たとえ話

易しいこと、難しいこと

高等学校「物理」で教える内容には難しいことと易しいことがある。例えばドップラー効果。これは発音体(音源)とそれを聞く人(観測者)の相対的な速度によって、発音体が出している本来の振動数よりも大きい音(高い音)や小さい音(低い音)が聞こえる現象だが、救急車が通過することでこの現象を日常的に経験している。日常経験していることを説明するのはさほど難しくない。ところが、自由電子の動きを説明するのは結構難しい。しかも自由電子の動きは波動性が顕著に現れるので質点のように論じることはできない。目に見えないもの、目で確認できない世界を説明するのは非常に難しい。これをなんとか説明し、理解してもらわないと行けないので、日常的に経験することや直感的にイメージできるものに置き換えて説明する。要するに他のものに「例える」のである。

理解できないサイン

先日温泉に行き、おかしなサインを見つけた。一度その前を通り過ぎたが、頭に残っている残像が「今のサインを理解できない」と訴えているので靴箱まで踊り更に写真を撮ってみた。その写真がこれである。

この場所に靴を入れたら「履き間違い」に注意してください、或いはここは履き間違う可能性のある靴箱なのでそれが嫌なら「鍵のかかる靴箱」に入れてくださいという注意喚起なのか。もしかしたら、ここは「履き間違える」可能性のある靴箱です、という宣言なのか。意味は分かるような気がするが、意図は分からない。

とたえ

物理や数学の授業では、理解してもらうために「たとえ」を用いることがよくある。たとえ話、といえばイエスキリストの真骨頂である。しかしイエス様はこの例え話を「分かりやすく説明するため」には用いなかった。むしろ分かりにくくするために、たとえ話を用いたという。

10それから、弟子たちがイエスに近寄ってきて言った、「なぜ、彼らに譬でお話しになるのですか」。 11そこでイエスは答えて言われた、「あなたがたには、天国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていない。 12おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。 13だから、彼らには譬で語るのである。それは彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである。 14こうしてイザヤの言った預言が、彼らの上に成就したのである。
マタイ13:10-14

イエスキリストが語ったたとえ話は数多いが、有名どころは「種まきのたとえ」「放蕩息子のたとえ」「多ラントのたとえ」「失われた1匹の羊のたとえ」「善きサマリア人のたとえ」といったところだろうか。

これらを悟れない、と名指しされたのはパリサイ人や律法学者たちである。或いは今の自分かもしれない。何となく、たとえ話の意図するところは分かるが、それを心で受け止めるには困難なことがある。もしもパリサイ人が「善きサマリア人」のたとえを聞いたらどうだろうか。意味は理解できても、敵視しているサマリア人を「超善人」かのように持ち上げるこの話は心情的に受け入れられないと思う。これがサマリア人ではなく「あるアブラハムの子孫が・・・」だったら何ら抵抗なくこのたとえ話を受け入れられるのかもしれない。そう考えると、たとえ話の奥義を自分はまだ理解していないのかもしれないと不安に思ってしまう。常に聖書を開く前に祈り、悟る霊を与え聖霊様ご自身が語ってくださることを願い求める必要があることを感じた。

聖書の読み方:イエスのたとえ話 The Parables of Jesus

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