待ち望む
神様を信じることで不安や恐れから解放されるはずであるが、やはり自分の信仰には問題があるのかなかなか解放されず深い闇の中に迷い込むことがある。昨晩もそうだった。不安と恐れから動悸が止まらず「これで終われるのかな」と思った。毎日人生の「底」なるものを感じているが「更なる底」を経験し、神様は本当に助けてくださっているのだろうかと疑問を持ってしまうことがある。情けない。神様に毎日支えていただいているのに、この程度のことしか考えられない。一瞬でも平安を感じようものならその何倍も落ち込むことを毎日繰り返しているとやはり辛くなってくる。もう終わりにならないかな・・・と思ってしまう。
聖書に登場する信仰の偉人たちの殆どが「忍耐して待つ」経験をしている。忍耐することが苦手な自分だが、強いられて忍耐している。「主よ、いつまでですか」と叫びたくなるくらい終わりが見えない。「助けてください」と必死に祈っても更に追い討ちをかけるような出来事に遭遇する。それでも神様からは沈黙という答えしかいただけない。まだ忍耐しなさい、ということなのだろう。
文章のやりとりが手紙に頼っていた頃、それが届く数日間は待つ必要があった。写真を撮っても現像してプリントされるまでには待たなければならなかった。しかし、現在は多くの場合待ち時間が短縮されるようになった。そして自分もいつの間にか待つことが苦手になってしまったのかもしれない。阪大総長などを歴任した鷲田清一氏はその著書「『待つ』ということ」のなかで次のように述べている。
待たなくて良い社会になった。待つことができない社会になった。・・・意のままにならないもの、どうしようもないもの、じっとしているしかないもの、そういうものへの感受性を私たちはいつかなくしたのだろうか。
鷲田清一 「待つ」ということ
主よいつまでですか
自分と同じように「主よ、いつまで待たなくてはならないのですか」と祈った人がいる。ダビデである。他にもいるがダビデは聖書「詩篇」の中で何度となくこの質問を繰り返している。
「主よ、いつまでなのですか。 とこしえにわたしをお忘れになるのですか。 いつまで、み顔をわたしに隠されるのですか。」
詩篇 13:1 口語訳
アブラムは神様の約束を信じて待った。イサクもヤコブも、モーセもノアも。みんな待った。待つことで心が耕され神様の思いを理解できるまでに信仰が引き上げられた。
自分にはもう待つ力がなくなっているように感じている。それでも自分の全てを知っておられる神様が「待て」と仰るのであればそこには意味があり待つ力も与えられるのだろう。きついけど、もう一度。そしてもう少し。
池宮城義一牧師 広島三育学院 高校チャペル礼拝 20220205
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