別 れ

思い出

新任で着任した中学校では3年生の副担任をさせていただいた。なかなかやんちゃさんの多い学年で苦労はしたが学ぶことが多く非常に有意義な1年間を過ごさせてもらった。担任の先生は自分より10歳年上のS先生。自分が中学生の時に新任として赴任してこられた先生だ。昔は少し怖い印象もあったが、仕事でご一緒させていただいてからはそのような印象は微塵も感じさせない非常に温厚な先生でいらした。最初の学年はかなり苦労したがS先生と頻繁に祈りながら仕事をさせていただいたのを印象深く覚えている。洒落や冗談のわかる方でとにかく周りを笑顔にするのが得意な先生だ。英語の先生であるが発音の良さでは定評がありいくつかのスピーキングコンテストで賞を受賞されている。英文法をわかりやすく説明するため、先生独自の法則を考案しそれを教えてくださった。読書とバイクが趣味でオフの時間を上手に使ってバイクでツーリングを楽しんでいらした。読書量が多いこともあり文章が非常に上手で、漢字の使い方にも細心の注意を払って書かれるので非常に読み易い文章が特長的だった。歌も上手でアカペラのコーラスグループでは常にベースを担当しグループを支えていた。自分はこのS先生とご一緒させていただく機会が多くその後も担任、副担任として組ませていただいたことがあった。また、自分が沖縄に転勤したときもS先生は教頭先生として沖縄に転勤し、知っている先生が一緒にいらしたことをとても心強く思った。先生を3倍ぐらい明るくした陽気な奥様と双子の男の子の4人家族で、沖縄の赴任先ではその双子ちゃんを自分が担任させていただくことになった。この双子ちゃん、現在では30代でふたり揃って別々の家電量販店に勤務している。テレビや食洗機、洗濯機などを購入するときは双子ちゃんの両方に同じ金額が落ちるように計算して買い物をしておられた。コンピュータなどは家電量販店よりもインターネットで見つけたほうが安いことが多いが、必ず双子ちゃんのどちらかのお店で買っていた。家族思い、生徒思いの模範となる素晴らしいS先生である。

教頭時代

S先生は沖縄の中学校で教頭、そして校長先生までされたがやはり現場で教えたいという気持ちが強く転勤前の高等学校に戻り学年主任をしながら英語教育に専念された。当時、自分はこの高校で教頭をしていた。教頭といっても力のない者なので何かにつけてS先生に聴きながら教頭業務を行なっていた。本校のルールで通知表の所見類は全て教頭が目を通すことになっている。文章の得意な先生もいるがそうでない先生も結構いる。その都度付箋を貼って訂正をするのだが、このS先生だけは別格だった。ノーミスは当たり前。逆にこちらが漢字の使い方などを教えていただくような有様だった。ある年、S先生の学年に長期欠席の生徒がいた。沖縄の自宅で毎日を過ごしており、今後のことを相談したいので家庭訪問して欲しいと保護者から依頼を受けた。担任が行けない、とのことだったのでS先生と自分のふたりで沖縄に赴き家庭訪問した。飛行機を降り那覇空港でトイレに行くことにした。S先生が「僕はトイレが長いので迷惑を掛けると思います」と言って入っていかれた。確かにしばらく出てこなかったがそのときはあまり気にしなかった。レンタカーを借りて生徒宅に行く途中でS先生が急に「僕、膀胱癌の一歩手前で今度手術をするんだ」と話してくださった。一歩手前、というところに何とか希望を持ちながら「そうですか。無理なさらないでください。学期中の手術でもきちんと対応できるよう学校の方は準備しておきます」とだけ伝えた。

闘病生活

結局S先生は手術を受けられ授業にも復帰された。少し痩せられたが健康面での不安は無さそうだった。少なくともそのときはそのように見えた。それからかなり時間も経過し先生が手術したことも忘れかけた頃S先生が教頭室に来られた。少し体調が思わしくないので病院に行ったところ前回手術したところが癌化していると言われたそうだ。こちらの方が動揺してしまった。先生のご希望で先進医療である膀胱温存治療を受けるとのことであった。ただこの術式はほとんどのところでやっておらず先生が見つけて来られたのは大阪の病院1箇所だけだった。そしてしばらくののち手術を受けられた。この治療は日本中から患者さんが集まるためかなり待たされるがそれでも早い方だという。手術を終えてしばらくの療養期間を経てS先生は現場に復帰した。本当に嬉しかった。昔からお世話になり実の兄のように慕っていた先生が復帰されてことはこの上ない喜びだった。いつもの笑顔と明るさをそのままに更に磨きのかかったギャグセンスに完全復帰を確信した。決して少なくない授業にも誠実に準備をして臨まれ毎日が充実しているように見えた。が、奥様とお話ししたところ、最近関節や背中、首が痛むとのことだった。それから間も無く近くの大きな総合病院にいかれ検査をしたところ骨転移が認められるとのことだった。すぐに入院した。そして大阪の病院にあきが出るのを待った。数週間入院したところで大阪にあきがでたので転院する事になった。大阪まではおよそ400km。自分はキャンピングカーを借りて寝ながら移動できることを考えた。が、入院中の病院からは許可が下りず結局民間の救急車で大阪まで行く事になった。そして手術も含め治療が行われた。

