったためユダヤ人指導者(祭司長、パリサイ人など)は驚きと悔しさで当惑してしまいました。結局イエスの力を証明する生き証人であるラザロを殺すことにしてしまうのです。

 余談ですが私は身を隠したラザロがイエスキリストの十字架の場面でどこにいたのかを考えるのが好きです。いつも楽しい交わりをさせていただき、思い出もたくさんあるイエスキリスト。その方が十字架にかかる重大な場面でラザロは自分の命惜しさに隠れ続けていたとは思えないのです。どこかでずっと十字架上のイエスを見ていたのではないかと思いその場面を勝手に想像しています。

 長くなりましたがこのブログで出てくるラザロという人物がどのような人かお分かりいただけたでしょうか。そしてイエスが最も好んで何度も訪れていたのがラザロの家です。

今日も行ってみよう

ここに行けば何かがある

そのような場所になりたいと考え

「ラザロの家」

というタイトルをつけさせていただきました。私は悪人ですのでラザロとは対照的な人間ですので自分のことをラザロと言っているのではありません。ただラザロの家を目指して行きたいと思っています。

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問題児?

 

 赴任して最初に与えられた校務分掌の一つが中学3年生の副担任であった。記憶が曖昧ではあるが46名の生徒がいた。男子20名、女子26名。男子はいつも穏やかで信仰心に篤く誠実な生徒がほとんどだった。これに対して女子26名がとにかくうるさくて授業中などは学級崩壊寸前の状態。女子と言っても26名のうち13名は非常に大人しく学習にも実直に取り組むタイプの生徒。それに対してもう一つのグループの13名は常に賑やかで問題を起こすこともよくあった。

 新卒の私などは彼女たちの格好のターゲットであった。「先生、私の枕に縫い針が仕込まれていました」と泣きながら訴えてくる生徒。こちらも色々と調べ他の生徒からも情報を集めたが結局彼女の虚言であることが発覚。授業中も「先生の授業つまんなーい」「全然わかりませーん」などと言われる始末。当時はまだ鬱という言葉を知らなかったが自分の心が弱っていくのを感じた。出勤にため家のドアを開けようとするがどうしてもそれができない。自分がおかしくなっていくような気がした。唯一の救いが天使のような20名の男子。彼らが「先生大丈夫?」「気分転換にサッカー野郎」と誘ってくれた。彼らと良い方の13名女子がいたから何とか出勤できた。

 何の問題だったか忘れたがこの13名が一斉に問題を起こし全員自宅に帰し謹慎処分としたことがあった。まだ生徒からも受け入れてもらえていない自分が生徒を連れて彼女たちの家に行き親御さんに事情を説明し反省を促すのである。保護者面接もしたことがない自分が赴任一ヶ月で生徒指導で家庭訪問。絶対にあり得ない、と泣きたくなる思いで一旦自宅に戻り準備をした。そして急いで身支度を整えて家を出たら家の前にあの怖くて愛情深い教頭先生の車が。

 「乗りなさい」と言われ車に乗り込むと「君のホームルームなんだから君が親御さんにきちんと話しなさい。そして自分の気持ち、特にお子さんに対する君の愛情を伝えなさい。私はオブザーバー兼運転手で一緒に行くだけだから」と言ってくださった。不安で不安で仕方なかったから一気に涙が溢れて来た。今の時代、「怖い」というだけで敬遠してしまう若者が多いと聞くが怖さの先に深い愛情を持って育てようとする上司もいる。幸運なことに自分はそのような上司に巡り会えた。

 それからも色々な問題を起こす13名だったが私自身の気持ちをきちんと伝えることで少しずつ彼女たちの距離が縮まった気がした。

 2学期のある日この13名が私のところにきた。一人一人との距離は縮まった気がしていたが集団となるとやはり威圧感はあった。「あんたが言いなよ」「なんで私なの?あんたでしょ」などと小声で話していたが一人の生徒が「実は」と話し始めた。自分たちは確かに問題児だけど自分たちもどうして良いかわからないでいる、先生たちが私たちを問題児と決めつけるから余計に反抗して来た、先生(私のこと)は私たちのことを問題児と見るのかそうではないと見るのかずっと試して来た、だから今まで辛く当たってすみません、という内容だった。

 彼女たちが叫んでいたこと、分かって欲しいと訴えていたことに全く気づいていなかった自分を恥じた。そしてそのままを話し彼女たちを問題児と見ていたことを謝罪した。しかし先輩の先生方は決して君たちを問題児として見てはいなかったことを付け加えた。実際、彼女たちに対する指導方針を考える会を何度も持って来たが先輩の先生方から彼女たちを排除する発言は全くなく「まだ何かできることがあるはずだ」とみんなが真剣に話していた。そのことを彼女たちに伝えたら驚いた表情で口を開けながらも一人またひとり涙目になっていた。

