仲間割れ?

パウロ

今日の聖書通読が「ガラテヤ人への手紙」からはじまりエペソ4章までだった。コリント人への手紙、ローマ人への手紙でパウロが展開する神学の素晴らしさに感動していた。2000年前、既にこういう神学があったことに驚いた。そして今日読んだガラテヤ人への手紙では相変わらずパウロの「熱さ」がクローズアップされていた。中でも真剣に、しかし少し微笑ましく読んでいたのがアンテオケでの場面。

アンテオケ事件

11ところが、ケパがアンテオケにきたとき、彼に非難すべきことがあったので、わたしは面とむかって彼をなじった。 12というのは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、彼は異邦人と食を共にしていたのに、彼らがきてからは、割礼の者どもを恐れ、しだいに身を引いて離れて行ったからである。 13そして、ほかのユダヤ人たちも彼と共に偽善の行為をし、バルナバまでがそのような偽善に引きずり込まれた。 14彼らが福音の真理に従ってまっすぐに歩いていないのを見て、わたしは衆人の面前でケパに言った、「あなたは、ユダヤ人であるのに、自分自身はユダヤ人のように生活しないで、異邦人のように生活していながら、どうして異邦人にユダヤ人のようになることをしいるのか」。
15わたしたちは生れながらのユダヤ人であって、異邦人なる罪人ではないが、 16人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて、わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである。それは、律法の行いによるのではなく、キリストを信じる信仰によって義とされるためである。なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである。 17しかし、キリストにあって義とされることを求めることによって、わたしたち自身が罪人であるとされるのなら、キリストは罪に仕える者なのであろうか。断じてそうではない。 18もしわたしが、いったん打ちこわしたものを、再び建てるとすれば、それこそ、自分が違反者であることを表明することになる。 19わたしは、神に生きるために、律法によって律法に死んだ。わたしはキリストと共に十字架につけられた。 20生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。 21わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。
ガラテヤ人への手紙2:11-21

パウロがペテロを呼ぶときには「ペテロ」ではなく「ケパ(ケファ)」と言うが信仰による義を徹底して主張するパウロにとって割礼にこだわるペテロを批判しないわけには行かなかったのだろう。そして伝道旅行を共にした自分の右腕でもある「バルナバ」についても「バルナバまでも・・・」と「ブルータス、お前もか」的な表現をしている。

真のぶつかり合い

自分の考え、または自分自身を認めてもらうために熱くなることは間々ある。しかしパウロの場合はジブのことなど全く眼中にない。とにかくイエスキリストのことだけである。イエスキリストを中心にした激論はイエス様も微笑ましく見ていらっしゃるのではないかと思う。これは仲間割れでも分裂でもない。イエスキリストを擁護しイエスキリストの愛を明確にするための衝突は、ある意味クリスチャンの醍醐味ではないかと思う。聖書を読んでいて、何かとても心が満たされて行く気がした。

「悲しむ人々は幸いである」  李 根完 牧師

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