久しぶりの再会

冬に転院して春にお見舞いのため大阪に行った。久しぶりにお会いする先生だったが比較的元気そうだった。長居は禁物と思いながらも昔の思い出話や現在の学校の様子を報告して軽く1時間を過ぎてしまった。またきます、と言って病室を出ると、奥様が「下まで送りますよ」と言ってくださった。何かを話したそうだったので1階のロビーでお話しを伺うと「色々なところに転移していて、今回は難しいかもしれないと言われている」と話してくださった。その場でふたりでお祈りをして病院を後にした。「難しいかもしれない」という言葉だけがずっと心の中で去来した。新幹線に乗っている時もずっと。毎日祈り続け奥様とも連絡を取りながらそれを校長に報告していた。本校では中間試験が5月の中旬から下旬にかけて行われる。学校では「学校基本調査」というものが行われ5月の初旬は連休どころではない。が、試験週になると少しゆとりができる。この機会にと思い立ち校長に許可をもらって大阪までS先生に会いに行った。これが5月23日と記憶している。そのときは結構衰弱しておられ「もっと近くにきてくれる?顔がよく見えないんだ。」とおっしゃっていた。会話の途中で寝てしまうこともあり意識が混濁している様子が見られた。でも、体を少し起こして学校の様子を嬉しそうに聞いてくださった。疲れが出てしまうといけないと40分ぐらいで退室した。また奥様が「下まで送りますよ」と言ってくださり1階のロビーで話した。具体的な葬儀についてであった。誰に何をして欲しいのか、どのような葬儀にしたいのか、親族が集まった場合の宿泊場所の手配等々。「そういう話はその時に。今は回復を信じましょう」と言いながらも奥様がおっしゃられたことを全て書き留めた。家に戻ったがその晩はなかなか眠れなかった。そして翌日、もう少しで日付が変わるという時間になって奥様からメールが入った。「今主人が亡くなりました。」ついにそのときが来てしまった。5月24日。とにかく校長に連絡しこちらの受け入れ態勢を整える準備を始めた。葬儀を進行される牧師先生、告別のメッセージを語られる牧師先生など一通りのプログラムを作り御遺影の準備もすぐにした。結局奥様と話をしていたのが自分だったので何となく葬儀委員長のような役を引き受ける事になった。とにかく奥様はじめ双子ちゃんやご親族ご遺族の事情を最優先して心からの告別式にしようと決めた。告別式の後出棺し火葬場から戻る時に先生のご自宅の前を通らせていただいた。自分がご親族を乗せたマイクロバスを運転していたのであれだけ帰りたかった家の前を通り、そして向かいの駐車場においてある主人を待つ先生自慢のバイクにも一礼した。

死が本当に最後なら

死が最後ならこれほど悲しいことはない。享年64。まだまだこれからという若さである。67歳定年の本校でも十分働けるし退職後も非常勤講師として勤務が可能である。本当に残念である。が、私たちクリスチャンは死が終わりだとは考えていない。聖書によれば死は眠りでありやがて来るべき主イエスキリストの御再臨の時に目覚め永遠の命をいただくのである。若々しく、一瞬で最も美しい姿に変えられるのである。栄光の体に変化しイエスキリストに迎えられるのである。だから、私はS先生と再会できる確信がありそれが希望となっている。この投稿を読んでくださっている方、是非このキリスト教の真骨頂である再臨信仰を持っていただきたい。自分にはその信仰を持てるように手引きする力はないが自分の信頼する牧師先生を紹介することはできる。是非興味があればコメントにてその意思表示をしていただきたいと思っている。死で終わったらもったいない。死の先に復活がありその先の人生があることを蘇ったイエスキリストがその初穂となって私たちに示してくださっている。是非死の先を真剣に考えていただきたい。

youtubeを検索していたら御再臨の様子を讃美歌にしたものを発見した。中学生が歌っているようだ。聖書の言葉通りの歌詞でとても感動した。讃美歌の動画はこちら「主が来られる時」

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