 誰もが自分を分かって欲しい、と思っている。それは生徒だけでなく大人だってそう。そして人を育てる、特に方向性を変えることができるのは愛情だけであることもこの時学んだ。教員生活半年で最も大切なことを全部教えていただいた。勿論その後このホームルームの雰囲気は見違えるように良くなり最上級生として下級生から尊敬され慕われる存在となっていった。元々の問題児なんていない。ただ彼らを見る目が悪意なら彼らを問題児にする。

就 職

 大学を卒業して母校に赴任することになった。今のように年内に決まるような組織ではなかったため2月になって内定をもらった。大学の研究室では「本当に就職できるのか」と教授が心配してくださり、当時は学生一人に対して30社ぐらいのオファーがあった(物理学科の場合)時代なので上場企業に就職するようかなりすすめられた。

 不安の中で祈りながら内定を待っていた時に通知が来たのでとても嬉しかったことを記憶している。一貫校ではあるが高等学校の所属で内定をいただいた。もともと教員志望だったが家庭の事情で家業を継がなくてはならなかった父がたいそう喜んでくれた。また母は「これから一人前の社会人になるんだから」と言って高価な実印を作ってくれた。

 月給の面では大学時代のアルバイトよりも下がることになるがそれでも憧れの恩師A先生(授業中よく寝てしまう物理教師)と同じところで働けることが嬉しかった。

 ところが赴任直前の3月後半になって「やはり中学校での採用になった」との連絡があった。これにはかなり落ち込んだ。中学校に所属しながら高校の物理は講師として教えることになるということだったので少しは救われたが、やはり高等学校の教員になりたかった。同級生の同じタイミングで採用されたもう一人の友人がいるが彼は高等学校の採用だった。浪人の時に味わったような敗北感に押しつぶされそうになった。が、後々この経験が自分を大きく成長させてくれる機会となった。

 というのも高等学校は新卒者に対して「現場で仕事を覚えろ」という体質だったが中学校はそうではなかった。愛情深く非常に怖かった教頭先生はじめ全ての先生方がたった一人の新規採用者を人愛深く育ててくださったからだ。注意されることも多く、叱られたこともあった。しかしいつも私のことを気にかけてくださり共に祈り励ましてくださる先生方によってクリスチャン教師として何を見て何を優先すべきかを徹底的に教えていただくことができた。これは自分の教師生活においてとても大きな祝福となった。

 「人間万事塞翁が馬」という言葉がある。キリスト教では「変装して近づく祝福(Blessing to approach in disguise)」と表現する人もいる。要するに「これは嫌だな、こんなことが起こって困ったな」と思うことが実はその人の人生を豊かにする出来事であるかもしれない、のである。

 特にキリスト教界では「摂理」というものがあり、試練や苦しむ経験は神様による祝福のご計画であると理解する。その時はそう思えなくても後で振り返って「あぁ、これで良かったんだ」と思える時は来るのであまりつぶやず人生を歩むことが肝要であると教える。

生い立ち・夢の変遷

 東京都板橋区に生まれ育った。商店街の真ん中にある一軒家でバーや飲み屋さん、立ち飲み酒屋などがある環境だったため小学校に通う通学路に朝方から酔っ払った人が寝ていたり通学中の子どもたちにちょっかいを出すこともよくあるような場所。バタ屋さんもあるような街だったけどとても好きな場所だった。

 中学は私立の全寮制の学校に入学しそのまま高校卒業まで寮生活をした。小学校高学年の頃から電子工作に興味を持ち始め午前の野球チームの練習が終わると秋葉原に部品を買いに行ったり半田ごてで何かを作るような日曜日を過ごしていた。中学ではアマチュア無線をはじめ、将来は無線に関係するような仕事に就きたいと考えるようになった。最初の夢は船舶の通信士。しかし友人のお父さんが通信士をしており一度船に乗ると3ヶ月ぐらい帰ってこないことを聞き、自分には無理なのではないかと思うようになった。

 次に考えたのが航空管制官。高校時代は航空管制官、またはエンジニアを目指し進学する大学も工学部を中心に考えていた。高3の時に出会った物理の先生から受けた影響が非常に大きかった。お忙しくしていた先生だったので物理の授業中先生が稲売りをしてしまうこともしばしば。先生が眠てしまうと僕たちは自習体制に入る。だから物理について先生から教えていただいたことはそれほど多くはない。が、先生から人生を教えていただいた。

 最初は受験科目として必死に学んでいた物理であったがその先生の影響もあり、物理という学問そのものに興味を持つようになった。結果的に受験の時には、それまで工学部一筋だったのに理学部も受験するようになった。力不足のため希望の大学に合格できず。浪人することに。一浪した後も航空管制官などの無線に携わる仕事と物理を教える教員との狭間で悩み続け、信じる神様にその道を委ねることにした。理学部と工学部を半分ずつ受けた。が、少しだけ工学部に進みたい気持ちが強かったので滑り止めは工学部にした。

 結果は工学部全滅。これが神様の御心と信じ理学部物理学科に進学することになった。そして卒業後教員として母校にて教鞭をとることとなった。